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 一度樹の上に登ってみると、五人は樹上探索を後回しにしたことの浅はかさを思い知る気持ちだった。

 三次元にひろがる樹上の世界は地上の何倍も広く、複雑だった。ふつう樹木というものは、光合成をするために光を求めて高く伸び、枝を差し伸べて葉をつける。そのため原生林でも日当たりなどによってある程度の法則性は見られるものだが、魔力で出来ているこの森の樹々は滅茶苦茶であった。細い枝から分かれた枝がもとの枝よりも太くなっていたり、ジェットコースターのようにねじくれていたり、またその逆に定規で引いたように真っ直ぐだったりした。とんでもないところに葉が茂っていたり、近くに生えている樹が斜めに伸びてきて交差しているような場所もあった。蓮太郎たちは、この森の樹々は地球のそれとは逆に、上に行けばいくほど太くなっているのではないかと噂しあった。

 三十分も経つともはや同じ一本の樹を登っているという認識すらあやふやになっていた。最初親玉に案内すると言われたとき、蓮太郎は正直木登りに案内もくそもあるのかな、などと思ったものだが、これではなるほど案内なしには狙った場所に出るのは困難だろう。

「わたし、ほんとは高いとこダメなんですけど」

 築音が何十本目かに垂らしたロープをウリユが登るのを見守りながら、友がつぶやいた。

「なぜかこれは全然怖くないですね」

「地面なんてまったく見えないものね。もう数十メートルは登っているはずだけど、高いところにいる実感がまったく湧かないわ」

「この分なら秋本さんたちが落ちても怪我にはならなさそうだな。すぐどっかに引っかかるだろうし」

「いよいよ危ないのは伊坂くんだけね。気をつけなさいよ」

「おうさ」

 蓮太郎が安全帯のフックを軽く引っ張りながら答える。枝の太さも出鱈目に生えているおかげで、引っ掛ける場所に事欠くことはない。頭上に覆いかぶさってくるような枝々を見上げながら、蓮太郎はしみじみと言った。

「しかし、これだけ生い茂ってても、どこも同じように明るいのはむしろ不気味だな」

「違和感がありますよね。……ここに太陽なんてないでしょうし、何が光源になってるんでしょうか?」

「さあ。他の部屋にも光源みたいなものはなかったし、魔力そのものが光を放っているのかもしれないわね」

「なんにしろ、いびつな世界だよなあ……」

「ん、なんの話?」

 ウリユが登りきり、築音がすとんと飛び降りてきた。ウリユをあまり一人にさせてはおけないので、急いで次の順番である友が登っていく。

「……いや、たいした話じゃない。考察はこれが終わってから、またゆっくりやるか」

「ほむ?」

 蓮太郎はきょとんとする妹の背中におぶさって、安全帯のフックをつけ替えた。

 枝と葉の密林の中をなおも少しずつ登っていく。応援の効果が少ない麻咲と、おぶさって移動しているとはいえ無強化の蓮太郎が疲労を覚えはじめたころ、ようやく辺りの風景に変化がおとずれた。明らかに幹と枝の圧力がやわらぎ、枝の隙間を通して天井が見えるようになったのだ。それはやはり空ではなく天井というべきで、いつか予想した通り階層端をとりまく壁と同じ、根とも枝ともつかないものが寄り集まってできているようだった。

 蓮太郎たちが登っている樹はどうやら階層の中心点にあり、他の樹々はこの樹に寄り添うように幹や枝を伸ばしてきているようだった。さらに登るとその樹々も数を減らし、ついには今蓮太郎たちが立っている樹のほかには、あと一本だけの樹がかろうじて枝をからませているばかりという場所に辿り着いた。

【あれだ】

 蓮太郎たちから距離を取るように、そのもう一本の樹のてっぺんに立ったカエルザルの親玉が上を指差して短く言った。ここより上はもう、蓮太郎たちの立つ樹しか幹を伸ばしていない。幹の太さはひと抱えほどにまで狭まり、ろくに枝葉もつけずにひょろりと天井まで真っ直ぐに続いている。天辺はそのまま天井に飲まれるように埋まっているため、この階層ぜんたいが一本の樹でできているようにも見えた。

 扉はそこにあった。幹がちょうど天井に達する部分で、足場を作るように枝の何本かが水平に伸びている。その足場にむけて天井が一部せり出すような形になっており、そこに扉がついていた。ちょうどラ・スボスの間からこの階層に出てくる扉とまったく同じ意匠だったため、蓮太郎たちにはすぐにそれと分かった。

「……」

 はるか上で豆粒ほどの大きさに見える扉を一同はしばし呆然と見つめていたが、やがてぽつりとウリユがこう言った。

「トテモ ムツカシイ デス……」

 まだ語彙のすくないウリユのためその表現だったが、実際難しいというレベルではなかった。

「……難しいというか、あれは反則じゃないですか?」

「ノーヒントだったら何百年かけても見つかりそうにないわね」

「森林伐採して正解だったな」

「いや、それこそうっかりこの樹を斬ってたら、完全に詰んでましたよね……」

「親玉さんに感謝だね。なんか、ホントに案内してくれただけだったみたいだし」

 築音に言われて、はっと一同は視線を親玉に戻す。カエルザルの親玉は相変わらず隣の樹の上で、感情の読み取れない顔でじっとこちらを見ていた。

「……どうも、ちゃんと約束を果たしてくれたみたいですね。ありがとうございます」

【不要だ】

 代表して蓮太郎が礼を言うと、親玉はゆっくりと首を振った。

【これ以上の案内は必要あるまい。扉を確かめてくるといい】

 親玉の言葉に皆が頷く。役目を終えたとばかりに立ち去るのかといっしゅん思ったが、親玉に動く気配はない。どうやら扉に辿り着くのを最後まで見届けるつもりらしかった。

「えっと……今まで通り、あたしが先に登ってみるんでいいのかな?」

「というか築音ちゃん以外登れそうもないというか……。大丈夫? つかまる所もほとんどないけど」

「しがみつける太さにはなってるし、たぶん大丈夫。……アーニャ」

「おう、『かわいい妹ならきっと大丈夫だ、頼んだぞ』」

 蓮太郎は念のためもう一度応援を重ねがけして、築音の身体にかけたロープから安全帯のフックを外した。そしてしばらくフックを彷徨わせたのち、小枝が蔦のように丸まっている場所を見つけてしっかりとフックをかける。ウリユ、友、麻咲もそれぞれのフックを近くの枝にかけ、築音を見守る姿勢をとった。

「さて……ほいやっとな!」

 築音が最後の幹にとりついて登り始めた。股関節を柔らかく使って、膝で樹をかかえこむようにして器用にするすると登っていく。友が「おおー」と思わず感嘆の声を上げるころには、もう残り半分ほどの位置にまで達していた。

「大丈夫そうだな。あとは妹がロープを垂らしてくれれば、みんなも上がれるだろ」

「さすがにこれだけひらけた場所だと、ちょっと怖いですけどね……」

「というか次の階層へ行くのに、毎回ここまで登ってこなくちゃいけないのかしらね?」

「ここまでのロープは残してあるし、慣れればそこまでかからないんじゃないかな。まあ、放課後に気軽に来るのは難しいかもしれんが」

 早くも次の階層の話をし始めていると、ついに登っている築音の手が最上部の枝にかかった。さすがに慎重に身体を引っ張りあげると、枝の上に立ち上がる。枝は三、四本平行に走って足場をなし、真っ直ぐ扉に向かって伸びている。ついに次の階層へつづく扉の目前にまで到達したのだ。

「とうちゃーく! ついに来たよアーニャ、あれ開けていい?」

 枝から顔を覗かせる築音に蓮太郎は叫び返す。

「よくやった妹! でも先にロープを下ろせ!」

「はいさー!」

 扉を開けた瞬間に魔物が出てくるなどの事態も考えられる。ロープさえあればそれをつたって逃げてくることもできるし、逆に助けにいくこともできる。扉の向こうを早く知りたい気持ちをおさえて、蓮太郎はロープを優先するよう指示した。指示通りに築音は顔を引っ込め、ロープを固定する作業にかかった。

 この瞬間だった。築音だけが手の届かない場所にいて、かつ下から意識をはずしている。下にいる四人はそれを見上げて築音の動向を気にしている。この瞬間を待っていたものが、いた。


  ◇  ◇  ◇


 『それ』にもかつては名前があった。魔力によって作られた人型の魔物『魔人』として生み出され、この大迷宮において階層主という大任と、誉れある名前を授けられた。しかし『それ』にかつての名前を名乗る気はもうない。何よりも、現在の醜い姿――筋肉ばかり肥大した猿の身体に無理やり蛙の頭を据え付けたような醜い姿が、かつての自分と同じ存在であると認めたくなかったからだ。

 あのウリユと呼ばれる女戦士に打倒されたのち、ラ・スボスが滅んで解放されるはずだったそれを構成していた魔力は、迷宮入口の封印により逆流し、暴走した。結果として歪な形で復活することになったそれにはもう名前もなければ果たすべき使命もない。あるのはただ、自分がこんな姿になる原因となったウリユと、その仲間らしき人間たちへの憎悪だけだった。

 だから彼らがそれの階層へと侵入してきた時、それは迷わず自分の体毛から生まれた眷属――自分同様に醜い魔物を眷属であるとは認めたくなかったが――をけしかけた。ウリユはかつてそれを打倒した時よりも著しく弱体化しており、襲撃はうまくいくかと思われた。だがあの忌々しい人間どもが乱入してきたために、眷属たちはなすすべもなく消滅させられたのだった。

 正攻法では勝てないことを悟ったそれは、観察した。それは眷属たちと視覚と聴覚を共有することができた。小出しに眷属をけしかけて、人間どもの戦力を見極めようとした。ウリユは弱体化しているため、はじめはツクネと呼ばれる聖剣の持ち主が一番の脅威と思われた。だがさらに観察した結果、彼ら全員に増幅魔法をかけている人間がいると分かったのだ。その増幅魔法は長い時を生きてきたそれにも覚えがないほど強力で、弱体化したはずのウリユはもちろん、何の力もないはずの小娘すら眷属たちを圧倒するほどの力を得るのだった。

 それは増幅魔法の使い手を一番の標的としてマークすることにした。まもなくそれにとって都合の良いことに、使い手自身は何の戦闘能力も持たないことが分かった。使い手は仲間からいろいろな名で呼ばれていたが、それは心の中で標的をアーニャと呼ぶことにした。

 それは何重にも策をめぐらした。そして今、ついにアーニャを始末するための条件がそろったのだ。


 築音はロープを固定するのに集中していた。蓮太郎、友、麻咲はそんな築音を注視していた。だがウリユだけは無駄口も叩かず、築音を見上げるふりをしつつも、カエルザルの親玉の動向を油断なく見張ってはいたのだった。

 しかしそれはあまりにも穏やかで何気ない動きだった。隣の樹にじっと立っていた親玉は、ちょいと鼻の頭でも掻くかのようなさりげなさで右手をあげ、頭のそばにある枝をつかんだ。その枝はちょうど、ウリユたちのいる中心樹に向かって伸び、絡みついている枝だった。親玉はこれまたほとんど動きらしい動きもなく、右手を握りしめるようにしてその枝を折った。親玉のしたことは、右手をあげて枝を折った、それだけだった。

 だが次の瞬間、蓮太郎の身体が何かに引っ張られるように浮き上がった。ウリユはぎょっとして瞠目した。蓮太郎がフックを引っ掛けた枝――それは今いる樹に寄り添うように立っている隣の樹から伸びている枝だった。その隣にあったはずの樹が、いかなるわけか凄い勢いで離れていこうとしていたのだ。

『まずい――ッ!』

 ウリユは思わず母国語で叫んだが、その声の切実さは友と麻咲にも伝わった。ようやく事態に気づいた二人をおいて、ウリユは自分だけでも蓮太郎に飛びつこうと足を踏み出した――

「ぐっ!」

 ――が、その身体は何かに引っ掛かってひき戻された。落下を防ぐための安全帯が、皮肉にもウリユに素早い行動を許さなかったのだ。

 フックをはずす間も惜しいとばかりに、ウリユは安全帯と繋がるロープを抜き打ちに斬った。しかしその一瞬の間に、蓮太郎は取り返しのつかないほど遠くに行っていた。ウリユ、友、麻咲の三人は、それを呆然と見送るほかなかった。

 蓮太郎と共に、当然同じ樹上に立っていたカエルザルの親玉も遠ざかっていく。

 その無表情の蛙面が、どこか笑みを浮かべているようにも見えた。

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