第五話【アーニャはあたしが守るからね】

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 日曜日の朝、蓮太郎はいつものように午前七時すぎに目を覚ました。窓から差し込む光だけでそれとわかる好天だった。窓を開け放つと、五月も終わりとはいえぴりりと冷たい朝の外気が入り込んでくる。裏山の鳥たちは今朝も元気に囀り、複数種類の鳥が渾然一体として絶え間なくさえずるために、むしろ静寂に思えるほどだった。

 リビングに降りて蓮太郎が驚いたことには、いつも寝起きのよくない妹がすでに起きていたことだった。といえ築音は朝食の準備をする母を手伝うでもなく、ソファに座ってぼうっと庭で素振りをするウリユを眺めている。ウリユが素振りをしているのは最近の日課で、振られているのは迷宮探索時には友が持つことになる土産物の木刀である。

「おはよう妹。なんだ、今朝は珍しく早いな」

「ん、アーニャぁよー」

 おはよう、と言ったつもりらしい築音は振り向いて、へらりと気の抜けた笑顔を向けた。

「今日はボス戦があるかもしれないから、あたしもちっとは気合い入れないとねー」

「気合いが入ってるようには見えないぞ。ウリユさんに稽古でもつけて貰ったらどうなんだ」

「素の状態だと相手になんないもん」

「それを相手になるよう努力するのが稽古ってものなんだ」

「そーなのかー」

 蓮太郎はふと、目の前の妹――剣道どころかチャンバラごっこがせいぜいだったはずの妹が、今では聖剣ハチドリを使いこなし、迷宮の魔物や森林をバッタバッタとなぎ倒していることの現実感のなさをあらためてまざまざと感じた。蓮太郎自身も迷宮探索に加わっているものの、実際に敵を倒すわけではない。突然に力を手に入れて、今や日常的にその力をふるっているはずの妹は、しかし蓮太郎が昔から見慣れた妹のままなのだった。

「アーニャー」

「なんだ妹」

「次の階層の扉、見つかるといーねえー」

「そうだな」

 築音はふにゃりと立ち上がると、やや唐突に、しかし彼女の中では明確に繋がりがあるのだろう、こんなことを言った。

「アーニャはあたしが守るからね」

「……そうだな」

 蓮太郎はかつて自分はこの一つ違いの妹に、同じようなことを言ってやったことがあったかな、と考え、思い出せないままうなずいた。


 朝食後そうそうに家を出た兄妹とウリユは、ナナタウン前の広場で友と麻咲と合流し、そのオープンを待ってモール内のホームセンターに向かった。ホームセンターと言ってもゾンビパニックに立てこもれるような規模ではなく、その品揃えも田舎らしい需要の影響を受けて花の種や苗や肥料などに占められてほとんど園芸用品店と化していたが、それでもどうにか人数分の安全帯と、大量の頑丈なロープを購入した。五人のおこづかいは枯渇しかかっていたので、兄妹はこのために朝から母を拝み倒さなければならなかった。

「アーニャ、おこづかい貯まったらこれ買おうよ」

 ホームセンターで物色中、築音はチェーンソーを見つけてそう言った。チェーンソーとしては小型なものだったが、触れるのをためらわせるような凶悪なフォルムはチェーンソー特有のものである。

「いらんだろ。お前には聖チェーンソーがあるだろ」

「えー、こっちのが強そうだよ」

 聖剣ハチドリが聞いたら泣きそうなやり取りもありつつ、一行は『おしゃれ泥棒』のナポリタンで腹ごしらえをして、秘密基地に戻った。

 各自の装備は基本的にはいつも通りだが、全員が買ったばかりの安全帯をしっかりと腰に巻く。また少し悩んだが、木登りになるので上方への視界が狭くなるヘルメットは付けないことにした。

 安全帯は主に工事現場などでの高所作業で用いられるもので、ベルトの脇から一メートルほどのロープが伸び、その先に金属製のフックが付いている。このフックを木の枝などに引っ掛けることで、足を踏み外した際の落下防止になるのだ。さらに築音はロープを二本、たすき掛けに体に巻いておくことにした。「強化中ならたぶん二、三人はぶら下げれるんじゃないかな」との本人の申告により、フックを引っ掛ける適当な枝がない場合はこのロープに引っ掛けることになった。

「……あれ、このロープ、ハサミじゃ切れないね」

「しまった、思いつかなかったなあ。頑丈さがウリなんだからそりゃそうか。ワイヤーカッターかなんか要るのか?」

「……ハチドリなら切れるんじゃないですか?」

「「それだ!」」

 さすがの聖剣の切れ味でロープは綺麗に切れたので、残りのロープも築音が持っておくことになった。樹やらロープやらばかり斬らされている聖剣が拗ねてしまわないかという懸念はさておき、かくして準備は整った。

「『妹は今日も一段とかわいい』『ウリユさん常に美しカッコいいです』『友ちゃんのその冷たい目もかわいいね』。秋本さん……かわいい、美しい、綺麗……くそうなんでだ、いや違うんだよホントに本心のはずなんだけど……あっはい、早くします。『愉快な名参謀さま』っと……ヨシ!」

 ラ・スボスの間で念入りに応援をかけ終え、蓮太郎たちは通い慣れた森林階層へと足を踏み入れた。


【来たか。返事を聞こうか】

 カエルザルの親玉は巨木の下に、昨日別れた時と寸分たがわぬ位置に突っ立って蓮太郎たちを待っていた。

「えーと、ひょっとしてあれからずっとここで待ってました?」

【その通りだ。気にすることはない、他にすることもないのだ】

「そ、そうですか……」

 その見た目にそぐわない律儀さに蓮太郎はたじろいで言った。築音が兄に身を寄せて耳打ちする。

「なんか、逆宮本武蔵って感じだね」

「意味不明だけど分かるわ。強制的に悪いことしたような気分になる」

 親玉はそんな蓮太郎たちの態度は気にならない様子で――もっとも、カエルに似た面相から感情を読み取ることはもとより困難ではあったが――【して、返事は】とうながした。

「決まった。次の階層への案内、ありがたく受け入れよう」

 ふにゃふにゃし始めた兄妹に代わり、気を張ったままのウリユが答えた。

「だが、貴殿を完全に信用するわけにいかないのは理解してもらいたい。変なそぶりを見せれば、攻撃をためらうことはない」

【それはこちらとて同じことだ。案内といっても登る方向を示す程度のもの。貴様らに近づくのはごめんこうむる】

「それはこちらとしても助かる。では、よろしく頼むぞ」

【分かった。ついて来るといい】

 言うや、親玉は音もなく飛び上がった。地上からみて四、五メートルほど上方の枝をつかむと、その体躯からは想像もつかない身の軽さで枝の上へと消えた。

「おー、あのへんはやっぱサルだね」

「おし。じゃあ妹、手はず通りに頼んだぞ」

「はいなー」

 築音はとんとんと二度跳ねて樹から距離を取ると、助走をつけて跳躍する。そのまま樹の幹を駆け上がり、あっという間に親玉が登っていったと同じ枝にとりついた。

「築音ちゃんすごーい……」

「妹、油断するなよ! 上の様子はどうだ!」

 このあたりの樹はまだ伐採していなかったため、今登ろうとしている巨木だけでなく周辺の樹もからみあうように枝を差し伸べており、樹の上は見通しがきかない。かろうじてタイツを穿いた足だけが見える状態で、築音が叫び返した。

「だいじょーぶ、なんもいないよ! 親玉はもっと上で待ってる!」

「よし! ロープ頼む!」

 築音はロープを垂らし、適当なところを聖剣で切った端を足元の枝にくくりつけていく。あっさりと樹を登る決断をくだした蓮太郎だったが、親玉の裏切りにそなえて、かなり細かく登る手順を決めていた。まず一行の中で最強の戦力であり、最も身軽でもある築音が自力で枝の上に登って、今のようにロープを垂らす。次にそのロープを使って、築音に次ぐ戦力であるウリユが上がって警戒をする。

 そこで築音は一旦下に降りる。主力が上にいる時を狙って下のメンバーが襲われる、といった事態を防ぐためだ。そうしておいて友、麻咲の順番で登り、最後に最弱である蓮太郎を築音が助けつつ上にあがるという手順だった。

 その手順通り、築音が見守るなかで、友と麻咲が幹を足掛かりにしながらロープをたぐってなんなく上がっていく。最後に蓮太郎がロープを掴み、足を幹にかけた。四、五メートル上の目標となる枝を見上げる。蓮太郎はそのままの姿勢でしばらく考えていたが、やがて「うむ!」と勢いよく言って、ロープから手を離した。

「やっぱ無理そうだわこれ! 生身でやれることじゃない!」

「だよねー」

 ロープの一本だけで垂直な壁を登るのは訓練した大人でも難しい。友と麻咲にしても、蓮太郎の増幅魔法(おうえん)がなければ絶対になしえなかっただろうことで、未強化の蓮太郎は早々に諦めることにした。

「すげー頑張れば最初ぐらいは登れるかもしらんけど、それで力尽きたら何にもならんよな」

「だねえ。まだまだ上がありそうだったし」

「すまんが妹、頼むわ」

「ほいさー」

 築音がしゃがみ、蓮太郎はその背中におぶさって、念のため築音の身体に巻かれたロープに安全帯のフックをかけた。

「じゃ、行くよー」

 蓮太郎は舌をかまないよう、無言でうなずく。ぐっと身体が沈み込んだかと思うと、築音は一息に跳躍した。

 途中位置を調整するために一度幹を蹴って、築音と蓮太郎は勢いよく枝の上に出た。上では特に戦闘になっているようなこともなく三人が待っており、枝の上に着地した築音を友が片手で支えた。

「よし、問題なさそうだな。この要領で、どんどん登っていくぞ!」

「それ、とりあえず妹から降りて言ってくれない?」

 呆れ顔の麻咲が言った。築音におぶさったまま号令しても締まらないのは当然であった。

「……ユダン、シナイデクダサイネー」

 と、木登り中は翻訳魔法に頼らないことにしているウリユが何度目になるかわからない注意をした。じっさい、何度でも『油断するなよ』と言っていないと油断しないことが困難な面子ではあった。

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