第二話【お兄さんはちょっと近寄らないでもらえます?】

1

 兄妹の通う仏宇野ふつうの高校では、今朝も多くの生徒がにぎにぎしく登校していた。季節は五月も半ばを迎え、生徒たちはようやく新しいクラスに馴染み始めたころである。早めに登校した兄はホームルーム前の喧噪の中で、昨日のできごとをぼうっと思い返していた。

(あの女戦士さん、眼を覚ましたかな……)

 意識を失っていた女戦士は、今朝になってもまだ眼を覚まさなかった。やむなく兄妹はその世話を母親に任せ、ふわふわとした落ち着かない気分のままに登校してきたのだ。思い返してみても、現実感のない出来事である。しかし兄は、夢だったのではないだろうか、とは思わなかった。なぜなら、今も夢ではなかった証拠が左腕に堅い感触をもたらしているからである。

「おはようさーん、ホームルーム始めるぞー」

 担任の女教師が入ってきて、教室内のざわめきが収まる。と、欠席がないかと見回した教師の視線が、兄のもとでぴたりと止まった。

「おい、伊坂」

「……」

「伊坂」

「……」

「……伊坂! 伊坂蓮太郎いさかれんたろう! 返事をせんか!」

 苛々とした口調で女教師が怒鳴る。それでようやく兄も自分が呼ばれていることに気づいた。たまに自分でも忘れそうになるが、アーニャではなく伊坂蓮太郎というのが兄の名前だ。

「はい」

「はいじゃない。それは何だ」

 さすがの蓮太郎もすぐにその意図に気づいて、自分の左腕をかざす。

「これですか?」

「おう。なに堂々と変なもんつけてんだ。確認するまでもなく校則違反だぞ」

 それはもちろん、昨日の謎空間で見つけた、そして妹の命を救ってくれたらしい、あの不思議な腕輪だった。校則違反なのは重々承知であったが、蓮太郎は困ったように眉をそびやかした。

「おっしゃる通りなんですけど、これ、外れなくなっちゃったんですよね」

「という設定なんだな?」

「設定じゃないですよ! 実はですね……」

 と、蓮太郎はあらかじめ用意しておいた言い訳を述べる。

「じいちゃん家にあった古い腕輪なんですけどね。サイズが小さかったのを無理やり嵌めてみたら抜けなくなっちゃって。俺も困ってるんですよ」

 実際にはサイズが小さいどころか、あつらえたように兄の手首にフィットしている。しかしそれゆえにどうにも外すことができないのも事実であった。

「……本当だろうな? それがカッコいいと思ってるなら正直やめたほうがいいぞ?」

「むしろイタいのは分かってますって。なんなら引っ張ってみます?」

「ふむ……」

 女教師は躊躇なくスタスタと兄に歩み寄ると、腕輪ごとその腕を掴み上げる。そしてもう一方の手で肩の根本を押さえると、腰を落として力の限り引っ張った!

「……ふんぬううう!!」

「!? いってえ!」

 鬼の如く顔を真っ赤にしてなおも引っ張り続ける女教師を、蓮太郎はその髪の毛を掴んでどうにか引き剥がした。

「びっくりした! そんな本気で引っ張る人います!?」

「……まだまだ!」

「『まだまだ!』じゃねーよ! 腕引っこ抜くつもりですか!?」

「うぬ……、まあ、今日はこれくらいにしておいてやろう」

「明日もやるつもりなの!?」

 まだ心なしか息の荒い女教師はそれには答えず教卓に戻ってゆき、何事もなかったかのようにホームルームを再開した。蓮太郎は腕をさすりながら、明日までに必ずこれを外す方法を見つけようと心に誓ったのであった。


 つつがなく授業は終わり、その日の放課後。

「いつつ……」

 蓮太郎は真っ赤になった手首をいたわりつつ、帰り支度をしていた。

「よー伊坂、今日は災難だったなあ」

 と、声をかけてきたのは蓮太郎の友人、鳩間慎二郎はとましんじろうである。

「おうハト。俺もまさか一限目から六限目まで全ての教師が、俺の腕を引っこ抜こうとするとは思わなかったよ。何なの? この学校の教師、腕輪に親でも殺されたの?」

「むしろ恨みがあるのは腕輪じゃなくて、お前個人なんじゃないのか?」

「その可能性からは意図的に目を背けていたんだけどなぁ」

 蓮太郎が腕輪を嵌めた手をひらひらとさせると、鳩間はふむ、と顔を近づけて、あらためてその不思議な意匠を眺めた。

「しかし、あれだけやって取れないとなるとヤバいな。金属製っぽいし、これもうレーザーとかで切断しないとダメなやつなんじゃないか?」

「手首をか?」

「なんでだよ。そんなスプラッタな解決法は提案しねーよ。普通に腕輪のほうを切れよ」

「うーん、できれば切る以外の方法を見つけたいところなんだよな……」

 腕輪に宿った不思議な力のことを知る兄としては、その選択肢はない。しかし、授業のたびに腕を引っこ抜かれるのも困った話ではあった。

 と、そんなことを考えていると、思わぬところから声がかけられた。

「そうね、切るなんてとんでもないわ」

「え……秋本さん?」

 声の主は、蓮太郎の隣の席に座る女生徒だった。その名を秋本麻咲あきもとあさきという。長い黒髪をどこも束ねず無造作に垂らしており、こちらもやや長い前髪の下に切れ長の瞳をのぞかせている。その容貌は学年でもちょっとした美人として有名だと蓮太郎も聞いたことがあった。

 蓮太郎の主観による彼女のパーソナリティは、ひとことで言うなら『寡黙』である。隣の席でありながら、この口数の少ない女生徒とはほとんど言葉も交わしたしたことがなかった。そんな麻咲に自分から話しかけられたものだから、蓮太郎は驚いた。彼女の無表情の視線は、じっと蓮太郎の腕輪にそそがれている。

「えっと……秋本さん、ひょっとしてこの腕輪について、何か知ってたりする?」

「いいえ、ただ……」

 麻咲はかぶりを振って否定したが、何かを言い澱んだようだった。

「ただ?」

 普段とは異なる様子のクラスメイトに興味を惹かれ、蓮太郎が問い返す。しかし、その答えを聞くことはできなかった。なぜならば――

「ア――――ニャ――――!!」

 ――放課後の喧騒を消し飛ばすほどの大声が、教室中に響き渡ったからである。

 勢いよくドアを開け放って飛び込んできたのは、麻咲と対照的に表情豊かな少女だった。活動的なポニーテールの尻尾テールは長く、背中のなかほどで揺れている。大きな瞳はぱちくりとせわしなく動き、持ち主の好奇心の高さを示していた。

 蓮太郎をアーニャと呼ぶものが他にいるはずもなく、授業が終わるなりダッシュしてきたらしい妹は、息を切らして言った。

「アーニャ何やってんの早く帰ろう! あの女戦士の人、起きてるかもしれないし!」

「……お前、よく上級生の教室にそのテンションで入ってこれるな」

「? だって、アーニャのクラスじゃん」

「世の中そんなアグレッシブな妹ばっかりじゃないと思うぞ」

 無邪気に首をかしげる妹だったが、当然ながら蓮太郎のクラスメイトたちは、この突然の闖入者に注目していた。

(誰だろあの子、一年生? カワイー)

(伊坂くんの彼女なのかな?)

(っていうかアーニャって誰だよ……)

 などなど噂の的になっているのを気にする様子もなく、妹はマイペースに蓮太郎の袖を引っ張っている。

「ほら、早く早く、アーニャ!」

「分かった分かった。……っていうか学校でアーニャって連呼するな。俺のあだ名がアーニャになったらどうすんだ」

「えー、だって他の人の前で兄って呼ぶの恥ずかしいし……」

「お前の羞恥心の基準が分からん」

 呆れていると、つんつんと鳩間が蓮太郎の肩をつついてくる。

「蓮、その子がお前の妹?」

「ああ、残念ながら」

「残念ながら!?」

 ショックを受けている妹に、鳩間は気安く声をかける。

「へー、名前なんていうの? 俺はおにーさんの友達の鳩間ってゆーんだあ。気軽にハトって呼んでいいよ?」

「急にチャラくなった」

 なぜか軟派な物言いになる鳩間であった。

「あ、どーもです、はとさん。あたしはアーニャの妹の、伊坂です!」

「いやその、兄妹なんだから苗字は知ってるかな……」

「そっか! 名前は築音つくねです!」

「つくねちゃんかー。なんかおいしそうで可愛い名前だね」

「よく言われます!」

 にぱっと笑ってみせる築音に、鳩間はでれっとした表情を浮かべる。蓮太郎はそんな鳩間の脇に肘を入れつつ立ち上がった。

「つーわけでハト、今日は妹と帰るから。また明日な」

「おう、じゃな」

 軽く手を振って友人に背を向け――そこでようやく蓮太郎は、そこまでじっと黙ってやり取りを見つめていた麻咲の存在を思い出した。

「おっと、ごめん秋本さん。さっきの話途中だったけど……」

「……別に、何でもないわ」

「……そっか」

 麻咲の表情を伺うが、蓮太郎はそこから何の感情も読み取ることはできなかった。諦めて別れを告げる。

「じゃ、また明日」

「ええ。また明日」

 鞄を背負い直し、教室を後にする。蓮太郎の背中をとことこと追いかけながら、築音は尋ねた。

「今の人、アーニャの彼女?」

「違うよ。……妹、俺が女子と喋ってるとこ見ると必ずその質問するよな」

「そだっけ?」

「そうだよ」

 そんな会話をしながら、兄妹は女戦士を寝かせてきた我が家へと急ぐのだった。

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