第5話 偽りの顔③


 辛い目。

 それは、何をもってしたらそう言えるのだろう。

 

 辛い目といえば、私は、ずっと辛く苦しい目にあってきたはずだ。

 

 自由に生きるのが好きな一市民だった私が、幼い頃から立派な貴族淑女であるための厳しい教育を強いられた。

 「王太子妃候補にする」と10歳で親元を離され、二度と戻りたくないと思った貴族社会を生きることになった。

 離宮に閉じ込められながら、1人、完璧な王太子妃になるべく、血が滲むような努力を重ねなくてはならなかった。


 そうして5年、王太子の婚約者に選ばれたが、貴族令嬢からの嫉妬や鬱積を一身に受けてしまい、必要以上に目をつけられた。

 貴賎きせんの別なく過ごせるはずの学園生活は、常に孤立したものだった。


 

 婚約時は優しさでいっぱいの、私を大切にしてくれていたレオン王太子殿下。

 やっと、幸せになれる。

 そう歓喜しながら結婚したが、向けられた優しさや想いは全て仮初だった。


 それでも、好意を抱いていた彼に私を好いて貰えるよう頑張ってみたが、それらは報われることがなく。

 彼は、義姉私ではない女性を一途に愛しているのだと我が身交合を持って知った。


 彼との関係は、今や最低最悪。

 “仲睦まじい夫婦”を演じるのも、“任務”を行うのも、自分の本音を考慮すれば悲壮感漂うものだと言えるだろう。

 


 全てを投げ出してしまいたい。

 そう思ったことは、何度もあった。

 けれど、投げ出す事も逃奔もしなかった。

 逃げ出す術がわからなかったのもあるが、私がいなくなれば父や弟妹に被害がいくからだ。

 

 私がいなく居亡くなった場合、妹のリーゼが私と同じ道を歩まされると聞いた。

 それは、嫌だと思った。

 大切な家族が、可愛い妹が辛い目にあうかと思うと、心が酷く痛む。

 自分が耐えたらいい、それが全てを丸く収める方法だ。

 そう思って耐えることしか、私には生きる術が思いつかなかった。 


 


 辛い目と定義できる事象。

 それは、山程あったし、今もある。

 しかし。

 この運命辛さから逃げる手立てがわからない。


 その答えが見いだせない私は、それを考えるような場に直面すると、どうしたらいいかわからなくなる。

 

 辛い目に遭うことが当たり前だとしたら。

 何が辛い目だと判断したらいいのだろう。

 

 つまり。

 私はもう、“何が辛いか”よく分からないのだ。


 


 ザーーーーーッ。

 

 突如吹いた空っ風により、耳につけていたイヤリングが大きく揺れた。

 遮るものがない広場にて。寒気に思い切り晒された私の意識が、この場に戻ってくる。

 カチリ。

 私は、手にしていたティーカップをテーブル上にあるソーサに合わせ置いた。

 

「お父様」


 何が辛いのかの答えは、不明瞭。

 けれど、1つだけ確かなことがある。

 それは、


「私は、彼に愛されて幸せよ」


 自分の本音は、口に出さないほうが良いということ。

 


 どのような話でも優しく聞いてくれた幼い頃のように。

 父に話を聞いて欲しいと自ずと湧き上がってしまった想いはあったが、それらを私は絶対に口にしない。

 私をじっと見つめ、肩や瞳を揺らしている父の前では、絶対に。


「そ、そうか。視察の人に確認したら、大丈夫だって。王太子殿下は妻を大切にする素晴らしい人だし、王太子妃様はいつも毅然としていますって、そう聞いていたんだ。けど、アンジュの口から聞くまでは、その、やっぱり不安でね。話が本当でよかったよ。いや、王太子妃という立場は凄く大変だと思うんだ。だけど、殿下がアンジュを大切にしてくれていたら、アンジュは、幸せであれるんだな、と」


 微笑んだ私を見た父は、しどろもどろながら、言いたいことを一気に話していった。

 そうして、目頭を抑えながら、最後に安堵の息を吐く。

 

 そんな父を前に、私はふと思う。

 私の前で小さくなる父は、事実を知ったら酷く悲しむだろうか。

 母のためにと、国王に謁見しながら切望したように、私のために何かしてくれるだろうか。

 

 …………いいや。

 弟妹を1人で育てつつ、国のためになる研究報告をすることで精一杯の父が、何かできるわけがない。

 何かしようとしたとて。

 名ばかりの爵位を持つ私達では、理不尽な事を前にしても何も変えることなどできず、ただただ悲しみや絶望を抱えるだけだ。

 

 

 私は爵位に苦しんでいた頃、絶望し生気のなかった悲惨な頃の、胸が痛む姿家族の形を再現させたくはない。

 ならば。

 私が我慢をすればいい話。

 私が嘘をつく事で全ては丸くおさまり、家族は穏やかでいられる。


 どのみち、監視がいる中では本当のことなど何も口にできない。

 つまり、この対応が最善だったということだ。

 


「そろそろ帰りますわ。遅くなると殿下が心配しますの」


 夫に心配される王太子妃を演じながら、私は席を立つ。


「弟妹と話せなかったのは残念ですが、それは手紙を用いて……」


 凛とした様子で発言していた中、私は言葉に詰まってしまった。

 

 当たり障りのない内容しか書けず、10年間いくら送っても1度も返事のなかった手紙。

 それを送って、意味があるのだろうか。

 国王に釘を刺されてしまった今は特に、私の言動、手紙に対する監視の目も厳しいだろう。

 そうなると、会いに来るしかないが、立場上簡単に会いに来れる訳ではなく、逢いに来たところで護衛という名の監視がつく。


「…………良い頃合いの時が来たら、連絡しますわ。弟妹の誕生日プレゼントは後でここに運ばせるから、お父様から渡しておいてくださる?」


 父の顔を見ながらでは、毅然とした態度が保てない。

 そう思った私は、ふいっと顔を背け背中を向けたまま言葉を告げた。


「……わかった。気をつけて、帰るんだよ」

 

 私は父のか細い声を背に受け、小さく頷く。

 そうして。

 次はいつ会えるかわからない父や弟妹がいる我が実家を背に、私は元来た道を歩み始めた。


 

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