桜邸は化物屋敷㉗

(雷さんの言葉が、俺の頭に流れ込んでくる)


(まさか……。糸を傷付けた事で、糸に込められた雷さんの感情と記憶が溢れ出したのか?)


 突然、陽の光が遮られ、目の前が暗くなった。


「あっ嫌だわ、こんな所に巣を張って!」

 何も分からないまま、大きな影に叩き落とされた。

「女郎蜘蛛だなんて、気持ち悪い」

 顔を歪ませた女性の顔が、俺を見下ろしている。

 さっき自分を叩き落としたのは、この人が持っている箒だった。


 ”蜘蛛にとって、人間は自分の家を壊す巨大な侵略者。それも、「気持ちが悪い」という理由だけで叩き潰そうとする。野蛮な生き物”


 ”そう思っていたのに……”


「止めて! 蜘蛛だって、生きてるんだから」

 大きな手が、振り下ろされる箒から庇ってくれた。

「逃がしてくる」

 その大きな手は、自分を掌に乗せて拾い上げた。木の枝に乗せてもらい、自分に向かって微笑んでいる手の主を見上げた。

「庭に入ったら駄目だよ。潰されちゃうからね」


 ”巣を張る蜘蛛にとって、地面に落とされることがどんなに恐ろしいか、人間は知らない。蟻の餌にされる恐怖も、潰される痛みも、人間には分からない。だけど……あの人は私を案じてくれた。それどころか、私に微笑んでくれた”


 ”あの頃の私は、妖怪に成りかけていた。まだ変化へんげはできないけど、人間の言葉は理解できた。……だから、その所為だ。あの手が、掛けてくれた言葉が、愛おしいと思ってしまったのは。あの温かい手が自分を包んでくれたら、どんなに幸せだろうと、叶わない夢を見てしまった”


 ”縁を操る才が目覚めたのも、ちょうどこの頃だった。その所為で、私は気付いてしまった。あの少年の運命の相手が、私だと”


 ”人間が生きている間に、必ず赤い糸の相手と巡り合えるとは限らない。運命の相手が、人間だとも限らない。だから、時にはこんな残酷な巡り合わせもあると、分かっていたはずなのに”


「私はもうじき絡新婦妖怪になる。変化を覚えたら、人間になって、あの人に会いに行こう。そしたら、また私に微笑んでくれるかな? 今度は、抱きしめてもらえるかな?」

 ”あぁ……。どうして、そんな甘い事を考えてしまったの”


 ”その日から、私は彼の家の屋根裏に住み着いて、彼の為に縁を操った。善縁を手繰り寄せ、悪縁を遠ざけ、貧しい彼が飢えないように、お金が入るように、出世できるように。縁の力が及ばない時には、彼の邪魔をする人間を脅かしてやった。そうして彼は、立派な商人になって、大きな屋敷に住めるようになった”


 ”ようやく人間に化けられるようになったのは、彼が私の力で成功を収めた後だった。当然の事ながら、彼は私の事が分からなかった。陰で力を貸した事も、災難から護ってあげた事も、彼は知らない。あの日私を掌に乗せて助けてくれた事すら、覚えていないようだった”


 ”でも、それでも良かった。彼の喜ぶ顔が、何より嬉しかったから”


 ”彼の母親は、どこの馬の骨とも分からない私の事を、良く思ってはいなかった。それでも、私と彼が、周りに知られてはいけないような関係になるまで、そんなに時間は掛からなかった。”


 ”母親思いの彼が、私との逢瀬をどう思っていたのか。……今となっては、もう分からない。でも、彼が私を選ばなかったのは、確かな事実”


「縁談が決まったんだ。でも、このままでいてくれるよな? 衣住食は、面倒を見てやるから」


 ”「人間の一生なんて、短いものです。あなたの幸せを、妖怪の我儘で壊すだなんて、そんな事はしたくありません。傍にいられるなら、例え妾でも構いません」そう自分に言い聞かせて、我慢して、我慢して、我慢して……”


 ”だけど……。あの人の子を抱いたあの女を見たら、私は……自分自身の正体を、隠す事ができなくなってしまった”


「うわあぁぁああ! 化物だ! こっちに来るなぁああ!」


 ”一番になれないなら、せめて本当の私を受け入れて欲しいだなんて……。あぁ……どうして? どうしてそんな事を願ってしまったの? 自分自身が人の目にどう映るかなんて、考えなくても分かっていたはずでしょ?”


 ”あの人が雇った霊媒師達の矢に射られ、刀に斬られ、式神に自由を奪われた。惨めに命乞いをして、生きながらえた。生まれて初めて味わう屈辱に、死んだ方がまだマシだったとさえ思えた。それでも生きてしまったのは、あの人を諦めきれなかったから……”


 ”恐れられる妖怪じゃなくて、人に慕われる神様なら、正体が異形でも逃げないでくれると思ったから。もっと人間の事を学んで、あの人の母親にも受け入れて貰えるように、店を開いて人間の真似をした。もっと人形のような綺麗な顔を作って、もっと美しく着飾って。そしたら、いつかあの人は……”


 ”いえ、それは到底無理な話。だって、私の本性は化物なのですから”


 ”あの人に拒まれた時、思ってしまったのです”


「あの女、殺しておけばよかった! 私の邪魔をしたあの母親も、殺しておけばよかった! あぁぁああ憎い! 私の邪魔をしたあの女共、喰い殺してやる!」


 ”あぁ……なんて悍ましいの?”


 ——————


 気が付けば、俺は霊媒師達に囲まれた雷さんを遠くから眺めていた。

「雷さん!」

 咄嗟に助けようと指輪を構えるも、枝が来ない。ボタンをかけ違えているかのように、縁が辿れなくなっている。


「っ……やめろ!」

 咄嗟に刀を持った霊媒師を取り押さえようと掴み掛かった。


 だけど、俺の手は霊媒師をすり抜けるばかりで、止めさせる事はできなかった。雷さんは既に幾つもの矢に射られ、満足に動けなくなっていた。それなのに、霊媒師達は容赦なく彼女を傷め付けた。


「もう止めてくれ! こんなのあんまりだ!」


 ふと、霊媒師達の影に隠れた、見覚えのある男の顔に気付いた。

「あいつは……」

 雷さんが愛した男は、正体を現した彼女に、恐れと嫌悪が入り混ざった表情を向けていた。


「お前!」

 掴み掛かった手も、拳すらもすり抜けてしまう。でも、自分を止めることはできなかった。


「彼女を愛していたんじゃないのか! どうして彼女を選ばなかったんだ! この仕打ちはなんだ!」

 激しい怒りが込み上げる。だけど、怒鳴る声すらこの男に届かない。雷さんが痛め付けられる事も止められなかった。


「どうして受け入れてやらなかった! 見た目が変わっても、雷さんは雷さんだったじゃないか! お前のために、彼女は力を使ったのに、どうして、気付いてやれなかったんだ! どうして! どうして……」

 虚しく空を殴る手は、やがて伸びてきた手に止められた。


「どうにもなりません。あれは、ただの記憶。愚かな女の過去なのですから」

 俺を止めた手の主は、スーツを身に纏った、見慣れた姿の雷さんだった。


「見苦しいものを見せましたね」

 雷さんは視線を過去の自分から俺に移した。


「どうしてあなたが泣くんです? あなたには、関係のない事でしょう?」


「だって、あれは、俺の前世なんだろ?」

 俺は怒っているのか? 悲しんでいるのか? 

 ……分からない。ただ、感情がぐちゃぐちゃで、とても酷い気分だ。


「あの人の魂を半分も貰ったのに、あなた、全然あの人に似なかったのね」

 俺の顔を見て、雷さんは苦笑した。

「あの人と違って、あなたは逃げなかった。話の通じない悪霊なんて、私よりも化物のはずなのに……」


「化物じゃない。俺にとって、花さんは大事な人だ。幽霊だとか、神様だとか、そんな事は関係ない」


「……知っています。あなたなら、花さんの正体が何であれ、受け入れていたんでしょうね」

 雷さんは溜め息を吐いた。

「『あの人の半分なら、少しくらいは私の事を……』なんて、気の迷いが全く無かったとは言い切れません。ですが、私がその気にならなかったのは、あなた達に付け入る隙が無かったから」


「……」

 言葉が見つからない。でも、彼女は俺の言葉を求めている訳ではないんだろう。


「よかった。もし謝られでもすれば、今ここであなたを、殺してしまっていたかもしれません。最初に申し上げたでしょ? あなた、あの人私のタイプじゃないんですもの。あなたの心を貰ったところで、きっと満たされはしなかった」


 雷さんは自虐的に笑った。


「私が欲しかったのは、あの人の愛だけ。本性を見せたあの時、受け入れて欲しかっただけ。……あの人の魂を手元に置こうとしなかったのは、いつか生まれ変わったあの人が、私に会いに来てくれる事を期待してしまった、愚かな女心の所為。今度こそ、私が望む答えを聞かせてくれるんじゃないかって、馬鹿な夢を見てしまった……。『君が妖怪でも構わない。変わらず傍に居ておくれ』そう言って欲しかった」


「……でも、俺は——」


「それ以上は言わないで。最初から分かっていました。あの人がいなくなったのは、あなたの所為じゃない事も。あなたが、あの人じゃない事も。……でも、認めたくなかった」


 雷さんの目に、深い哀しみの色が見えた。でも、涙となって零れ落ちるその感情を拭ってやる事は、俺には、とてもできなかった……。


「もし望む答えが聞けなくても、せめて一言、文句を言ってやりたかったのよ」


 見えていた景色が、陽炎のように揺らいで消えた。


 目の前の景色はまた、桜の木の内側に戻った。

 辛うじて上半身だけ残っている糸が、あの男の姿のまま、助けを求めるように雷さんに向かって手を伸ばしている。


「でも、ようやく気持ちの整理ができました」

 雷さんは男に近づき、ニッコリと笑みを浮かべた。

「誰が化物だ! この、馬鹿!」

 強力な蹴りが頭を直撃。サッカーボールの様に空高く蹴り上げられた頭は、今度こそ光の粒になって完全に消えた。

「さようなら、酷い人。雷金紅は、もうあなたの事は忘れて、幸せを探します」


「おぉ……」

 壮絶な決着に、思わず声が漏れた。


「白鳥さん」

 急に名前を呼ばれ、背筋が伸びた。

「花さんから逃げないでくれて、ありがとう」


「え?」


「人に恐れられる化物だって、花さん悪霊だって、愛されて幸せになりたかったんです。だから私は、あの子に自分を重ねて見てしまった。最初に会った時、恋を応援してあげたいと、本気でそう思った。縁結びの神になった私なら、あの子の願いを叶えてあげられるって信じて、縁を辿ったんです」


 彼女はまた、自虐的な笑みを浮かべた。


「それなのに、嫉妬に狂って、今の今まですっかり忘れていました……。でも、幸せになって欲しいとあの時願った私の気持ちは、鈴木さんが言ったように、ずっと変わらない本心だった。今なら、そう言い切れます」


 そう言って彼女は、今まで見たこと無いような、晴れやかな笑顔を見せた。

 雷さんの作り笑いは、心の鎧だとか、前に鈴木君が言っていた。なら、彼女が心から笑っている今は……きっと、本音を聞かせてくれているんだろう。


「そうそう、知っていました? あなたが私の店で買った婚約指輪、あなたが花さんに渡さず逃げたら、あれは毒蜘蛛になってあなたを殺していました。そういう呪いを仕掛けておいたんです」

「えっ!?」

「だってあなたが怪異あの子を愛せるのか、試してみたくなったんです」

 そう言った雷さんは、意地悪そうにケラケラ笑った。


「花さんを呼び戻したいか聞いたのも、あなたの愛を疑っていたからです。でも、あの子への愛を確信した時、ついあなたの視力を奪ってしまいました。だって、怪異のまま愛されたあの子が、羨ましくなってしまったんですもの。捻くれた絡新婦は、あなた方の関係が破綻するところを、どうしても見てみたくなったんです」

「えぇぇ……」

 とんでもないカミングアウトだな。思わずげんなりすると、また雷さんは笑った。


「ですが、言ったでしょう? 神としての私は、花さんの恋を応援していたと。性悪絡新婦の嫌がらせにもめげず、一心に互いを求め続けたあなた方の絆は、どんな力でも引き離せない程強く鍛えられた。もう誰であろうと、あなた方を引き離す事なんて、とてもできなくなりました。あの婚約指輪が、その証明です」

 そう言って今度は、とても穏やかな笑みを浮かべた。


「悪縁は、あの糸と共に全て断たれました。これで全て元通り。今生でも、あなたならきっとその命が尽きるまで、いえ、尽きてもきっと、花さんを幸せにするでしょう。今度こそ、縁結びの神としてあなた方を祝福してあげます」


 雷さんの糸が俺の体に纏わりついた。

「うわっ! これは? う、浮いてる!?」

 絡みついた糸が、俺を上へ、上へと引き上げていく。


「元の世界に返してあげます。あなたにあの人の記憶が引き継がれないで、本当に良かった。少しでも記憶が残っていたら、あなたはあなた白鳥雪二にならなかったでしょう。私が思うに、あなたはきっと、花さんと巡り合う為に生まれてきたんです」

 雷さんは、どこか納得したような顔をして、俺に手を振った。

「どうか、お幸せに。私の八つ当たりに、最後まで付き合ってくれてありがとう」

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