桜邸は化物屋敷㉓

 桜の木に呑みこまれた先で見たのは、何も見えない真っ暗な世界だった。俺達は底があるかも分からない、闇の中を落ちていく。でも、心細くはない。この右手の先には、花さんがいるから。


「花さん!」

「雪二さん!」

 お互い名前を呼んだのは同時だった。


「雪二さん、あの時、手を離してごめんなさい。でも、私……」

「大丈夫。俺を護ろうとしてくれたからだって、分かってるよ。心配ばかり掛けてごめん。手、痛かったよね?」


 両手で彼女の手を包み込んだ。春、花さんと再会したあの時のように、傷が癒えるように、強く願う。幹に仕舞い込んでしまう程、桜の神様は花さんを大事にしているんだ。だから、きっと彼女の傷を治してくれるはずだ。


「巻き込んでしまってごめんなさい」

「俺こそ、引き上げてあげられなくてごめん」

 俺達は互いに謝りあって、でも、こんな時も一緒にいられる事に笑いあった。


 その時ふと、何かが暗闇の中で動いている気配を感じた。


「あれは……」


 光を見た花さんの声は、恐ろしさに震えていた。


「ああぁ……こんな事って!」


 ようやく暗闇に目が慣れて、辺りの様子を伺った。俺達を囲む円形の壁、その上で無数の目が蠢いて、俺達を見ている。


「邪鬼」

 屋敷の中だけじゃなくて、木の内側にも、こんなに……。


 俺達が気付くのとほぼ同時に、邪鬼達は飛び掛かってきた。

 咄嗟に指輪を構え、強く念じる。現れた枝は瞬く間に襲い掛かってきた邪鬼を屠った。


 (今ので、周りの邪鬼もある程度は牽制できたはずだ)


 回数制限を超えた所為で、酷い痛みが襲い掛かり、目の前が赤くなった。だけど、まだ大丈夫。まだ意識はある。枝を呼んだ時、わざと腕に傷を付けさせた。痛みのおかげで、目を開けていられる。


「雪二さん、あれ……」


 暗闇の中に、金色に光る物が見えた——糸だ。

 あの世へと伸ばされた雷さんの糸。あれが繋がっている所為で、桜邸には悪霊と邪鬼が溢れている。あれを切らない限り、俺達は助からない。


「切らなきゃ!」

 槍の様に尖った幾つもの枝を重ね合わせ、糸に向かって放つ。枝達は数匹の邪鬼を巻き込みながら、糸を直撃した。


(頭が痛い。息が苦しい……。でも今のは、廊下を塞いでいた、あの悪霊を除霊したのと同じ威力だ。あんな細い糸、簡単に…… 嘘だろ!?)


 糸は切れなかった。それどころか、少しの綻びもない。


「クソッ もう一回だ!」


「……もう一度!」


「っ……」

 

 糸は無傷。闇の中、俺を嘲笑うように、妖しく金色の光を放っている。

 

 枝を呼ぶ度、体の力が抜けていくのが分かる。神様の力は、人間が簡単に使えるものじゃない。力を振るう度、枝は俺の生命力を削ぎ落としていく。だから楓さんは、『全力を連発したら死ぬ』って言ったんだ。


(でも、今はそれでもやらないと!)


 糸がある限り、悪霊が登って来る、邪鬼は滾々と湧いて出る。


「切れろ! 切れてくれぇええ!」


 もしこのまま糸が切れなければ、俺達は……いや、考えるな! 諦めたら最後、意識が落ちる。こんな暗くて怖い所に、花さんを一人にする訳にいかないだろ!


「雪二さん! もう止めてください! このままじゃ、雪二さんが……」


 大丈夫。大丈夫だよ花さん。糸が切れなくても、枝を出し続けてさえいれば、邪鬼は警戒して寄って来ない。花さんは俺が守るから、どうか怖がらないで。


「も…う、いちど……」


 あれ……おかしい。どうして……どうして枝が出ないんだ? 頼む、応えてくれ。邪鬼が俺達を見ながら、舌なめずりしてるんだ。


(体が重い。思うように動かせない。痛みで頭が割れそうだ)


 だけど、まだ戦えるから……。


 邪鬼達は、この時を待ち詫びていたように飛び掛かってきた。


「汚い牙を雪二さんに向けるなー!」


 花さんの一喝で現れた枝が襲い来る邪鬼を薙ぎ払う。次から次へと襲い来る邪鬼を、しなる枝が刺し貫き、叩き斬り、血の雨を降らせる。


(やっぱり、花さんは強いな……)


 でも、今君が戦っちゃ駄目だ。なんだか、マズイ気がするんだよ。だって、君が枝を操る度、婚約指輪にヒビが入っている。亀裂が入る度、君の気配が、俺の知っている君の物じゃなくなっていくんだ。


「大丈夫です。私が、雪二さんをお守りしますから」


 駄目だ花さん! これ以上やったら、君が君でなくなってしまう!


「だ……めだ」

「でもそうしたら、雪二さんが、あいつらに食べられてしまいます!」


 あぁ……駄目だ。駄目だこんなの! 彼女を失う為に、ここに来た訳じゃない! 何か打つ手はないか? 無力な自分を呪うだけなんて、嫌だ!


 桜の神、これがあんたの望みか? 花さんにこんな酷い事をする為に呑みこんだのか? 


いな

 凛とした声が、耳元で聞こえた。 幻聴? でもそれにしては、やけにはっきりしているような……。


 桜の葉が、俺の頬を掠めた。


「婿殿、わたしの葉を掴むがよい」

 桜の葉が、誘うように俺の目の前で揺れている。


「早よせんか!」


 必至に手を伸ばし、その葉に触れた。



 ——————


 目が覚めると、俺は自分の部屋のソファーに座っていた。部屋は暗い。映画を観ている最中に寝落ちしたのか、画面は付いたままだった。何かに向かって沢山の人達が祈りを捧げる様子が、正面の斜め上から固定された角度アングルで流されている。どうも記憶がはっきりしない。こんな映画、持ってたかな?


 思わず隣を見れば、花さんの輪郭がぼんやりと見えた。


「花さん、これ、何の映画だっけ?」


「なんだ婿殿、ようやくお目覚めか」


「婿殿?」

 花さんだと思った人は、花さんじゃなかった。思わず目を細めると、その人はわざとらしく咳払いした。


「我にとって、花は分身であり、娘の様なものだ。だから、雪二殿の事は婿殿と呼ぶ事にした」

 かんらかんらと笑い、その人は話を続けた。

「質問に答えよう。あれは、我が村の守り神であった頃の記憶だ。それから、ここは我の幹の中。この部屋は、婿殿の記憶から引っ張り出して再現してみたのだ。殺風景な場所で話しても、つまらんと思ってな」


(守り神? 我の幹の中? ……それって——)


「まさか!」


「良い反応だ婿殿! そのまさか、我こそが、偉大なる桜の神である! 今は、我の化身である花の姿を借りているのだ。こうしなければ、木であるがために口を持たぬ我は、婿殿と話ができぬからな」


「でも、さっき葉っぱのままで喋ってませんでした?」


「うっ……覚えていたか。まぁ、全くできなくもない。できなくもないのだが、葉は、なんかペラペラしてて、我の威厳までペラペラになりそうだから、やりたくないというか……」

 桜の神を名乗った人物は、何やらブツブツ呟いている。


「そうだ、思い出した! 花さんは無事ですか!?」


「無事だ。婿殿が止めてくれたおかげでな」

 掲げられた左手には、ひび割れた婚約指輪が嵌められていた。

「もし婚約指輪これが壊れていれば、花は悪霊に。いや、あの糸の呪いに当てられ、もっと悍ましい化物にされていただろう」


 桜の神は安堵の溜息を吐いた。


「あんな呪いに満ちた場所で戦う等、自殺行為もいいところだ。しかし、お前達が邪鬼を随分消してくれたおかげで、ようやく我は出て来る事ができた。やれやれ、間一髪だったな」


「何が間一髪ですか!」


 桜の神様の左手(花さんの左手だけど)が拳を握った。そして、あろうことか自分の顔に、その拳をグリグリと押し付け始めた。


「私と雪二さんのお家をこんなにしちゃって! 私だけじゃなくて、雪二さんまでこんな所に押し込んで! それに、雪二さんの脚を床に巻き込んだ事も、は許しません!」


「ええい! 静かにせんか! まだ我が喋っておるだろ!」


 桜の神は自分の顔から左手を引き剝がした。


「花さん!」


 咄嗟に引き剥がされた左手を掴むと、手は俺に擦り寄ってきた。


「雪二さん! お体は大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ。むしろ、吞みこまれた時より良いくらいだ。花さんこそ、大丈夫?」


「平気です。でも、左手以外は乗っ取られてしまいました……」


 思わずジトッと神様を睨むと、神様は軽く呻いた。


「さ、さすがに、無理やりここにお前達を連れてきた事は、我も反省しておる! だから、我が力で婿殿の怪我を治してやったではないか!」


 そこでふと、地面を引っ掻いていた時にできた手の怪我が無くなっている事に気付いた。


「どうだ婿殿。傷も癒え、体には力が漲っているであろう? これこそが生き物に活力を与える、我が力の成せる業である!」


「……ありがとうございます?」


「うむ! これで婿殿は、万全の状態で戦えるようになったという訳だ」


「は?」

「え?」


「婿殿には、雷殿の糸を切って貰う。その為に、我はここに婿殿を招いたのだ! 糸は、さっき見たであろう? 神域を迷宮に変えたまでは良いものの、あれが招いた怪異共の所為で、我は迷宮を制御できなくなってしまった。今は我の手を完全に離れ、迷宮は拡大を続けている」


「えっと、つまり……?」


「うむ。このまま異界迷宮を放置すれば、異界はお前達の世界を侵食し続け、やがては、丸々呑みこんでしまうだろう」


「えええ~~~~~!!!」

 後に聞いた話、この時の俺と花さんの絶叫は、異界全体を揺らしたとか。

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