桜邸は化物屋敷⑱

「無事か?」


 火野さんに腕を引っ張られ、なんとか立ち上がる。


「花さんが……俺達を外に逃がした……」


「ああ。悪霊に刺激された桜の木が、桜花を護る為に、また幹に取り込もうとしたんだ。その前に、あいつは俺とお前を外に飛ばした。いつぞや、異界化しかけた桜邸で屋敷内に飛ばされた事があったが、今回はそれを意図的にやりやがった」


「助けに行かないと!」


「待て。あれを見ろ」


 目の前の桜邸は、俺が知っている桜邸ではなかった。

 空高く伸びた桜の木が、建物全体をすっぽりと飲み込んで、一体化していた。もはや入り口らしい物はなくて、窓の中は樹皮で埋まっている。


「入れたとしても、中は異界だ。桜の木が自分の神域を歪めて作り出した迷宮。邪鬼もうろついているってのに、お前が桜花のいる場所まで辿り着くのは、不可能だ」


 どんなに振り払おうとしても、俺を引き留めようとする火野さんの手は、絶対に離れる事はなかった。


「チッ……鈴木のトランシーバーから縁を辿られたか。あの絡新婦、最後の最後に全部台無しにしやがった」


「分かってる! だから助けに行くんだろ!」


「いや、分かってない」


 火野さんが俺の肩を掴んだ。


「死亡時刻を過ぎない内に、桜花はお前の手を放した。どういう事か分かるだろ」


 彼は諭すように、俺の目を真っすぐに覗き込んでいた。


「桜花は悪霊に戻った。飛ばされる瞬間、屋敷の中で邪鬼が生まれるのを見た」


 何も言えず、彼の目を見ていた。

 しかし彼は、俺の目を通して感情を拾ったようだった。


「……すまん。秋葉家が潰れれば、今の協会は権力争いで大混乱になる。それに付け入り、悪事を働く輩もいる。だから、絡新婦を庇うしかなかった。今となっては、全て無駄な事だったが……。そもそも、枷を付けてどうこうできる相手ですらなかったな。もはや、あれは雷金紅じゃねぇ。ただの理性を無くした化物だ」


 火野さんは言葉を並べたけれど、最後には首を振って、その全てを否定した。

「……いや、違うな。俺が、あの一撃で仕留めてさえいれば——」

「もういい! この中に入る方法を教えろ!」

「あっても教える訳無いだろ! 無駄死にさせる訳にいかねぇんだ!」


「二人共静かに!」


 ピシャリと声が投げ付けられて、振り向けば楓さんが、鈴木君を背負ってこっちに歩いて来ていた。


「白鳥君、鈴木君をお願い。あたしとあき君は、今から絡新婦を狩りに行かなきゃだから」


 乱暴に鈴木君を下ろすと、道端の石を拾って門の中に投げ入れた。庭に落ちた石には、たちまち邪鬼が群がった。


「秋葉家当主は代々、金紅様が裏切る事態に備えて準備をしていたんだって。縁結びの力を蓄えた道具を保管していて、その全てを消費し切るまでに、新しい神を迎え入れて体制を整えるってさ。もう目星は付けていたみたい。生贄に何人要求されるか知らないけどさ!」


 楓さんが鋏を鳴らすと、石に群がった邪鬼は皆首が落ちた。


「春にさ、言われたんだよ! 万が一が起こったら、金紅様と花ちゃんを殺せって! 本っ当最悪! 最っ低!」


 鋏が鳴る度、門の前に群がった邪鬼が倒れていく。


「やめろ。鋏の切れ味が落ちる」


 火野さんが静かに窘めると、楓さんはその場にしゃがみこんで、両腕に顔を埋めた。


「なんで……どうしてあたしが花ちゃんを殺さなきゃいけないの? 金紅様だって、あんなんでも、あたしにとっては、姉さんみたいな人なのに……どうして」


 楓さんがやり辛そうにしていたのは、ただ上司だからってだけじゃなかった。現人神。恵まれ過ぎた才能故に、ズレた感覚は楓さんを周りの人間から孤立させた。火野さんと会う前まで、彼女の支えになっていたのは、雷金紅だったのかもしれない。

 雷金紅にそのつもりがあったかは分からないけど、それらしい仕草は見せていたのかもしれない。そうでなければ、「楓ちゃん」呼びは距離が近すぎる。

 いや、また自分を「紅姉」と呼ばせて、それを子供心に真に受けた楓さんがそう認識してしまっただけなのかもしれない。


 結局、妖怪と人間は別の生き物だ。考え方も、やり方も何もかも違う。楓さんが火野さんと上手くやれてるのが奇跡なんだ。そうでなければ、片方が過剰な信頼を寄せて、馬鹿を見る。過去に雷金紅が人間の男に裏切られたように。

 だけど、今回馬鹿を見たのは人間だ。雷金紅がプライドも何もかも投げ捨てて暴走すれば、人には神として彼女を引き留める術はない。だから、秋葉家は万が一が起きた場合の保険を掛けていたのだろう。

 所詮、人と神の関係なんて、互いの損得でしか成り立たないんだ。何処かで躓けば、簡単に崩れ去る関係だ。


 だけど、彼はそれじゃ納得できないんだろう。


「じゃあ、討伐しなきゃいいじゃないっスか」


 口の端に血を滲ませ、顔に大きな痣を作った鈴木君が、抗議の目を楓さんに向けていた。


「説得して神の座に戻せば、生贄取るような妖怪と契約しなくて済むっス」


 顔を上げた楓さんは、涙で頬を濡らしながら鈴木君を睨み付けた。


「それができるんだったら、もうやってる! それに、説得できたとしても、花ちゃんは——」


「まだ悪霊に戻ってない!」


 皆の目が俺を向いた。


「白鳥君……」


「嘘じゃない。まだ、繋がりを感じるんだ」


 指輪を付けた左手を翳すと、楓さんは目を見開いた。


「嘘……」


「離れていても、繋がりが感じられるために、花さんは俺にこの指輪ペアリングをくれたんだ。だから、例え手が離れたとしても、俺達の距離は離れない。悪霊になんて、絶対させない!」


「どういう事だ?」


 楓さんの反応から、ようやく俺の言葉を信じた火野さんが、楓さんに説明を促した。


「白鳥君の言う通り。指輪の縁を辿って、悪霊に戻りそうな花ちゃんを、白鳥君が引き留めてるの。でもこんなの、達人にしか出来ない芸当だよ。白鳥君にはまだ大分早いから、だから手を放しちゃ駄目って言ったんだけどね! やるじゃん!」


 楓さんは立ち上がると、袖で涙を拭って火野さんの方を向いた。


「あき君、二人から取り上げたあれ、出して」


 火野さんはまた腹を開けて袋を取り出した。彼はそれを掴むと、ベトベトになった袋を開けて、楓さんが厳重に封印されていたタッパーを取り出した。

 指輪を受け取ると、楓さんは俺にそれを指で持って掲げるように指示してきた。


「いい感じ、そのまま、絶対に動かさないで!」


 大きく深呼吸して、彼女は鋏を指輪に向けた。

 ——チョキンッ。

 指輪に僅かに残っていた、悪縁が切れた音がした。


「悪霊に戻る理由が無くなれば、花ちゃんはまた化身として安定するはず。つまり——」

「【恋の宅急便大作戦2】だな? また命懸けで、花さんに指輪を届ける!」


「ついでに、金紅様をぶん殴って正気に戻そう」

 楓さんはニッと笑った。


「なら、俺が! そろそろ止めないと、金紅さん本当に立ち直れなくなりそうっスから!」


 鈴木君がおもむろにジャンバーを脱いだ。中に着ていた七分袖には、リアルな蜘蛛の絵がデカデカと描かれていた。それを見た楓さんは、急に真顔で鈴木君を一瞥した。


「うわ……カミナリグモじゃん」

「広義ではそうっスね。でも、これは女郎蜘蛛っス。この蜘蛛が歳とって妖力を持つと、絡新婦って呼ばれるんス」

「鈴木君……そこまで、拗らせちゃってたの?」


「うわっ怖っ」

 思わず声が漏れてしまった。蜘蛛の絵だからファッション感覚なのかもしれないけど、人間で例えると、好きな人の子供時代の似顔絵を貼り付けた服着てるって事じゃない?


「出会って一日の相手にタキシード着て結婚迫った白鳥さんには言われたくないんスけど? それにこれ、金紅さん達には評判よかったんスよ!」


(しかも、見せてんのかよ)


 思わず白い目で見てしまったけど、鈴木君は、

「グーでKOはされたっスけど、振られた訳じゃないっスから! まだチャンスはあるっス!」

 受け取ったピアスを付けながら、意気込みを語った。


「それで、迷宮を抜ける手はあるのか?」

 火野さんは新しい煙草に火を付けると、深く吸った。その顔は、どこか笑っていた。


「俺が花さんとの縁を辿る。……急がないと。桜が、今度は花さんを完全に取り込もうとしてるんだ! そうなったら、もう花さんに会えなくなっちゃうかもしれないんだよ!」


 火野さんは頷くと、煙を吐き出して自分の体を覆い隠した。その煙が晴れると、人間の姿の彼はどこにもおらず、代わりに大きな灰色の毛並みの狼に変化した彼がそこに立っていた。


「煙で隠れても、奴の神域内じゃ場所がバレるらしいからな。全力疾走する」


 だけど、そう簡単には許してもらえないようだ。不意打ちに逸早く気付いた楓さんが、悪縁を操作して毒液を逸らした。


「紅姉の所には行かせないよ!」

「ここで私共の餌になっていただきます!」

 不愉快な声と共に、大蜘蛛の群れを引き連れた蜘蛛妖怪達が現れた。


「ここはあたしが引き受ける。早く行って!」

「ふざけんな! 蜘蛛の餌にさせてたまるか!」

「お願い、行って! こいつら相手にしてたら、本当に手遅れになっちゃう!」


「毒煙の言う通りだ。お前の助け無くして、白鳥雪二が辿り着くのは不可能」

 聞き覚えのある声が、空から降ってきた。

 大きな風切音と共に現れた怪鳥が雷を吐き出し、蜘蛛達を牽制した。


「蔦美!」


 怪鳥の上から飛び降りた蔦美は、俺の方には目もくれず、楓さんに何かを手渡した。


「爪は犬、羽根は鳥だ。念じれば応える。上手く使え」


「おじいちゃん……でも——」


「当主の決定に従えとは言わん。儂はもう、霊媒師ではないからな」

 蔦美は蜘蛛達の方へ歩みを進め、手に持った日本刀を抜いた。


 その背を見送りながら、楓さんは牙を宙へと投げた。すると投げられたそれは、地に落ちる前に黒い毛並みの大きな犬に変身していた。楓さんはその背に乗ると、蔦美の方へまた視線を投げた。


「死んだら恨むからね!」


 それを合図に、火野さんが頭突きで門を開け、俺を咥えて走りだした。


「ちょっ待っ」


 振り子のように背中へと投げられると、先に乗っていた鈴木君がズリ落ちそうになった俺を支えてくれた。


「縁、ちゃんと辿ってくださいよ!」


「言われなくても、もうやってるんだけど!」


「よし、いいぞ。中に入るには、その縁が大事だからな。念じて、開けさせろ!」


「花さーん! 開けてー!」


 思いっきり呼ぶと、桜の木が歪んで、更に現れた玄関がひとりでに開いた。

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