桜邸は化物屋敷⑥
五月の初めに楓さんの事務所に就職して、早くも二カ月の時が流れた。でも相変わらず、俺には花さんの左手しか見えない。雷さんはまだ、俺の視力を奪ったままだ。
ふと、車の窓ガラスに目をやると、雨垂れが沢山並んでいた。まだ梅雨は明けず、特にここ数日は雨が降り続けている。そのせいで少し肌寒い。だけど八月になったら、今度は残暑に苦しめられるんだろうな。
ぼんやりそんな事を考えていると、
「楓さん達、大丈夫でしょうか?」
花さんの呟きが聞こえた。
今日は他の事務所の応援で、廃ビルに
そもそも、楓さんの事務所に来る仕事は大体が他からの応援要請だ。ここは他で対応出来ない仕事の受け皿になっているらしい。そりゃ、現人神って呼ばれる訳だよな。だから嘘とはいえ、花さんに楓さんが負けたニュースは業界を酷く震撼させ、中には足を洗う人まで出たそうだ。
(その人達には悪いけど、あの作戦のおかげで、俺は花さんにプロポーズできたんだよな)
助手席に目を向ければ、窓ガラスに添えられた花さんの手が見えた。声の感じや手の仕草から、花さんが楓さん達を心配してる様子がひしひしと伝わってきた。
「大丈夫だよ。楓さん最強だし、火野さんもついてる。今日は鈴木君もいるし」
「火野さんの強さは知っています。でも鈴木さんは……戦力になるんでしょうか? 今の私でも簡単に一捻りできてしまいそうで……」
前に鈴木君は花さんに殺されかけたけど、無事に二人が仲直りできてよかった。見た目に反して、鈴木君が大きな器の持ち主でよかった。慰謝料としていくらか請求されたような気もするけど……。彼は本当に、地獄の沙汰もなんとやらを地で行く男だ。
「楓さんと火野さんが、きっとなんとかしてくれるよ。今は、信じてここで待とうか」
というのも、俺達は現場近くに停めたワゴン車の中で待機していたからだ。絶対に安全な場所とは言えないけど、皆に何かあった時、ここにいればすぐ車を出せる。
最初俺が提案すると、楓さん達は反対した。けど、花さんがやる気を見せると「じゃあ、安心だね」って待機を許してくれた。俺より花さんの方が圧倒的に強いからだろうけど、男として彼女より弱いのは複雑だ。
待機とはいえ勤務中なので、俺は運転席に座ったまま『初心者霊媒師の為の参考書』というふざけた名前の本を読んでいた。協会のお偉いさんが出版したらしいけど、書いてあることは怪しい内容ばかりだ。鈴木君ですら鼻で笑っていたけど、参考書は無いよりあった方がいい気がするので読み続けている。
名選手必ずしも名監督にあらずというやつで、楓さんは天才だけど教えるのは滅茶苦茶下手だ。物心ついた時からベテランに混ざって、命懸けの修行をしてたらしいから、当然っちゃ当然なんだけど。……花さんが止めてくれなければ、俺は修行中に殺されていたかもしれない……。
鈴木君は元々霊感持ちだし、素人の俺から見てもセンスがいい。だけど、アドバイスできるほど経験を積んでないって、自分で言って笑っていた。
仕方なく、楓さんから教えて貰った駆け出し霊媒師の修行を、朝に晩にしているけど、成果が出ているかは怪しい。だって、修行内容が糸を針に通すだけって……初日の荒行はなんだったんだよ!
戦力外の俺の仕事と言えば、書類作成とかの事務業務全般、その他クリーニングの受け渡しだとか、本当に雑用っぽい事だけだ。雑用係とは聞いてたけど、マジの雑用係とは思わなかった。でも良いこともあって、雑用の関係で事務所が応援してくれたから、運転免許証を取得できた。
(こんな調子で、いつかまた花さんの笑顔が見えるようになるのかな……)
溜め息を吐いた時だった。
車の前方で突然大きな物音がして、驚いて顔をあげると、頭に角が生えた見たこともないような生き物が、凹んだ地面に伏せているのがぼんやり見えた。
人の形をしているけど、手足の爪は肉食動物の牙みたいに鋭くて長い。体の大きさはワゴン車と同じくらいで、筋肉の鎧を纏っていた。
もしあれが暴れまわれば、俺達が乗っているこのワゴン車なんておもちゃのように壊されてしまうんじゃないかと思ったけど、その心配は無さそうだ。そいつの回りの地面は、そいつから今も止めどなく流れ出る赤黒い液体で濡れていた。
(ビルから落ちてきたのか?)
今日の現場は十階建ての廃ビルだ。中に入った人が行方不明になったと通報があって、調べてみたら数匹の邪鬼が住み着いていたらしい。
(これが落ちてきたって事は、順調に倒せてるって事なんだろうけど……。映画だと、こういう死体みたいなのが動き出して、脇役がピンチになったりするんだよな)
ふと、そう思った時だった。車に積んだ無線機が緊迫した声を拾った。
「今すぐ逃げて! 依頼元が一匹仕留め損ねて落とした!」
嫌な予感がして前を向くと、目の前に落ちてきたそいつと目が合ってしまった。
「フリじゃないぞ!?」
叫び声が聞こえてしまったのか、そいつは四つん這いの姿勢から驚くような跳躍をしてフロントガラス目掛けて突っ込んできた。
突然の事でエンジンを入れる間も無く、咄嗟に花さんを庇おうと左側に倒れ込んだ。
しかし、いつまで経っても衝撃は来ない。
おそるおそる顔を上げると、そいつは空中に浮かんだまま静止していた。いや、正しくは、四方から伸びたワイヤーのような物に吊るされていた。何が起きたのか注意深く観察すると、そいつの体からまた新しい針のような木の枝が飛び出して、勢い余って地面に突き刺さった。なるほど、前に呪いで体から花弁が出たことがあったけど、枝も出せるのか……。
「危なかったですね……。でも、もう大丈夫です」
花さんの左手が、俺の頭を撫でている。それも、「怖くない、怖くない」って、怯えた子供をあやすように……。
(怖くて抱き着こうとした訳じゃないんだけどな……)
ぼんやりそんなことを考えていると、後部座席の方で空気が揺らめくような気配がした。
「無事か!」
心配した火野さんが瞬間移動して駆け付けてくれたようだった。その酷く焦った顔は、花さんによしよしされていた俺を見て、スンッと真顔になった。
「いや、これは誤解で!」
弁解する間もなく、彼は何も言わずにまた瞬間移動して戻っていった。後が怖い……。
しばらくして、楓さん達が戻ってきた。幸い怪我は無いらしい。でも、依頼元の霊媒師達は傷だらけで、なんとか歩いているっていう状態だ。動けなくなって、火野さんに担がれている人もいた。俺は急いで車を降りて、楓さん達に混ざって肩を貸して支えてやる。
「もうすぐ救護班が来ます。頑張ってください」
声をかけると、肩を貸したその人は涙目になって頷いた。それが傷の痛みのせいなのか、生き残れた嬉しさなのか……たぶん、両方だろう。
無事に救護班に送り届けた後、楓さんは俺の方にジトっとした目を向けてきた。
「ウチらが中にいる間、お楽しみだったんだって?」
「違うって! これ見ればわかんだろ!」
俺はワゴン車の前で串刺しにされている邪鬼を指差した。死体は、後で清掃班が片付けてくれるらしい。
「わかってるって。というか、これ見えたんだ? 訓練の成果かな?」
楓さんは笑いながら邪鬼に近づいた。
「邪鬼っていうのは人に悪さするけど、その正体は人の負の念の塊なんだよね。だから、湧きやすい場所って限られてるの」
「考えようによっちゃ、戒めの具現化だな。どうもこのビルの持ち主、相当やらかしたぞ」
火野さんは悪い顔をしてビルを見上げた。彼の言うやらかしは、人間社会での悪行を指すんだろう。
俺が手帳にメモをとっていると、花さんがワゴン車の荷台を開けた気配がした。ブルーシートを取り出して、後部座席に広げ始めたのを見て、慌ててその手伝いをする。というのも、楓さんと鈴木君が邪鬼の返り血で汚れていたからだ。ワゴン車に血の匂いが付くのを嫌がって、楓さんはいつもブルーシートを用意している。
ふと、さっき肩を貸した際に血が付いたのを思い出して、俺はスーツの上着を脱いで荷台に投げた。なんだか、血も見慣れてしまった。
「疲れた~。早く帰ってシャワー浴びたい」
「それより、今回は特別手当てくれる約束っスよね?」
「はいはい。帰ったら封筒渡すから待ってね」
三人が後部座席に乗り込んだのを確認して、俺は運転席に乗り込んだ。
「みんなの服、後でクリーニングに出すから。事務所に着いたら纏めといてよ」
生返事を聞きながら、俺はエンジンをかけた。
初心者マークを付けたワゴン車は、軽快に避難区域の道を駆ける。かなり混むはずの道なのに、今は渋滞どころか人の気配すらない。邪鬼退治の事後処理が済むまではこのままだ。
「そういえば事後処理とかって、協会はいつもどうしてるんですか?」
「大体はガス爆発のせいにするらしい」
「ガス会社にお金出してるんだってさ」
風評被害より高い補償ってどれくらいなんだろう……。気になったけど、それ以上は考えないことにした。
しばらく道を走らせると、通行止めのバリケードに到着した。係の人に身分証を見せると、ようやく渋滞だらけの日常的な道に戻れた。
「どこか寄るとこある?」
何気なく聞いてみると、楓さんが「あっ」と声を出した。
「甘いもの食べたくない? ケーキとか」
「ケーキ……」
助手席に座っていた花さんが、ケーキに反応した。最近知ったけど、花さんは甘い物に目が無い。よく仕事帰りに、コンビニでデザートを買って帰るくらいだ。
花さんが興味を示したことに気を良くした楓さんは、どこか得意げに続けた。
「この辺にお勧めの店があるんだけど、寄ってみない?」
案内された駐車場に車を止めて、俺と花さんは車を降りた。楓さん達は血だらけなので、リクエストを聞いて車内に残ってもらった。事情を把握してない警察官が来た場合の職質対策に、火野さんにも残ってもらった。
でもよく考えると、逆効果な気もする。火野さん、堅気に見えないし……。
(できるだけ早く戻ろう)
そう心の中で呟く俺の肩には、花さんの左手が乗っている。取り憑かれると、そっちの肩だけ少し重くなることが最近分かった。だから、日によって乗る肩を変えてもらっている。
店に入ると、ショーケースを眺めながら、
「食べたいのある?」
そう小声で話しかけた。
でも花さんは夢中になっているらしく、返答が無かった。代わりに、
「綺麗……」
という、ケーキを選ぶ時に使うのかわからないような感想が返って来た。
(ケーキが珍しいとか?)
「もしかして、花さんの生きてた時代にケーキって無かったの?」
「あ、ありましたよ! 映画もケーキも、シュークリームだってありました! でも、今とはだいぶ違うもので……」
花さんは狼狽したようにそういうと、恥ずかしそうに、
「ここにあるの、全部お菓子なんですね。どれも凄く綺麗で、宝石みたいだなって……そう思ってしまって……」
そう教えてくれた。
桜邸に幽閉されていた花さんは、こうして少しずつ外の世界に慣れ始めている。知っている景色が少なくなって、真新しい物に埋め尽くされた現代は、彼女にとって少し寂しいものかもしれない。でも、花さんはこうして新しい物に目を輝かせて、楽しんでくれている。
「参考にどんな味か、わかる範囲で教えてあげようか? 食べてみたいの、好きなだけ選んでいいよ」
「え、でも」
「一度に食べきれなくても、冷蔵庫に入れとけばいいし」
「冷蔵庫……」
花さんは、「なるほど」というようなトーンの声を出した。
でも悩んだ末、彼女が選んだのは、果物が乗ったショートケーキだけだった。
「それだけでいいの?」
「だって、全部一度に食べてしまったら、また雪二さんと選ぶ楽しみが、無くなってしまう気がして……」
思わず顔がニヤけてしまって、咄嗟に片手で口の辺りを押さえた。店にいる人達に花さんは見えないんだから、今ここでニヤけてるのがバレたら、ケーキ大好きな食いしん坊みたいになってしまう。というか、花さんにバレるのが恥ずかしい。
「また来ようね」
なんとか冷静を装い、そう約束して、みんなの分のケーキも選んで店を出た。車に戻ると、ケーキを花さんにお願いして、また車を出した。
「そういえば、いつもお供え物をしてるけど、花さんはどうやって食べてるの?」
そう聞いたのは、彼女は物理的に物を食べる事ができないからだった。でも空腹を感じるし、食べ物の味も分かるらしい。
「えっと、いい香りがふわふわってして、お口に入れるとそれが食べ物みたいになるんです。でも、どうしてでしょう?」
その疑問への回答は、後部座席から聞こえてきた。
「亡くなった人は、香りを食べるんだよ」
「あ、だからお線香って、いい香りがして美味しいんですね」
そう聞いたので、線香の香りにもこだわってみようかと思った。線香というと、どうしても悲しい感じや、寂しい感じがするけど……今は花さんと買い物をする楽しみが、ケーキ以外にも増えて嬉しい気がした。
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