桜邸は化物屋敷④
「この桜は守り神ではありますが、所詮は美しいだけの桜ですから。花さんが殺されるとき、何もする事はできなかった。しかし、花さんの願いを知り、せめてその願いだけは叶えさせてやろうと考えたようですね。花さんの魂を自らの幹に取り込んでいたんです」
雷さんは、後ろで纏めていた髪を解き、手櫛しながらそう言った。バサッと伸ばされた長い髪は、陽に当たると金と黒の部分が、それぞれ艶やかに光を反射させていた。
「ほら、蔦美がどんなに痛めつけても除霊できなかったでしょう? それに、何の力もない白鳥君が彼女に触れられたのは、花さんが桜の力を自由に引き出せていたと考えるのが自然じゃないですか。桜の木は攻撃性を持ちませんが、悪霊になった花さんは別です。桜に残された大妖としての力を、攻撃や恋愛の為に全て注ぎ込んだんですよ」
「……通りで、ただの悪霊があんなに強かった訳。恐れられて力を蓄えていたならまだしも、師匠の現役時代からやたら強かったのは、どうも違和感があったんだよね」
楓さんは溜息を吐くと、雷さんにジトッとした目を向けた。
「これだから廃れた信仰って厄介なんだよね~。金紅様はそういう事、知ってても教えてくれないし。というか、師匠絶対知ってたよね!? 何で教えてくれなかったんだろ」
雷さんは楽しそうにケラケラ笑った。
「それでも花ちゃんを除霊できるから、楓ちゃんは現人神なんでしょ? 人間の為だけに働いてくれる神様なんて、人間にはさぞ、頼もしいでしょうね」
「現人神なんざ、無理難題を押し付けたいだけの人間が作った称号だ。どこぞの神がもうちょっと秋葉家に手を貸してやれば、こいつはその役を押し付けられずに済んだんだけどな」
雷さんの棘がある言葉に、今度は火野さんも棘を含んだ言葉を投げつけた。
「酷い言いようじゃないですか。私、慈悲深い方だと思いますよ。どこかの誰かさんと違って、神として失敗もしないし」
「そうかい。だが、今回はその限りじゃないようだが?」
何か含みを持たせたような火野さんの言葉に、雷さんは手櫛する手をピタッと止めた。だが、すぐにまた何でもないというように言葉を返した。
「……面白いものが見たかっただけです。ほら、真面目に仕事してると息抜きしたくなるじゃないですか。それに、今のところはまだ失敗とは言えないでしょ」
雷さんが俺の方を見た。どうやら、失敗とは、俺が花さんを祟り神にしてしまった場合を指すみたいだ。
「祟り神なんかにさせません」
「そうですか。また花さんが暴走して、先日の様に
雷さんはまた口元に、品の無い笑みを浮かべた。
「では、始めましょうか。この桜の木と花さんの縁を辿り、花さんを呼び戻します」
雷さんがそういった途端、雷さんの髪の毛がブワッと舞い広がり、それに合わせて彼女の背中から四本の蜘蛛の脚が飛び出した。頭には角が生え、顔には六つの黒い目玉の様な模様が浮かび上がる。
「ああ、失敗しました。上、脱いどけば良かったですね」
雷さんは、腕が生えた事で破れたスーツの背中辺りを気にしていた。
「このスーツ高いのに……。下の変化まで解かなくてよかった。危うく、すっぽんぽんで帰らなきゃいけないところでした」
「知らねえよ。早よやれ」
火野さんに急かされ、雷さんは不満そうに口を尖らせながら桜の幹に手を触れた。するとその部分だけが、まるで水面に手を触れた時のように歪んでいく。
「糸を垂らしてあげますから、しっかり掴まりなさい」
指の先から、金色の糸が伸ばされた。糸は歪められた幹を通り抜け、どこかへ降りていくように見えた。糸の行き先が気になって目を凝らすと、楓さんに止められた。
「あの糸の先は、あの世につながっているの。場所はたぶん、三途の川辺りかな。もしあの先に幽霊を見たら、
「三途の川って、あの世とこの世の境目なんだっけ?」
「そうだよ。でも、おかしくない? 花ちゃん、なんでまだ川を渡ってすぐの場所にいるんだろ。河原なんて、特別居心地のいい場所でもないと思うんだけど」
楓さんが首を傾げると、雷さんは少しだけ何か思案するような様子を見せた。
「でもまあ、おかげで早く呼び戻せそうですよ。三途の川は、こちらとの距離が近いですから」
ふと、花さんとの別れ際を思い出した。
『どうか私の事を忘れないでいてください。私は雪二さんの事、これから先もずっと見ていますから』
花さんは俺の事を案じて、敢えてこちらとの距離が近い三途の川に、留まってくれているんだろうか。それとも、俺がそっちに行った時、出迎えてくれようと待ってくれているのかな。
(そうだとしたら俺は、また君を何十年も待たせようとしていたのか)
「あ、糸を掴んでくれました。閻魔様には話を付けてありますので、あとは、花さんを引っ張り上げるだけです。でも、花さんがいくら女の子とはいえ、引っ張り上げるのは結構な力仕事なんですよ」
「糸を引っ張ればいいんですか?」
とにかく、早く花さんを引き上げてあげたくて、そう聞ききながら近づいた。すると、雷さんは少しだけ驚いたような顔をした。
「あなた、思っていた以上に変わり者ですね。普通、憑り殺されると言われたら、糸には近付かないと思うんですが。……それに、今の私のように本性を現した怪異に近づく人間なんて、霊媒師くらいしかいないと思うんですけど」
「花さんに早く会いたいだけですよ」
そう言いながら、糸を掴んで引っ張ってみる。
(なるほど、確かに大変かもしれない。でも、重みがあるっていう事は、この先に花さんがいるっていう事だよな?)
そう言い聞かせて、黙々と糸を巻き取っていく。でもなぜか雷さんはその間、不思議そうな顔をして手を止めていた。
横目で様子を伺っていると、
「この人、いつもこうなんですか?」
と、俺を指差しながら楓さんに質問を投げかけていた。
「白鳥君は、今時珍しい奇特な人ですよ」
楓さんは、何故か得意げにそう言ったけど……。
「それ、褒めてるの? 貶してるの?」
「誉め言葉でしょうね」
雷さんはそう言って、ため息を吐きながら少し笑った。それから、何を思ったのか俺の方にその細い目を近づけてきた。
「なんですか?」
糸を引く手は緩めずに、雷さんの方を向いた。
雷さんの顔からは、あの不気味な作り笑いが消えていた。
ひな人形の様に整った顔。浮かんだ目の模様はまさに妖怪という感じで少し怖いけど、それも合わせて綺麗だと、ふと思ってしまった。でも、それは人間に向ける誉め言葉というよりも、素敵な絵画を見た時の感想に近いものだった。
雷さんは少し開いたまぶたの隙間から、しばらく金色の瞳で俺をジッと見ていた。
でもやがて、
「私のタイプではないですね」
そう囁いてきた。
「やっぱり、貶されてます!?」
雷さんはクスクスと笑った後、ようやく元の場所に戻って、また手を動かし始めてくれた。人間の手と背中から生えた手を器用に使いこなして、慣れた手つきで糸を巻き取っていく。
「よし! がんばろー」
「ったく。しょうがねえなぁ」
楓さんは入院中の病人だけど、体に鞭打って雷さんのサポートをしてくれた。火野さんも渋々糸を引っ張ってくれている。
少しして、雷さんは糸の先を覗き込むように、幹に顔を近づけた。
「ああ、思った通り。あの子、ただ掴まるんじゃなくて、糸を登って来てますね」
「花さんが!?」
意外とお転婆な一面が見れた。
いやいや、そうじゃなくて、花さんが頑張ってるんだから、俺も頑張らないと! だってこの糸を登るって、かなり大変なんじゃないか?
そう思って、より一層力を入れて糸を引っ張った。子供の頃やった綱引きを思い出す。でもこんな細い糸、途中で切れたりしないかな。気のせいか、最初より重さが増している気もするんだけど。
(俺が疲れてきてるせい?)
俺の心を見透かしたのか、雷さんは口を開いた。
「大丈夫。この糸は切れませんよ。花さんはきっと、白鳥さんがいるこちら。つまり、上だけを見ているはずなので、下は絶対見ないでしょう」
「あ、はい」
理由はよく分からないけど、大丈夫らしい。今は、この神様を信じよう。
「あ、見えました。皆さん、あと一息です」
どれくらいの時間が経ったのか、雷さんの言葉に救われた気持ちになった。花さんが、ちゃんとこっちに来られているって聞いて安心したからだ。
「もう下見ても大丈夫?」
嬉しくなって、ついそう言うと、楓さんに怖い顔で制止された。
「絶対ダメ。むしろ、今の方がマズイ!」
(今の方がマズイってどういう事?)
俺がポカンとした顔をしていたせいか、楓さんの言葉がきつくなる。
「白鳥君は見えないだろうけど、花ちゃんの後ろから、タチの悪い幽霊が上がって来ちゃってるの!」
「うーん、糸を長くし過ぎましたかね? でも大方、糸を垂らした時に、勘付いた幽霊達が飛びついて来ちゃったんでしょう。そんなに数は多くないはずです」
「追い返します」
楓さんが鋏を構えた。でも、何故か慌てたように雷さんが口を出した。
「駄目駄目。楓ちゃんはまだ体が治ってないでしょ。流石に現人神を私の我儘に付き合わせて引退させるのはマズイから、下がってて。ここは、私が引き受けてあげましょう」
「白鳥、合図したら糸を持ったまま後ろに大きく跳べ」
妖しく微笑む雷さんと、煙草を一際大きく吸った火野さん。タチの悪い幽霊が上がって来てるって聞こえたけど、俺以外には一体何がどう見えているんだろう……。
ピリピリした雰囲気が漂っていた。
久しぶりに感じる緊張感に、心臓はドクドクと煩く脈を打っている。
無性に喉が渇いて、唾を飲み込んだ時だった……。
「跳べ!」
火野さんの合図で勢いよく後ろに跳躍すると、握りしめていた糸の先で、何かがズルリと抜けたような感じがした。それとほぼ同時に雷さんが糸をちょん切って、蜘蛛の脚が上がって来た何かを貫いたように見えた。
「その細い手足でよくやった。悪りょ……いや、桜花。お前の執念には全く感服するぜ」
火野さんは感心したように笑いながらも、警戒の手は緩めなかった。幹の歪みが直るまで、火を糸の先に向けて威嚇してくれていた。
でも、肝心の花さんはどこに?
「楓さん、花さんは?」
そう聞くと楓さんは、何故か言葉を詰まらせた。
でも、やがて言いづらそうに口を開き、俺のすぐ目の前を指差した。
「そこにいるよ」
でも、そこにあるのは青葉を茂らせる桜の木、それだけだった。
「花ちゃんは今、白鳥君の目の前にいるんだよ……見えない?」
でも、どんなに目を凝らしても、彼女の姿を見つけられなかった。
ふと、雷さんの言葉を思い出した。もしかしたら俺は、花さんの姿を見る事が出来ないかもしれないと、彼女は言っていた。霊媒師でもないただの人間が、幽霊を見つけるのは大変なことだって、前に楓さんにも言われていた。
でも、心の底では思っていたんだ。俺は花さんが選んでくれた運命の人だから、俺には花さんが見つけられるかもしれないって。だって、最初に会った時だって、俺はあの子を見つけてあげられたんだから。
でも、現実はそうじゃなかった。
ここに花さんがいるはずなのに……。俺の所に戻ってきてくれたはずなのに、彼女の姿を見つけてやることができなかった。
落胆した俺の顔を見て、雷さんがゲラゲラ笑い出した。作り笑いじゃなくて、心の底から面白がっているようだった。
「金紅様?」
楓さんが酷く困惑した顔を向けても、彼女は体を仰け反らせるようにして笑い続けていた。そして一頻り笑った後、指で涙を拭った。
「では白鳥さん、見えない幽霊との新婚生活、せいぜい楽しんでくださいね」
それだけ言い残して、雷さんと大蜘蛛達は姿を消した。
「白鳥君……。大丈夫?」
気が付けば、楓さんが心配した顔を俺に向けていた。
「楓さんには、花さんが見えてるんだよね?」
そう聞くと、楓さんは少し俯いて苦しそうな顔をした。でも、すぐに視線を俺の目の前へ、花さんへと向けたようだった。
「……見えてるよ。花ちゃんは、白鳥君が糸を引っ張ってくれた事に、凄く感謝してる。重くなかったかって、心配してるよ」
「全然平気だよ。軽すぎて不安になったくらい」
そう笑いかけるけど、花さんの顔は見えない。気配すら感じられない。だから仕方なく、楓さんに通訳を頼んだ。
「花さんはどこも怪我してない? さっきの幽霊達に傷付けられたり、糸を登った時に手足を痛めたりしなかった?」
楓さんは口を開こうとしたけど、一言も発しないまま口を閉ざしてしまった。花さんが何かを伝えているのか、しばらく耳を傾けていたようだった。やがて、楓さんはまた俺の方を見て、花さんの言葉を教えてくれた。
「『大丈夫』だって。むしろ、白鳥君が糸を引っ張ったり、さっき後ろにひっくり返ったりしたせいで怪我した所を心配してるよ。今、花ちゃんの手が白鳥君の手に触ったんだけど……わからない?」
花さんが俺を案じてくれているのに、その声も、触れている手も、何も感じる事はできなかった。
ぐちゃぐちゃな感情が、頭の中を支配しそうになった。でも、頭を振ってそれを振り払う。
そうだ。高望みするのは良くない。花さんが戻って来てくれただけでも、奇跡なのに……。ここに花さんがいる。悔しいけど、今はそれだけで十分じゃないか。
俺は見えない彼女に、精一杯の微笑みを向けた。
「おかえり、花さん。怪我が無いようで、ほっとしたよ」
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