桜の下で春を待つ君⑰

 近づいて来る足音。それが誰なのか気付いていたけど、振り返る気力すら無かった。


「桜花は成仏したのか……」


 足音の主は、やっぱり蔦美だった。自慢の式神がいいようにやられたっていうのに、その声には怒りも落胆も大して感じられなかった。


 その様子に、無性に腹が立った。


「何しに来たんだよ」


「無論我が人生を掛けた仕事の、結末を見届けに来たのだ」


「それは残念だったな。花さんは、俺が成仏させた。…………成仏、させてしまった」


 目に涙の膜が張る。でも、こいつの前で涙は見せたくない。必死に感情を抑え込んでいると、蔦美は少し笑った。


「存外、悪い結末では無かった」


 それだけ言うと、蔦美は踵を返した。もっと凄い嫌味を返して来るかと思ったのに、拍子抜けだ。


(人生を掛けたって言った割には、随分あっさりしてるじゃないか)


 蔦美の真意がまるでわからない。


「馬鹿弟子が中で倒れている。儂を通さぬよう、随分意気込んでいたからな」


 そう呟くと、蔦美は指笛で大きな鳥を呼び、その背に乗って去っていった。


 俺はなんとか立ち上がると、フラフラ歩きながら裏口から中に入った。


「おかえり」


「よう、戻ったか色男……なんだ、酷い面してるじゃねぇか」


 廊下の壁にもたれかかった二人は、俺を見上げながら、そう声をかけてきた。楓さんは血を流してぐったりしていて、火野さんは体の半分以上が崩れて、そこから黒い液体が溢れ出ていた。話に聞いていたタールや煤が流れ出しているんだろうか。


「悪いんだけどさ、煙草に火を付けてくれない? 右ポケットにあるから」


 鋏を持っていた楓さんの手は、血だらけだった。きっと今は指先一つ動かす事も、ままならないんだろう。


「やれやれ、人を残酷な作戦にねじ込んでおいて、気楽な事言ってくれるよな」


 煙草を一本引きずり出して、火野さんに咥えさせた。火を付けてやると、その煙を集めて、火野さんは少しづつ体の欠けた部分を取り戻していった。


「昨日の夜さ、俺と花さんが話せるように、蔦美の式神を邪魔してくれたんだろ」


「まあね。でも、白鳥君が花ちゃんに襲われそうになったら、すぐ突入できるように見張ってもいたんだよ。でも、その心配はなかったね」


 楓さんはそう言って力なく笑っていたが、やがて目を伏せた。


「…………色々、ごめんね」


「いいよ。結局、この道を選んだのは俺なんだ。二人とも命懸けであの式神と蔦美を足止めしてくれたんだろ。二人のおかげで、俺はあの子にプロポーズできたんだよ。おかげで、凄い可愛い笑顔が見れた」


 格好付けて笑おうと思ったのに、目と喉の奥が熱くなってしまった。


「俺が指輪をあげたから……だからあの子は、成仏したんだ」


 遂に涙が溢れて止められなくなった俺は、みっともなく嗚咽した。


 きっとこれから先、あんなに嬉しいことも、こんなに悲しい事も無いんじゃないかって、苦しい気持ちで一杯だった。ただ、あの子の笑顔が、忘れられない。忘れたくない。だから思い出す度、涙を流すんだ。


 子供みたいに泣いていると、突然大きな手が乱暴に俺の頭を撫でた。


「泣くなよ……お前の恋人は、どうせ笑って逝ったんだろ。最後の時まで傍にいてやれたなら、十分じゃねぇか」


 復活した火野さんは俺達を抱え、歩き出した。廊下を抜け、玄関を出て、桜邸の外へと歩いた。俺らをワゴン車に詰め込んで、エンジンを掛けた。


「全く、そんな傷さえすぐ塞がらんなんて、人間は不便でしょうがないぜ。さっさと病院行くぞ。お前らまとめて診てもらえ。そんで、早くそんな傷治しちまえ」


 次第に遠ざかる桜邸を、リアガラス越しに俺はずっと眺めていた。

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