桜の下で春を待つ君⑬
楓さんは震える手で、ポケットから煙草ケースを取り出し、眺め始めた。
「あたしだって、自分がおかしいと思ってるよ。だってあき君に会うまで、人間らしい生き方なんてできなかったし。家の歴史だとか、平和を護る役目だとか、要らない物ばかり押し付けられてさ。顔も知らない誰かの為に、自分を削って戦わされる人生だった。でも、辛くて死にたいって思った時、あき君に会った。あき君は私と同じで、要らない物を人に押し付けられた妖怪だったんだ」
「楓さんが、やりたくもないような事させられていたのは、何となくわかる。俺だって、花さんの為じゃなかったら、命懸けなんて絶対無理だと思う。でも、火野さんに人間は何を押し付けたんだ? 人間の為に戦う理由って——」
「無いよ」
俺の言葉を遮って、楓さんが否定した。そういう彼女の目は、目が、真っすぐ俺を捉えた。
「あき君が人間に尽くす理由なんて、何もない。むしろ、恨まない方がおかしい。妖怪は人間の念で姿を変えるのに、人間は彼に酷いことをした。大昔と違って、煙草だとか、工場の煙害だとか、煙は人間の中で随分怖いものに変わったでしょ? 最初に会った時、あき君は、タールや煤で重くなった体を引きずってた」
子供の頃教科書で読んだけど、工場の煙で大気汚染が進んで、公害が起きた事があったらしい。沢山の人が苦しめられた。昔の出来事だけど、終わった出来事じゃない。今も、俺達の生活に煙の害は潜んでいる。目を逸らしているだけで、実際はもっと身近にある。多くの人が苦しんでいる。
「元々は、小さな村を護っていた火の神様だったのに、煙が怖いものになったせいで、土地を汚す祟り神になっちゃった。殺せって依頼されたから、その土地とは縁切りさせて式神になってもらった。本体のドロドロは、完全には治らなかったけど、『前よりはいくらかマシ』、だってさ。それなのに、煙草は手放せないの。煙が無いと、ドロドロが出て来ちゃうから」
楓さんは、また視線を煙草ケースに戻して、その中の一本を取り出した。
煙の公害は、とても恐ろしい。人間にとって、煙は毒でしかない。それは事実だ……。だけど、楓さんにとって、火野さんは違うんだろう。火野さんは火野さんで、人間が作り出した災いに苦しめられている被害者なんだから。
「あき君は、人を恨み切れない優しい神様。だから、式神になってくれた。二人で色んな事件を解決したんだ。生きてて楽しいって思えたのは、あき君が傍にいてくれたおかげ。煙に恋は必要ないのに、あたしが恋を教えてしまった。それなのに……あたしは……」
楓さんは、震える声でそういいながら、煙草に唇を寄せた。火を付ければ、火野さんと同じ匂いがする。愛おしそうに煙を喫んで、笑いたいのか、泣きたいのか、どちらとも取れる表情を浮かべた。
「『ちゃんと婆になってから死ね』なんて、そんな幸せな死に方、絶対できない。だから、指輪を受け取れなかった。……人生で一番嬉しかったのに、同じくらい怖かったから」
楓さんは寂しそうに、煙と弱音を吐きだした。
「それに婚約なんて強い縁を結んだりなんてしたら、律儀なあいつは、あたしがいなくなった後、ずっと一人ぼっちになっちゃうじゃん。だからあき君はさ、あたしの事なんか綺麗さっぱり忘れて、あいつを幸せにしてくれる妖怪と一緒になればいいんだよ」
楓さんなりに、考えて出した結論なんだろう。でもなんだか、俺は強い怒りが込み上げてくるのを感じた。
「随分酷い事言うよな。火野さんの気持ちは無視すんのか? 逆の立場だったら、俺みたいにプロポーズしてた癖に。どうせ、火野さんには正直に話してすらないんだろ。そんな事で、火野さんが『恋愛映画みたいな恋』をして別れられる訳ないだろ! ……それに、そんな事言うなら、なんでまだ腐れ縁を結び付けてるんだよ」
指摘すると、楓さんの指が少し跳ねた。
「…………白鳥君さぁ、よく気付くよね。全く、その通りだよ。纏わりついてウザがられても、生きている間は逃がしたくないんだよ。あたし、自分勝手で酷い女だから」
楓さんはまた自虐的に笑った。髪を下ろしている時は気が付かなかったけど、楓さんの首には古傷がある。とても深く傷つけられたせいで、跡が消えずに残ってしまったんだろう。血の色のように赤くて、痛々しい。霊媒師の仕事は命懸けだ。秋葉家に生まれた楓さんは、もしかすると物心ついた時にはもう、その険しい道を歩かされていたのかもしれない。
「もしかして、楓さんが花さんを見逃したのって——」
楓さんに睨まれ、言葉を飲み込んでしまった。でもそれは正解だと言うようなものだ。
(やっぱり、火野さんに会う前の自分を、道具のように育てられた花さんに重ねて見てるのか)
そりゃ、必死になるよな。最後くらい報われて欲しいって、無茶をするのもわかる。だって、俺だって花さんの過去に、自分の子供時代を重ねて見てしまっている訳だし。
何かを察した楓さんが、恨みがましそうに、俺を見た。
「白鳥君ってさ、実は怖い人?」
「俺が?」
「話してると油断しちゃって、つい話しちゃいけない事まで話しちゃった。今まで、絶対吐き出さないように、必死に隠し通してきたのに……。そのうえ察しがいいとか、怖い以外の何でもないんだけど」
「たまたまそういう気分の時に、偶然ここに俺が居合わせただけだろ」
誰だって、傷心してる時は愚痴を言いたくなるよ。だから暴露したのは、悪い偶然が重なったせいだ。
「はぁ……なんであの子に情けなんて掛けちゃったんだろう。自分で自分の首を絞めるのって、こういう事なんだろうね」
「心配しなくても、内緒にしておくよ。でも、これが終わったらちゃんと話せよ。俺を【縁結び作戦】に巻き込んだ事は、それで許してやるから」
楓さんは困ったような笑みを作って、また視線を窓に戻した。その先には、火野さんがいる。その彼が窓の外で、合図をしていた。あれだけあった木の枝が見当たらない所を見ると、花さんが枝を引っ込めるまで燃やし尽くしたんだろう。絶対的な安全が確保できたから、楓さんを呼んでいるんだろうな。
「さてと、行こうか。あいつ気が短いから」
煙草を咥えた楓さんがニッと笑った。その顔に、もうさっき見せたような寂しさは感じられない。思い人の行く末を憂うものの、それでも離れられずに縋り付き、やがて訪れる結末を悲観する弱い女の姿は、煙の様に消えた。今ここにいるのは、最強の癖にズボラでガサツな霊媒師・秋葉楓、その人だけだ。
車を降りると、焦げた臭いが辺り一帯を覆っていた。よく見れば、桜邸の門が壊されたどころか、近隣の空き家にまで戦いの被害が及んでいる。まさか、半径一キロを立入禁止区域にしたのって、これを心配してのことだったのか!?
俺の考えを察したのか、楓さんがすかさず耳打ちした。
「いやいや、流石にあき君だけじゃそこまでやらないよ。花ちゃんが白鳥君を探して、この辺一帯を攻撃し始めたら別だけど」
「いきなり戦いの規模、デカくなりすぎじゃない!?」
「まあ、二人ともそれなりに、業界じゃ名の知れた怪異だからね。これくらいは大目に見てもらわないと」
凄すぎる。まるでファンタジーやヒーロー映画の世界に迷い込んだみたいだ。俺だけ普通の一般人なんだけど、最後までついて行けるだろうか。いや、意地でもついていくけど!
「さっさと行くぞ」
痺れを切らした火野さんが、自分自身を煙に変換しながら俺達の方へ漂ってきた。そのまま、俺達をぐるっと囲んで、すっぽりと覆い隠してしまった。
「あき君自身が煙になって隠してくれると、気配を消す効果はより高いんだ。強風が来ないうちに、さっさと行こう」
俺達は、門があったはずの場所まで足を進め始めた。
「遺言がある人、今のうちにどうぞ。あたしは特に無し。あ、やっぱりウニ食べたかった。今、旬の時期だし」
(遺言、それで本当にいいのか?)
そう思いつつも、俺は決意を口にした。
「俺は、花さんに告白するまでは絶対死なない! だから遺言は無しだ」
「おお~勇ましいねぇ」
楓さんが感心したようにそう言うと、俺達を隠す煙が、少しだけ揺らめいた。
「……楓」
火野さん、何か言い残したいことがあるんだろうか。
「俺は煙の妖怪だ。煙ってのは、纏わりつくもんだろ? 俺が離れないのはそのせいだ。だから…………その、なんだ。纏わりつかれるのも、別に嫌いじゃねぇよ」
(ん? それって……まさかさっきの会話、聞いてたのか!?)
ハッとして楓さんの顔を見た。が、当の楓さんは今一ピンと来ない顔をして首を傾げていた。
「新しい決め台詞? なかなか難しい事言うじゃん」
(なんでだよ!)
「纏わり付く、纏わり付かれる……。あ、わかった! いざとなったら、花ちゃんの纏わり付くような呪いをウチらが引き受けて、白鳥君を護ろうって訳ね。いいじゃん! 名付けて、【ここは俺に任せて、お前は先に行け作戦】」
「作戦名長っが! しかも、そのまんまじゃん!」
というか、何で気付かないんだよ! どう考えても、さっき楓さんが車内で打ち明けた事への答えだろ! 秘密にしたかったみたいだけど、どうしてか火野さんには全部聞こえてたんだよ! 気付けよ!
煙になっているせいで、火野さんが今どんな顔をしているかは分からない。でも、頑張れ火野さん! こうなったら火野さんが頑張るしかないんだ! もっと分かり易く、ダイレクトに伝えてみようぜ。
「チッ……何でもないですー。その作戦でいきましょう。何でしたっけ? 【てめえなんか
火野さーん!! 拗ねてる場合じゃないだろ!
俺はこれからプロポーズするって言うのに、二人とも、なんて物を見せてくれてんだ! 俺まで失敗したらどうする!
というか、俺が言うのもなんだけど、面倒臭い人達だな!
自分の事でもないのに、思わずため息を吐いてしまった。それをどう解釈したのか、楓さんは、
「大丈夫、だいじょーぶ! 縁結びの神様の現人神、な~んて謳われるあたしがいるんだもん。プロポーズは絶対成功するよ」
煙草を咥えたまま、そう言ってウインクした。
(……いや、不安しかないけど)
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