桜の下で春を待つ君⑨


「ここかな……」


 メモにあった家を訪ねた。さすが花さんの許嫁だけあって、その家は和風の豪邸だった。表札には、佐々木の文字。手紙に書かれていた許嫁の名前、【佐々木一郎】と同じ苗字だから、間違いはないだろう。恐る恐るインターホンを押した。


「どちら様?」

 インターホンから男の声が聞こえてきた。


「白鳥雪二と申します。佐々木一郎さんは御在宅でしょうか?」

「あ、白鳥さんか」


 少しして、玄関から出てきた人物を見て、思わず俺はギョッとして叫んでいた。


「不動産屋さん!?」


「ははは。久しぶりだね~。楓さんから話は聞いてるよ。親父も白鳥さんに話したい事があるって、珍しくベッドから起きて待ってたんだ」


「まさか……」


「その、まさかだよ。佐々木一郎は僕の父なんだ。もう九十近い老人でね」


 六十年という時間がどんなものか、花さんの見た目が若々しいのですっかり失念していた。生まれたばかりの赤ん坊が、定年を間近に控えた大人になるような、長い年月だ。


(花さんは、もうそんなに長い年月、あそこに捕われてるんだ……)


 家に上げてもらい、広い廊下を進む。その間、不動産屋さんは、桜邸を掲載した経緯や、一郎さんの話をしてくれた。


「お袋と結婚する前、親父に花さんという許嫁がいたということは知ってたよ。親父は一時期その事で酷く気を病んでいたからねぇ。だから、楓さんからあの提案をされたとき、親父は珍しく僕に頭を下げたんだよ。僕は三男だったから、自分の好きなことを、やりたいようにやらせてもらってたし、せめて恩返しになればっていう軽い気持ちで請け負ったんだけど……あれ、もしかして危ない目にあった?」


「あ~……いえ、大丈夫です」

 思わず苦笑いをしていた。


「親父は厳しいけど、根は優しい人でね。不器用ながら愛情をかけて育ててくれたよ。まあでも、お袋と会うまでは薄情な頑固者だったらしいけど。……でも、そんな親父も心臓を患ってからは、すっかり気を落としてしまって、最近は寝て過ごす事が多くなってしまったよ」


 不動産屋さんは自虐的に笑いながら、座敷の襖を開けた。

 座敷の奥には、立派な着物を着た老人が椅子に腰かけていた。白髪は薄く、頬はこけている。枯れ木のように細くなった手には、木製の杖が握られていた。


「親父、白鳥さんが来ましたよ」


 老人の目がまっすぐに俺を捉えた。大病を患った老人とは思えぬ程、その眼光は鋭く、思わず息を呑んだ。自分よりも、か弱い老人のはずなのに、彼の気迫は、座敷に上がろうとした俺を、思わず躊躇せる程だった。長年この大きな家を支え続けてきただけあって、男の纏う雰囲気は、切れ味の鋭い刃物のように感じられる。


 でも、その張りつめた空気は、一人の声にあっけなく壊された。

「曾爺ちゃん遊んでー」

 別の襖から、小さな女の子が部屋の中に飛び込んできたのだ。その子が無邪気に抱っこをせがむので、老人は真面目な表情を崩して微笑んでしまっている。


「こらこら、今から曾爺ちゃんはお客さんと大事な話があるから、向こうで爺ちゃんと遊ぼうね」

「はーい」

 不動産屋さんは少女を抱き上げ、廊下の向こうへと消えていった。


「曾孫の1人じゃよ。遠方に住んでいるせいで、たまに会う儂の事が珍しいんじゃろう」


「元気が良くて、とてもかわいい子ですね」

 近づきながらそういうと、彼は口元に笑みを浮かべた。


「儂もそう思う。孫達は、目に入れても痛くない程可愛い」

 彼の目は笑っていた。


「花さんに許嫁がいた事を聞いたかね。儂が、その佐々木一郎じゃ」


「白鳥雪二と申します。本日は、お時間を作っていただき、ありがとうございます」


「それは違う。楓さんに頼んで、君をここに呼んだのは他でもない、儂なんじゃ。花さんの事で、どうしても、君に伝えなくてはならないことがあってな」


 そういうと、老人は近くの椅子を指した。どうやら、座って良いということらしい。ふと、就活していた頃を思い出した(仕事辞めたから、またやらなきゃだけど)。


「もう知っておるじゃろうが、六十年前、儂と花さんは結婚式を間近に控えていた。儂らの父は互いの家の為に、儂らを結婚させようとしていたんじゃ。じゃが、儂は花さんがどんな人なのか、全く気にもとめていなかった。結婚についても、儂の身の回りの世話をする者が1人増えるくらいにしか思っていなかったんじゃ……全く、酷い話じゃろ」


「そんな…………」


 花さんは愛を求めていたのに、これじゃ例え一郎さんと結婚していたとしても、彼女が幸せになれていたか分からないじゃないか。


 俺の胸中を察したのか、一郎さんは苦笑いした。


「良い。わかっておる。当時の儂は冷たい人間じゃった。父の教えだけを胸に刻み、仕事をすることだけを生きがいにしていたんじゃ。……じゃが、今の家内に出会って、初めて人の温もりを感じたんじゃよ。生まれた子供を腕に抱く喜びを知り、その時になってようやく、彼女に会わなかった事を後悔したんじゃ」


「それは……どうしてですか?」


「もしかすると、彼女もまた儂と同じで、愛を知らぬ人間だったのかもしれんと思ったからじゃ。じゃから彼女の死後、彷徨い続ける彼女に会うため、儂は桜邸に赴いた。じゃが、彼女の待ち人は儂ではなかった。……当然じゃ。彼女にとって、儂は自分をほったらかした男じゃ。それも、他の女と所帯を設けた後なんて、尚更じゃろ」


 一郎さんは自虐的に笑った。


「あれから何年経っても、どうしても彼女の事は心残りでな。じゃが、もし彼女と儂が結ばれていたとしても、儂はきっと彼女を幸せにしてやることなんて、できなかったじゃろう。冷たい手が触れあったところで熱は生まれまい。儂は、儂の選んだ選択に、この人生に間違いは無かったと思っておる」


 花さんは両親に将来の旦那、つまり一郎さんに尽くす為だけに育てられた。花さんは、尽くし続ければ愛してもらえると、自分自身に言い聞かせて、道具のように扱われることに耐えていた。でも、一郎さんもまた人の温もりを知らない人間だった。愛を知らない人間同士が出会ってどうなるかなんて、俺は知らない。

 でも、もしかしたらと考えてしまうんだ。もしかしたら、孤独な二人は惹かれ合って、暖かな家庭を築けていたかもしれないって。だからこそ、一郎さんは自分が花さんを幸せにできたかもしれない過去の選択を、否定したいんだろう。


「儂の人生に、間違いはなかったはずじゃ…………ただなぁ、花さんが六十年も独り待ち続けているのいうのは……どうにもなぁ……」


 そう呟き、遠くを見つめる瞳には、涙の膜が張っていた。愛を知り、家族に恵まれた彼は、同じような境遇にいながらも、愛を知ることなく亡くなった彼女に、心を痛めていたんだろう。花さんの願いに気付いた頃には、彼が彼女にしてあげられる事はもう何も無かった。それなのに、今まで途方もない罪悪感を抱えながら生きて来たんだろうか。


「……彼女にとって、思い人と結ばれるのが人生の春ならば、彼女はまだ、冬空の下凍えておるんじゃろうか」


「春は来ますよ」


 一郎さんは大きく目を見開いて、俺の顔をまじまじと見た。今度は臆さず、俺は彼の目を正面から受け止める。


「冬に取り残されたあの子に、最後に桜を見せてやりたいんです。だから俺が、あの子を幸せにします」


 一郎さんは目を閉じ、俯いた。溢れ出た涙の粒が、ポタポタと落ちて着物を濡らしている。


「儂は、あの日からずっと自分を責め続けていた。どうして彼女が生きていた頃、彼女の為に心を砕いてやれなかったのかと。自分だけが愛の温もりを知り、彼女を置き去りに春を謳歌してしまった……家族に恵まれた幸せを感じつつも、儂は……」


「一郎さんが思っているほど、俺はあなたに落ち度は無いと思います。だって、恋に落ちるかどうかなんて、その時にならないと分からないじゃないですか」


 顔を上げた一郎さんは、泣きながら笑っていた。


「ありがとう雪二君。……花さんを、よろしく頼むぞ」


 差し出された手を握り返すと、その手は僅かに震えていた。息子さんは一郎さんが寝て過ごすことが多くなったと言っていたけど、きっと一郎さんは起きているのも大変なんだろう。それなのに、俺と花さんの為に時間を作ってくれたんだ。


「お大事になさってください」


 俺は頭を下げて佐々木家を後にした。


 一郎さんとの会話が、俺の決意を固くした。どんな結末が待っていようと、俺はあの子に告白すると決めた。

 そうと決めれば、次に考えるのは告白のシチュエーションだ。お互い好き合っているみたいだし、最早プロポーズをすると言っても過言ではないはずだ。そうなると、婚約指輪を用意して、タキシードを着て、薔薇の花束を抱えて会いに行くのが正解なんだろうか。


 そう考えていると、突然後ろから、

「雪二さん」

 俺を呼ぶ花さんの声が聞こえた。


 あまりにも突然で、びっくりして飛び上がった。たった今まで、プロポーズの方法を考えていたなんて、恥ずかしくて言えない。

 でも、どうしてここに? 楓さん達の目を搔い潜って、桜邸から抜け出して来たんだろうか。


 できるだけ平常心を装いながら、後ろを振り向くと、そこには、俺のパーカーを着ている花さんがいた。そういえば、花さんが姿を消したとき、パーカーを貸したままだったっけ。


「迎えに来てくれたの?」


 気恥ずかしさを誤魔化すようにそう言った後、ふと、花さんの表情が、なんだか沈み込んでいることに気付いた。


「ごめんなさい」


 何かが込み上げて来る気がして、思わずせき込んだ。口を押えた手のひらを見れば、赤く染まった桜の花びらがくっついていた。その途端、視界が斜めに傾いて、いつのまにか、地面に倒れ込んでいた。


「ごめんなさい。ごめんなさい。役立たずでごめんなさい。期待に応えられなくてごめんなさい。『何でもするなんて言わなくていい』のに、傍にいて欲しいだなんて、そんな事言わせてごめんなさい。雪二さんが求める事、何もして差し上げられないのに、私……雪二さんに捨てられたくないんです」

 泣き腫らした目で、花さんは謝罪を口にする。だけど、俺にかけた呪いを解いてはくれなかった。


「ああ……嫌だ。離れたくないよ。独りにしないで」


(違う。誤解だ。役立たずだなんて、そんな事思ってない。そんなつもりで、そう言った訳じゃないんだよ)

 口に出そうとした言葉は、血染めの花弁に変わってしまって、届かなかった。


「花は役立たずじゃないです! だから、どうか、あなたの魂を私にください。大切にします。大事にします。幸せにします。花はちゃんと、あなたのお役に立てますから! ちゃんと、証明できますから! だからどうか、私から逃げないで……」


 俺は君が好きだから、君の願いはできるだけ叶えてあげたい。でも、それは駄目だ。だって、ここで俺が死んだら、君にプロポーズできないじゃないか。花さんが式神に殺されて消える未来なんて、俺は絶対認めない。


 両腕、両足に力を込めて、もう一度立ち上がる。


「げほっ……うぐっ……は、花さ……」


 口を開けば零れだす花びら。その度に体中に激痛が走るせいで、言葉が詰まってしまう。まるで内臓が崩れ、口から吐き出されているように痛い。

 でも、これだけは伝えないと。俺の溢れる様な思いを、君に伝えないと。


「きみが……す——」

 一際大きな痛みが、俺の視界を赤く染めた。大量の花びらが口から溢れたと感じたのを最後に、意識は赤い海に沈んでいってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る