桜の下で春を待つ君⑤

 夢の中で、誰かの悲鳴を聞いたような気がした。


「花さん?」


 目を開けると、朝日に照らされた部屋の景色は一変していた。

 壁という壁に、刃物で切りつけたような傷ができていて、驚いて飛び起きると、異変は壁の傷だけではない事に気付いた。掛け布団が真っ赤な液体でぐっしょり濡れていた。少し鉄臭いそれが、血溜まりだと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。ベッドの上から何かを引きずったような血の跡は、廊下の方へと続いている。俺は傍にあったパーカーを羽織って、その血の跡を追っていった。なんとなく、嫌な予感がしたからだ。


 廊下に出ると、昨日あれだけ貼られていた札が、ただの紙屑となって廊下を散らかしているのを見た。血の跡は、紙屑を押し退けるように続いてる。その跡を追って奥へ進み、屋敷の裏口を抜けた。裏庭の芝の上にもそれは続いていて、追っていくと、俺はようやく血溜まりの正体に行き着いた。


「……花さん?」


 桜の木の下で、彼女は血を流して倒れていた。無数の刺し傷から流れる血で、服は真っ赤に染まっていた。青白い頬を伝う涙には血が混ざって、その綺麗な顔を汚している。昨日の夜、隣で映画を観ていた彼女の、あの楽しげな表情は苦痛と恐怖に塗りつぶされてしまっていた。


 花さんは幽霊だ。でも、この時は彼女が幽霊だという事を忘れていた。気が付けば、俺は花さんを抱きかかえて泣き叫んでいた。たぶん、彼女の為に必死で助けを呼んでいたんだと思う。

 それがどのくらいの時間だったのか。既に冷たくなった彼女に何をしてやればいいのかわからず、ただ彼女をこのまま失いたくない一心で、嗚咽しながら彼女を抱きしめていた。近づいて来る足音に気付いても、俺はそのまま動けずにいた。


「悪霊相手に同情か?」


 しゃがれた老人の声が聞こえて、俺はゆっくりと後ろを向いた。杖をついた和装の老人が、俺をじっと見ていた。その眼はなんだか、俺の事を品定めしているように見えた。


「今君が見ているのは、六十年前に起きた事件の再現だ。本来ならば二度目の死を迎えた霊は、跡形も無く消え去るが、桜花それは、まだ悪霊としてここに存在している」


 老人の後ろから、楓さんが現れた。不服そうな顔をして、そっぽを向いていた彼女は、ようやく視線を俺の方へ向けた。


「花ちゃんは、じきに目を覚ますよ。だから、その前に全部話させて」


「桜花に聞かれるのは、些かマズイ話だ」


 二人はそれだけ言うと、屋内へと歩き出した。すぐ後を追おうとしたけど、花さんをこのままにしておくことは、なんだか気が引けた。

「せめてこれくらいは」という気持ちで、咄嗟に着ていたパーカーを彼女にかけてやり、後を追った。

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