桜の下で春を待つ君④

 楓さんは他の二人を連れ、玄関を閉めるとその前で呪文を唱え始めた。ドア越しに様子を伺っていたけど、しばらくすると三人の足音が遠ざかって行くのが聞こえた。


「……え? マジで? 本当にみんな出てったのか?」


 俺は一人家に残され、しばらくの間茫然としていた。少ししたら、ドッキリ大成功なんて看板を持った楓さんが帰って来るんじゃないかと思ったけど、そんな事はなかった。


 仕方なく、部屋に戻ることにした。途中、廊下に大量の札が貼られているのを見かけ、楓さんたちの仕業なんだろうとぼんやり考えた。でも、こういうのを見ると、幽霊を気にしないというのが無理になってくる。

 凄く気味が悪くなって、台所に寄って粗塩を小皿に盛り付け、それを部屋の前に置いた。こうすると、魔除けになるってどこかで聞いたような気がしたからだ。


 一人で部屋の中にいると、不安は更に強くなっていった。初恋の女性が幽霊、しかも人を殺す悪霊だったってだけでもショックなのに、そのうえ、その彼女に殺される可能性もあるらしい。


(どうしてこんなことに?)

 

 恐怖、後悔、混乱、そのどれとも違うような感情が脳を支配しようとグルグル回る。こういう追い詰められた状況に置かれているのに、脳は俺自身を安心させようと、いつも通りの日常と変わらない行動をとるように命令してきた。きっと、不安に押しつぶされないよう、俺に備わった防衛本能がそうさせるのかもしれない。


 テレビを付け、適当な映画を選んで、プレイヤーにセットするとソファーに腰かけた。このソファーは、元の部屋から持ってきた二人掛けの広いやつだ。忙しくて最近は荷物を置く以外に使う事が無かったけど、これに寝そべりながら映画を観るのは中々快適だ。


 クッションを抱きながら、お気に入りの映画を再生する。

 異なる組織に属する男女のスパイが手を組んで活躍するアクション映画だ。これには、随分楽しませてもらった。


 それから、しばらく映画に見入っていた。映画の中盤、ここからが面白いというとき、廊下の方から足音が聞こえてきた。


(誰か戻って来た?)


 でも、そんなはずはない。皆朝まで戻らないとか言っていたし。今更ドッキリは考えられない。


(じゃあ、誰だ?)


 まるで心臓を鷲掴みにされたように、全身に酷い寒気が走った。足音は、確実にこちらへ近づいて来ている。


(鈴木君を襲った悪霊が、ここに来る)


 ドアノブが周り、僅かに軋む音をさせながら、ドアが開けられた。そこに立っていたのは——信じたくなかったけど、あの日桜の下で見た女性だった。


 濡羽色の長い髪には、桃色の花飾り。仄かに赤い目はキラキラと輝いている。最初に見かけたときは、随分と沈んだ様子だったのに、今日は随分と嬉しそうだ。


 外に逃げる事も出来ない俺にできるのは、ただ体を小さく丸めて、息を殺して待つことだけだった。部屋の中を見回した彼女が、ソファーの上で震える俺を見つけるのを……。


「ああ、いた! 雪二さん!」


 入り口に置かれた粗塩は、彼女が部屋の中に足を踏み入れるのと同時に黒く変色して、水が蒸発するように消えてしまった。そんなこと、ありえるはずがないのに。でも、頭の片隅で、清めの力が彼女の力に押し負けてしまったからだと考え、勝手に腑に落ちていた。


「最初にお会いしたあの日から、雪二さんがここに来てくれるのをずっと待っていました。楓さんったら、酷いんですよ! あの日、雪二さんに憑いて行きたかったのに、玄関の前で引きはがすなんて……。そのせいで、今日まで身の回りのお世話をして差し上げられなかったんですもの……」


「でも、これからは一緒です。雪二さんを傷つける人は、みんな私が排除してあげます。昼間の人達や、さっきの男は、楓さんに邪魔されちゃったけど……。でも、雪二さんがお望みなら、すぐにでも殺ります」


「そうだ! お引越しのお荷物も、お片付けしてみたんですよ。いかがですか? ご希望通りにしてみたんですが、お気に召しましたか?」


 彼女はそう一方的に俺に語りかけながら、一歩一歩、ゆっくりと近づいてきた。恐怖で意識を飛ばせないことが、これほどまで苦痛とは知らなかった。


「ようやく二人きりですね。……あら、映画ですか?」


 遂に彼女は目の前に来た。

 彼女の恐ろしいくらい整った顔が、俺の顔を覗き込んできた。


「ご一緒してもいいですか?」

 そう言って、彼女が微笑んだ瞬間だった。体中に電流が走るような衝撃を感じた。


 そうだった……どうして忘れていたんだろう。彼女の笑顔は柔らかくて、暖かくて、そして、滅茶苦茶可愛いんだって事を。


「どうぞこちらへ」


 ほんのついさっきまで、奥歯を鳴らしながら震えていたのが嘘のように、俺の体はすんなりと動き立ち上がると、彼女の為の席を作っていた。しかも、片手でソファーを指し示し、好青年ぶったスマイルを浮かべている。

 しかも恐ろしい事に、ここまでが全て無意識に行われていた。きっと今まで見ていた映画のせいだ。主人公のスパイが女好きのプレイボーイだったから、それに影響された俺の言動がおかしくなっている。


(俺の馬鹿! 近くに座らせてどうすんだ! こんなに距離詰めたら本当にもう逃げられないだろ!)


 でもこうなったら、覚悟を決めてやり過ごすしかない。


「お邪魔します」


 彼女はそう言って優雅にソファーに腰かけた。ふわりといい香りがして、ソファーが揺れる。それから、俺の方を見上げ不思議そうな顔をした。まるで、どうして隣に座らないんだろう、とでもいいたげな顔だ。


「お、お邪魔します」


 仕方なく俺も腰を下ろすとソファーが大きく揺れ、バランスを崩した彼女が俺の方に倒れ込んできた。そうか、これ二人で座ると、その分布が引っ張られて揺れちゃうのか……新しい発見だ。でもそのせいで、バランスを崩した彼女を咄嗟に受け止めてしまったじゃないか。


「あ……」


 彼女が顔を真っ赤にして、さっと逃げるように俺から離れた。まさか、照れているのか? さっき、取り憑つこうとした的な事言ってた気がするけど、これは駄目なのか? 

 今一彼女の言動が良くわからない。でも今のはちょっと可愛くて、そのせいで、大分ときめいてしまったじゃないか!


「えっと、桜花さん、でいいんですよね?」


「はい。その……もしよろしければ、花とお呼びください」


「花さん?」


「はい。なんでしょう、雪二さん」


「俺、自己紹介しましたっけ?」


「敬語なんてお辞めください。それに、自己紹介だなんてとんでもない。雪二さんのお手を煩わせるまでもなく、私、雪二さんの事はこの家にいる誰よりも知っているつもりです。ここに来られた時からずっと、あなただけを見ていましたから。それに、この家の中で起きた事は、手に取るように分かってしまうんです」


 花さんは、いたずらっ子みたいに笑っている。


(……なるほど。隠し事はできないのか)


 火野さんが口を押えてきた理由はこれか。やっぱり、火野さんたちは彼女に気を使って生活していたのかな。初日から、大変な事になってしまった。


 とはいえ、今俺にできる事は、隣にいる彼女に殺されないよう、怒らせない様にする事だけだ。きっと、それが生死の分かれ目だ。唇をギュッと結び、気を引き締める。


「アクション映画好き? これさ、俺のお勧めなんだけど」


「あ、えっと、その……映画を観る機会はあまりなかったもので……。でも、是非ご一緒させてください」


「そっか。じゃあ、折角だから初めから観ようよ」


「でも……」


「その方が絶対楽しめるよ。この映画、話は難しいけど、全体を通してアクションが派手で見応えあるからさ」


 しばらく、二人そろって映画を見ていた。だけど、見せ場の一つである敵幹部との戦闘が始まっても、俺は全然集中できないでいた。


(……映画がつまらなかったら、俺殺されるのかな……)


 彼女、映画はよくわからないって言っていたし、解説した方がいいんだろうか。場面は、ちょうどスパイ達が手を組んで、敵を欺くかっこいい場面だ。


(……よし、さりげなく話しかけよう)


 でも、そう思って顔を向けたところで、俺は口を開くのをやめてしまった。

 彼女が、あまりにも楽しそうに目を輝かせていたから、今話しかけるなんて無粋だと思ったからだ。

 

 だから、俺は静かにしている事にした。俺が既に知っている展開も、彼女にとっては初めてだ。さっきまでの展開が好きなら、きっとこの先も気に入ってくれるに違いない。

 

 そこからはずっと、横目で映画を追いながら、彼女の反応を眺めていた。壮絶な騙し合いと銃撃戦の末、スパイ達が無事に目的を達成すると、彼女はまるで子供のように両手で小さくガッツポーズをしていた。

 

(……誰かと観る映画が、こんなに面白いなんて)

 

 そう一人感慨に浸っていると、突然ソファーが大きく跳ねた。


「あ……」

 

 映画の音に紛れた小さな声。何事かと思えば、彼女は真っ赤な顔をして両手で口元辺りを覆っていた。不思議に思って画面を見れば、ちょうど主人公とヒロインのセクシーなシーンが流れていた。

 

「あ、ごめん。こういうのは駄目だった?」

 

 彼女はハッとして我に返ると、恥ずかしそうに顔全体を覆い、そのままパタパタと足音を立てながら部屋を出て行ってしまった。

 

「は、花さーん!?」

 

 呼んでも返事はない。思わず、忌々しい顔で画面を見てしまった。

 

「いつまでスケベやってんだよ……」 

 テレビを消して、ベッドに潜り込む。


「……あれは怒らせたうちに入るのかな」

 

 真っ赤な顔をしている彼女の事を思い出すと、なんだか体が火照るように熱くなった。我ながら最低だと思う。でも、だってしょうがないじゃないか。あんなにかわいい子と映画を観たのは初めてだったんだから。


 それに、あの子の言葉を信じるなら、全部俺の為を思ってやってくれたようだし(人を襲うとかは絶対やっちゃいけないけど)。案外、話が分かるいい子だったりするのかも?


(……次は、さっきのラストシーンみたいな過激な表現が無い映画にしよう。それから、時間もずっと長いやつ)


 自然と次があると思っている自分に、思わず笑ってしまった。ついさっきまで、殺されるかもしれないなんて怯えていたくせに。


 なんだか、今日は久しぶりにぐっすり眠れそうだ。


 落ち着いたら、今までの心労や、引っ越しの疲れがドッと出て、深い、深い眠りに落ちていった。

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