桜の下で春を待つ君①
「評判より面白い映画だったな」
画面の中の英雄は、闇の王を倒し、六年という長い旅に終止符を打った。自分の故郷に舞い戻ると、町中の人達が彼を出迎え歓声を上げる。その人混みの中、英雄は一人の女性を見つけた。彼女こそが、英雄の帰還を信じて待ち続けたヒロインだ。そして、愛し合う二人は熱い口付けをかわし、映画は幸せの中で幕を閉じた……。
「このヒロインさあ、健気すぎない? 英雄が帰って来たのは六年後だよ。故郷まで帰る時間も含めて、プラス数か月はかかったはずなのに、ずっと待ってたの? はぁ……いいなぁ……俺もこんな彼女が欲しい! 俺だけを見つめてくれる恋人って憧れるよな~!」
エンディングクレジットを早送りして、Cパートが無い事に少しだけ落胆した。テレビを消し、何気なく携帯を手に取ると、時刻は既に夜の十二時を回っていた。
「……もうこんな時間か」
途端に目を逸らしたい現実が押し寄せてきた。
俺、
朝から晩まで、仕事、仕事、仕事、仕事。眠ることを忘れ、悲鳴を上げた胃腸が白旗を振る事にも慣れてしまった。数週間ぶりに勝ち取った休日ですら、昼間は寝て過ごし、夜に映画を観て終わってしまう生活が続いている。
何もかもがもう限界で、ゴミ溜めのような部屋で一人腐っていた。でも、そんな俺の元に、この日天啓が降りたのだ。
「そうだ、退職しよう」
思い立ってからの行動は早かった。元々、嫌味な上司から『代わりはいる』などと評価されていた身だ。医師の診断書を添えて、半ば叩きつける勢いで辞表を提出した俺は、逃げるように会社を後にした。……と、言いたいところだが、すぐに辞められないのが社会人の辛いところだ。特に、物凄く非常識で性格の悪い上司や同僚が職場にいる場合は……。
「大学も出てないような馬鹿を拾ってやったのに、その恩を忘れやがって」
辞表を出してから半年程度、上司にはネチネチと嫌味を言われた。同僚には冷ややかな目で見られ、雑業を押し付けられる始末。でもこんな劣悪環境でも強く生きられるよう、俺の代わりに入った新人には、できる限り優しく丁寧に仕事を教え込んだつもりだ。そしてようやく、やっとの思いでやることをやり終えて、ようやく地獄の底から這いだした。
最終日、覚束ない足取りで会社を出ると、背後の生き地獄に向かって一言、
「最後くらい、有給消化させてくれよ……」
中指を突き立て、吐き捨ててやった。
とはいえ、これでようやく自由の身になれた。今まで昼夜問わず働き続けていた分、しばらくゆっくりと体を休めたいところだ。まずは、気になっていた映画の山に手を付けようか。それとも、どこか知らない所へ長期旅行してみようか。色々頭を巡らせたけれど……。
「よし、手始めに朝までぐっすり寝よう」
久しぶりにわが家へ帰る。ドアノブを回すと、生臭い匂いが室内から流れ出した。六畳間いっぱいに溜め込んだゴミ袋、それをかき分けてベッドを発掘した。寝られるということに安心して倒れ込めば、もう動くことはできなかった。
(スーツ脱ぐのも面倒だ。もうこのままでいいか)
体の力を抜いて、睡魔に身を任せる事にした。……そうしたのだが……。
「ね、眠れない……」
不眠不休で戦ってきた体だが、この半年は特に酷かった。そのせいで、無意識に体が睡魔に応戦してしまう。ベッドの上でゴロゴロしていると、ようやく地獄から抜け出せたというのに、考えたくもない嫌な事が頭の中を駆け巡り始めた。
(本当に辞めてよかったのか? 碌に蓄えがある訳でもない。今は老後にも金がかかるというし、働けるうちに金は稼ぎたい)
(でも、働き過ぎて死んだら元も子もないし、金は死んだら使えないだろ)
(だけど、このままここで腐っていても、金はいずれ底を付くし)
自分自身が考えている事なのに、ため息が出た。
(だったら、できるだけ節約して新しい仕事を探すよ。とりあえず、ここより安い所に引っ越すか)
思考が回るばかりで眠れないので、雑念を振り払うように、睡魔が来るまで掃除などしてみる。明日は、ちょうど燃えるゴミの日だ。無造作に捨てられていたゴミを袋に放り込み、洗濯されていない服もソファーからどかしてみる。
(そういえば、このソファーは就職してすぐに買ったんだっけ。いつか、恋人が家に来た時、一緒に映画とか観たくて)
その頃の事を思い出して、恥ずかしさで自分を殴りたくなった。
「恋なんていう甘酸っぱいものには、まるで縁がなかった癖に」
結局、碌に眠れないまま夜が明けた。
ゴミを出してから適当に朝食をとり、スマホを弄りながら街が動き出すのを待った。スマホで見つけた物件について問い合わせしてみると、そこはもう空きがない事を伝えられた。でも、他の物件の資料を今日の昼過ぎにでも見せてくれるらしい。
————
「条件に沿う物件だけど、この辺りかな~」
フランクな口調で話す不動産屋のおじさんは、難しい顔をしながら資料を引っ張り出した。やっぱり、安いところを探すなら、風呂・トイレ別とかは贅沢に分類されてしまうんだろうか。それに、せっかく探してもらったけど、どの物件もパッとしない。
(……やっぱり、条件を変えてもう一回探してもらおうかな……。でも、無茶をいって探してもらったのに、なんか申し訳ないような気もする。どうしよう)
資料をペラペラとめくっていた時、書類に貼られた一枚の写真が目に飛び込んできた。それは、満開の桜が写った古い洋館の画だった。あまりにも素敵な風景だったので、まじまじと魅入ってしまった。
随分と古い写真のようで、端の方が茶色くなっている。それなのに、桜の色だけが鮮やかで美しく、なんだか奇妙に感じた。そして何より、その桜の木の下に、何か人影のようなものが写っているような……。
「桜邸が気になる?」
おじさんがそう声をかけてきたので、
「あ、はい」
まだ間取りも見てないのに、咄嗟にそう答えてしまった。
「白鳥さん、彼女いる?」
「え? いませんけど……」
咄嗟に答えてしまったけど、急に変なことを聞く人だ。
おじさんの口元が少し弧を描いたように見えて、首を傾げた。
「いやいや、別に変な意味じゃないんだよ。ここの大家さん、若くて美人で独り身だから」
「あ、はい」
「しかも、ここはシェアハウスで、その大家さん、この洋館の二階に住んでるんだよ」
「あ、そうなんですね」
「そのうえもし彼女までいたなら、色々難しい事になるんじゃないかと、余計な事心配しちゃったね」
(彼女がいたら何か問題があるのか?)
「でも、彼女いないなら問題ないね。うん、別に問題ないね」
おじさんは「あはは」と笑っているけれど、俺は内心青筋を立てていた。
(余計なお世話だ! 好きで彼女いない訳じゃないんだぞ!)
「じゃあ、内見させてもらえるか確認するから、ちょっと待ってて」
おじさんが店の奥に消えたのを確認して、俺は大きなため息をついた。
(二階に住んでいる、若くて美人の大家さんか)
頭の中に、大家さんの人物像がみるみる構築されていく。
写真で見る限り、結構古い洋館だ。それを女手一人で管理するなんて、きっと何か深い訳があるに違いない。とても健気で、護ってあげたくなるような、少し陰のある美人だったりして。
(彼女なんて、いなくても全く問題ないけど、美人と同じ屋根の下で暮らすとなると、なんか、ちょっと……)
「意識しちゃうな」
「何かあった?」
いつの間にか戻って来たおじさんが、怪訝な顔で俺を見ていた。咄嗟に緩み切った顔を整え、対人用の凛々しい顔を作り直す。
「いえ、なんでもないです。それより、内見の方はいつ頃できそうでしょうか?」
「あ、うん。これからいいって」
おじさんは苦笑いしていた。
————
その洋館は、桜邸と呼ばれているらしい。
随分と街外れにあるようで、桜邸の周りは放置されて高い背の雑草がひしめき合っている田畑や、崩れかけたような空き家ばかり。なんだか、寂しい場所だと思ってしまった。
こんな場所にあるなんて、一体どんな物件が来るのか身構えてしまったけど、それは杞憂だったとすぐに知る事になる。
「ほら、あれだよ」
赤い瓦屋根、壁は白いタイルが貼られ、各階にある大きなアーチ窓が印象的だ。昭和初期に建てられたと聞いていたけど、想像よりずっと綺麗な洋館が出てきたので内心驚いていた。話を聞けば、去年改修工事が施されたらしい。
外から様子を見ていると、後ろから声がかけられた。
「桜邸にようこそ」
振り返ると、赤い長髪の女性が立っていた。ダボダボのリラックスウェアにサンダルという、まるで休日の朝ゴミ出しに行くような恰好をしていた。髪はボサボサで、まるでついさっき電話で起こされたから、仕方なく起きたという感じだ。しかも風に乗って、仄かに煙草とお酒の香りがする。
まさかと思って、おじさんの顔を見ると小声で、「大家さん」と教えてくれた。
改めて、視線を彼女に向ける。
(イメージとは、大分違うけど)
俺の視線は、自然と胸部にある大きな二つの丘に向けられていた。
(最高じゃないか!)
「突然すみません。今日はよろしくお願いします!」
キリッとした顔でそう言うと、大家さんは手をヒラヒラさせて笑った。
「いーよ、いーよ、そういう堅苦しいのは。で、中も見るんだっけ?」
「お願いします」
「じゃあ、楓さん、僕はここで待っているから、白鳥さんをお願いします」
おじさんはそう言って車の中に戻ってしまった。こういうとき、一緒に来たりしないんだっけ?
「じゃ、白鳥君だっけ? 早速案内するね。……っと、自己紹介、自己紹介。さっき紹介があったかもだけど、あたしが大家の
何が厄介なのかは分からないけど、そう言われたので、楓さんと呼ぶ事にした。
第一印象はかなりズボラというイメージだったけど、その評価を覆すくらい、内観の説明は分かり易く、丁寧かつ詳細に教えてくれた。さすが、一人で管理しているだけあって、こういうところはしっかりしている。それも自信たっぷりに設備の説明をしてくれるので、とても安心感があった。
そんな楓さんが大家だというのは最高だとして、もしここに住むとなると、少し気になることがある。俺の他に、既に他二人の入居者がいるという事だ。二階は大家さん専用なので、二人の入居者は一階に住んでいるという事になる。三人で風呂とトイレを共有するのは、ちょっと不便な面もあるかもしれないけど、まあまあ許容できる範囲だ。
「それで、どう? 気に入った?」
案内してもらって、ここに住む想像もしてみた。中は思ったよりも綺麗で住みやすそうだ。だけど、ここを気に入ったかと言われると、正直どうだろうとも思う。近くにバスや電車が通っていないのは致命的だ。楓さん達は車で移動しているそうだけど、俺はそもそも免許すら取っていない。それに情けない話、美人の大家さんに釣られてしまったけど、まだ他の入居者がどんな人かわからないし、シェアハウスは初めてなので不安しかないというのが本音だ。
「実は、あともう一か所案内する場所があるんだ。桜邸を象徴する場所だよ」
楓さんはそう言って、裏口を開けた。
広々とした庭の中央に、一本の大きな桜の木が植えられていた。ちょうど見頃を迎えていて、春霞した穏やかな青い空に、桃色の花弁がよく映えている。
「ここ、あの写真の……」
写真でも綺麗だと思ったけど、実際に見ると更に美しい。ヒラヒラと舞う桜の花弁に誘われ、気が付くと俺はふらふらと木に近づいていた。
「すごいなぁ……」
そのとき一陣の風が吹いて、俺は驚いて目を閉じた。
再び目を開けたとき、その目に映る景色に思わず息を呑んだ。
桜の雨の中、俺はその人を見つけた。
あいにく、恋などという甘酸っぱいものには、まるで縁のない人生だった。綺麗な女性が彼女だったらとか、そんな下賤な妄想をすることはあったけど、それは恋とは程遠い感情だったと今知った。人は恋をすると、胸が裂けるほどの衝撃を感じるんだ。それが、初恋なら尚更だと、俺はあの子に思い知らされた。
満開の桜の下、まるで物思いにふけるような、儚げな顔で佇む君。春風に濡羽色の長い髪を揺らし、桜を見上げるその横顔は、まるで咲き方を忘れた蕾のように沈んでいた。
俺の不躾な視線に気が付いて、こちらを伺うように向けられた澄んだ瞳は少し赤みを帯びた不思議な色をしていた。
「あ……こんにちは」
こんな時、気の利いた言葉をかけられない自分が心底嫌になった。
それなのに彼女は、こんなつまらない男の為に、まるで桜の開花を思われるような笑みをくれたのだ。その笑顔があまりにも眩しくて、とても……とても、暖かくて、春の仄かな日の光など、比べ物にならないくらい鮮烈で。俺の心の中に溜まっていた嫌なものは全部、君に焼き尽くされてしまったように感じた。だから、俺の胸の中に、今まで感じた事の無い、例えようがない程熱い熱が生まれたんだ。
(ああ……そうか、これが——恋っていう奴なんだ)
「あれ? おーい。どうした?」
随分遠くから聞こえてくる楓さんの声に現実へと引き戻されると、俺は一言、
「ここに住ませてください」
そう力強く答えていた。
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