桜邸は化物屋敷

木の傘

桜の下で春を待つ君

序章

 惨劇があった。そして、彼女は悪霊になった。

 もう六十年も昔の話である。

 ただ一つの願いを叶える為、この世に留まり続ける彼女は、いつの頃か自身が呪いを振りまき、人を死に至らしめる悪霊と成り果てた事に気が付いた。それでも、彼女は自らの願いを諦めきれず、どんなに醜く凶悪な姿になろうと、この世に縋り続けていた。


 あらゆる霊媒師が彼女に挑み、その度敗北を喫してきた。そのため、この六十年、霊媒師達は彼女が潜む洋館を人界から隔離し、霊障の被害を最小限に減らすことしかできなかった。


 しかしこの夜、その悪霊の命運は、今まさに尽きようとしていた。


 悪霊は痛む体を支え、月光が射し込む廊下を必死に逃げていた。迫る追手は煙と火を操る怪異と、それを使役する霊媒師。飛んでくる火の玉から逃れようと、咄嗟に手を掛けていたドアノブを回し部屋の中に転がり込んだ。できるだけ静かにドアを閉め、部屋の奥へと身を隠す。ドアの向こうには、もう追手の気配が目と鼻の先にまで迫っていた。


「いい加減もう終わりにしようや。体が無くても痛むだろ?」


 咥え煙草のガラの悪い男が、応接室のドアを粗くノックした。


「あと3つ数える内に投降しろ。そうすりゃが、楽にお前を終わらせる。だが、もし出て来ねぇってんなら、俺がてめえを焼き尽くしちまうぞ。……楽な死に方じゃないからな。言っておくが、俺は容赦しねぇからな! 絶っ対降参した方がいいからな!? いくぞ、……3…………2………………い~~~~~ち……」


 反応は無かった。


 男は、渋々煙草の煙を一際深く吸い込んだ。体を人に真似てはいるものの、この怪異の正体は煙とそれを生む炎そのものである。部屋一つどころか、館を火の海に包むことなど造作もない。


「馬鹿野郎が」


 怪異の放った火は、ドアを焼き払い、周囲の壁をも巻き込んで燃え広がる。悪霊が逃げ込んだ部屋の中は一瞬で火の海と化した。

 怪異は火を物ともせず部屋の中に足を踏み入れ、焼け焦げたはずの標的を探した。例え体の無い幽霊が相手であろうと、式神や霊媒師の術は容赦なく魂に傷を付けるのだ。


 本来、幽霊が存在する理由は生前叶わなかった願いが、未練として残っているからである。幽霊は自身の抱えている未練を原動力に動いているため、未練が果たされれば自然と成仏するのだが、除霊とは、その未練が晴れる、晴れないにかかわらず、この世から幽霊の存在を抹消してあの世に送り返す事を指す。言い換えれば、幽霊の殺害である。除霊されれば、幽霊となった者は二度目の死を味わう事になるのだ。


「ったく、寝覚めが悪い仕事だぜ。俺は人間贔屓なんだぜ? それなのに除霊、ましてや女、子供の除霊なんてよぉ……」


 式神は火事の煙を取り込みつつ、標的の亡骸を探していたが、ふと目を向けた部屋の隅に、奇妙なものを見つけた。大きな丸いボールのようだが、表面が歪でデコボコとしているそれは、よく見れば無数の木の葉が集まり、球体になったものだった。火に包まれ、崩れ落ちた壁の隙間から、恨めしそうな女の赤い目が怪異を捉えた。


「うっわ、マジかよ!」


 怪異が実体から煙への形態変化による防御を取るより早く、球体から伸びた槍の様な枝の群れが怪異に襲い掛かった。怪異は相打ち覚悟で火球を練るが、それが放たれる前に決着は着いた。

 

 怪異を刺し貫こうとした枝が、一つ残らず空中で切断され消滅したのだ。


「おう、傷の具合は?」


 怪異が視線を向けた先には、赤い長髪を後ろで一括りにした女がいた。手には鋏が握られており、霊媒師である彼女が自分の式神を護るため、その鋏で攻撃を防ぎ切ったのは明白だった。強い祈りが込められたその鋏は、例え幾里も離れた場所からでも、彼女が標的を捉え念じれば、切断されたという結果をもたらす。


「って、熱っ! 熱っいんだけど! 火事になっちゃてるじゃん!」


 怪異はすぐさま空中に掌を翳し、指揮者が合唱を止めるときの様に軽く握った。その途端、部屋を覆っていた火は瞬く間に消えて行き、後には焼け焦げた床や壁、黒焦げになった調度品のみが残った。


「あー痛っい。さっきのあれのせいで、肋二、三本折れたっぽいんだけど。っていうか、桜邸の悪霊がこんなに好戦的なんて、全っ然、聞いてないんだけど!?」


「おうおう、そんだけ騒げりゃ大丈夫だな。ったく、あのジジイまた適当放きやがって」

 怪異は新しい煙草に火を付け、いままで吸っていた方の煙草は飲み込んだ


「まあ、師匠への愚痴はこの辺にして……そろそろ終わりにしようか」


 一人と一体が視線を向けた先には、火傷を負い、目には涙の膜が張った女の悪霊だった。


「嫌だ……来ないで……」


 肉体を失った元人間であろうと、二度目の死は訪れる。彼女は、今再び迫る死に恐怖していた。


「ごめんね。可哀そうだけど、人を殺しちゃう幽霊は放っておけないんだ。せめて、これ以上痛い思いはさせないようにするから、観念して」


 霊媒師が鋏を向けると、彼女は遂に大粒の涙を零した。


「やめて……やめてください……殺さないで。だって、だって私——」


 悲痛な表情で吐き出されたその言葉に、霊媒師は思わず手を止めた。しかし、鋏は向けたまま、暫くの間幽霊の命乞いに耳を傾けていた。隣で煙草を燻らせる式神は、相棒の些細な心境の変化に感付き、悪霊の反撃に備え迎撃の体勢を整える。


 やがて、嗚咽する悪霊を静かに観察していた霊媒師は、

「やめた」

 一言そういって、鋏を下ろした。


 構えを解いた相棒に、怪異は怪訝な目を向けた。しかし、当の霊媒師はどこ吹く風である。さっきまで殺し合っていたのが嘘のように、まるで旧知の友に話しかけるときの様な声色で悪霊に話しかけた。


「桜邸の悪霊……じゃなくて、さくらはなさん。ん~なんか、今一固いな。花ちゃんって呼んでいい?」


 そう声をかけてきた霊媒師に、女の悪霊、桜花は驚きの表情を浮かべた。命乞いはしたものの、何が起こったのかまるで理解が追いつかないという顔である。


「花ちゃんさ、あたしに除霊されるんじゃなくて、その未練を晴らして成仏しちゃいなよ」


「え……?」


 その提案に、桜花のみならず霊媒師の相棒は自分の耳を疑った。


「本気かお前?」


「大丈夫、だいじょーぶ! 縁結びのまじないは、あたしの十八番なんだから。まあ、時が来るまでは監視しなきゃだけどさ」


「マジかよ!? いくらお前でもそりゃ無理だろ! あの悪霊がやった事何だと思って——っと」


 自分目掛けて飛んで来た攻撃を弾き飛ばし、煙草を咥えた怪異は幽霊を睨んだ。幽霊もまた、ムッとした顔で怪異を睨んでいた。


「あーあ、傷心中の女の子にそんな事言うなんてデリカシー無いよ。じゃ、またね~花ちゃん」


「クソッ! 次、妙な真似しやがったら灰にしてやる!」


 霊媒師はヒラヒラと手を振って、怪異は悪態を吐いて部屋を出て行った。


「つーか、ジジイには何て報告すんだよ」


「あー、師匠? まあ、適当に負けたとか言っとけばいいんじゃない。火事になるほど攻撃したけど勝てませんでした、とか。適当に誤魔化しといてよ」


「あ゛? 俺が!?」


「ほらほら、敬語、敬語~、営業スマイル、営業スマーイル。あき君そういうの得意じゃん? ささ、どうぞ煙に巻いちゃって~」


「はー……腑に落ちねー」


 霊媒師の気配が徐々に遠ざかり、やがて完全に洋館から消えた。

 部屋に残された彼女はよろけながら立ち上がると、掃き出し窓を開けて庭へ降りた。一歩、また一歩と進む度、彼女の傷は塞がっていき、やがて火傷の跡は嘘のように消えた。


 悪霊と呼ばれる彼女が死後に知った事、それは死が生の延長線上にあるという事だった。肉体を失おうと、自分自身が自らの死を認めなければこの世で生きられる。彼女をこの世に引き留めるのはただ一つの願い、それに強く執着する程、彼女は恐ろしい怪異へと変貌していった。心が醜く歪みきった事は、とっくの昔に気付いていた。そして、その未練が晴れるまで、この世に縛り付けられる事も。だが、願いを叶える為、彼女はそれを良しとした。


 しかし困ったことに、幽霊になってからも、痛みからは逃れられなかった。誰かに見つけて欲しいのに、彼女を見つけるのは決まって、彼女を傷付ける者だけだった。そのため、彼女は霊媒師を酷く嫌悪していた。


 屋敷の裏庭を歩く彼女はやがて足を止め、聳え立つ桜の巨木を見上げた。満開の桜が花びらを散らし、満月を背に夜空を彩るも、彼女の目にそれは映らない。彼女の目に映るのは、雪を被った桜の枯れ木だけだった。


 木の根元を見れば、血を流し倒れる女が一人。


 それは、あの雪の日に死んだ自分自身のあるべき姿だった。


 冷たい雪の花が、女の上に降り積もる。生気を失った虚ろな目は、自分の血で赤く染まる雪さえ、もう映してはいなかった。

 道具のように扱われ、尽くし続ける人生だった。そして、彼女の命を奪ったのは見知らぬ男の凶刃だった。楽しみの一つも持てない人生だった。

 彼女が涙を流すのは、無論、未練があったから。しかしそれは、犯人への復讐でも、自分を選ばなかった許嫁への復讐でもなく……。


「恋とは、どんなものかしら」


「私の運命の人。まだ会えない愛しい人。私は、あなたの役に立ちます。あなたの言いつけを守ります。あなたが望むなら、私は何だってします」


「だからどうか、あなたの愛を私に下さい」


 彼女の願いは、彼女を歪め、作り替えた。

 体を失い、何十年という月日が流れようと、

【愛が欲しい】

 その思いだけが、今も彼女を縛り続けている。


「愛しいあなた、どうか私を見つけてください。桜の下、今もあの冬に取り残された私を」

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