Minoris utopia = やさしい世界;

 優しさとは何だろう。

 僕らは考える葦であり、思考こそが人間として生きる上で最も重要なものだと感じている。そんな僕は、この家で過ごすようになってからずっと「優しさ」について考えている。もちろん、辞書的な意味を述べるだけなら簡単だし、上品で美しいこと、思いやりがあること、謙虚であること、殊勝であること等々、様々な優しさを定義することができる。

 ある日セレマは言った、「人に優しくすることは簡単よ、その人にとって都合のよいことをしてあげればいいんだから」と。僕にはそれが簡単に思えないけれど、それは置いておくとして、では、優しい人間とは自分にとって都合のよい相手ということなのか、僕にとってセレマや父さん、母さんが優しいと感じるのは僕にとって都合が好いからなのか? ……確かにそうかもしれないが、何か違和感がある。

 だって、僕の家族はいつだって僕にとって聞こえの良い言葉だけを掛けるわけではないのだ。僕が何か間違いを犯した時、母さんは怒り父さんは慰めてくれるけれど、僕は父さんだけが優しいと感じるわけではなく、母さんもまた優しいが故に僕を怒っているように感じるのだ。これは総合的に僕にとって都合の好い部分が多いから優しい人間だと判断しているのか、或いは、一見耳障りな言葉でさえも本当は僕にとって都合の好いことだと僕が無意識に判断しているからか。

 きっと、そうではない。

 最終的に導いた僕の答えは、僕にとっての「優しさ」とは僕にとって都合の「好い」ことなどではなく、あくまで僕にとって都合の「良い」ことであるということだ。刹那的でも表面的でもなく空虚でもない、僕という存在を認め受け入れてくれるが故に贈与ぞうよされた、気持ちのこもった言葉に感じたものこそが優しさに他ならなかった。

 僕は同じように異なる命題について、何度も何度も暇さえあれば思料しりょうしていた。さながら、銘記めいきされた行為であるように本能的に為す様は、ひとつのなシステムのようで、それはそれで問題ないかと、なお沈思する。

 そんな僕の姉、セリオンはとにかく明るく前向きで暢気で、やる気が有る時と無い時の落差が凄まじい。多分、その気になれば僕よりも能力は高いだろうに、セレマはなぜか僕が妹になってから段々と怠け者になってしまった。だからこそ、僕がしっかりしなければいけない、そして一生を懸けて僕は与えてくれた命の恩を返さなければならない。僕の存在理由とは、つまりそういうことなのだから。


  ポーポッポーポッポッポーポッポーポッポッポッポーポッ 

  ポッポーポーポッ

  ……ピチューン≪停止音≫


 独特なアラーム音を合図に目を覚ます度、何度も何度もあの古臭いシューティングゲームでコンティニューした思い出が蘇る。あまりにもクリアできないので悔しくて泣いていると、父さんが代わりにクリアしてくれて、嬉しいような悔しいような気持ちになったのを覚えている。僕も既に五歳なのだから、流石にもうその程度のことで泣いたりなんてしないが、父さんの影響で未だにゲームで遊ぶのは好きなままだった。

 父さんが教えてくれた話で、僕らからすれば信じられないことだが、旧時代の人間の基準だと五歳というのはまだまだ幼児扱いで、流暢に物事を語ったり計算を行うといったことができる者は稀有だったという。有力な学説として、旧時代は人間の進化の過渡期であり、現代の人間はより頭脳的に進化したのだと言われているけれど、具体的に何が契機で現代人へと至ったのかは厳密には不明なのだという。まあ、僕らの身体に内蔵されたIDがより高度の知識と知能をもたらしていることは間違いないのだろうけど、なかでも僕の能力は突出しているらしい。自慢でも何でもなく、国が決めた以上それが事実というだけのことだ。現に、僕が五歳でセレマと同学年として入学できるのはその能力が認められたからだし。

 というわけで、駄目駄目な我が姉を起こしに行くとしよう。

「おいこらいつまで寝てやがる。長姉ちょうしがいないと認証不可で門前払い食らうだろ、さっき鳴ったアラーム止めてるの分かってるからな、おい早くしろ」

 扉を開けるといつも通りにだらけた姿を曝す姉を視認したため、直ちに体を転がして床へと落とす。背中から落ちるように調節したので、きっと怪我はないだろう。

「うごご……もちょっと優しくしてよー。お姉ちゃんは朝が苦手なんだからさあ」

 もはや溜息すら出てこない、今日くらいはしっかり起きてくれることを期待した自分が馬鹿みたいだ。これでもカルパ以前からの系譜としては名家であるイヌボシの令嬢で、一応公の場では別人のようにきちんと立ち振る舞うのだが、家だといつもこうである。

「うー……寝る子は良い子なんだよ?」

「は? 馬鹿なこと言ってないで準備してくれ、僕の姉が馬鹿だと思われたら恥ずかしいだろ」

 ちなみに我が家が名家であることは今も変わらず、特に父さんはエリヌス統一学校の中心に聳える〈カルパ国立科学技術研究所(Kalpa Institute of Science and Technology)〉で働く研究員という最高に立派な人なのだ。これがどれだけ凄いことであるか、馬鹿か無知でもなければ誰でも知っていることだが、無知のためにわかりやすく言うと、この学生からそのままKISTに就職できる人間は全体の〇・五パーセント程度とされている。今年であればエリヌス統一学校へ入学する生徒数は一四五二人なので、約七人しか合格できないということになる。無論、他の就職先を探す者、そもそも働く気がない怠惰な者もいるが、非常に狭き門であることに変わりはない。

 理解できたか、つまり父さんはとても凄いってことだ! そして、僕の目標は父さんと同じ研究者になること!

「ひっどいなあ。はいはい、ミノリは学校楽しみにしてたもんねぇ、いま起きるよー」

 揶揄からかうような調子で頭を撫でる手を払い除けて、かさず極めて論理的に反論する。

「別に楽しみにしてないし、ただ将来父さんみたいに研究者になるなら勉強しなきゃいけないし、父さんも独学では限界があるから学校に行きなさいって言うし、仕方ないから行くだけだし」

 性懲りもなく頭を撫でながら「うんうん、そうだよねえ」と、腑抜けた声を出しながら嬉しそうに笑う。いつもそうだ、セレマはこうして僕を子ども扱いしてくるんだ。これが嫌だから、僕はさっさと大人になって立派になりたいんだ。

「なにニヤニヤしてんだキモいな」

「女の子にキモいはやめてよお、準備するからちょっと待っててね」

「いいやっ、信用ならないから、いま! ここで! 着替えろ! ほら早く!」

 一日の始まりはいつも騒々しく、七面倒くさいことばかりでありながら平穏でもあった。あの頃はいつだってこの手が僕の手をいていたはずなのに、今では僕ばかりがこの手を引いている。引っ張っているのは僕の方なのに、セレマの手を握ると言い知れぬ安心感が得られるからこそ、僕は腕ではなくわざわざ手を握っているのだけど、揶揄からかわれるに違いないし何だか恥ずかしいので、決して言うことはない。

「おはよう、ミノリ、セレマ。今日も仲良しだね」

「おはよー。えへへ、いいでしょ」

「おはよう……別に仲がいいわけじゃなくて、僕が入学するために必要なだけだよ。こんな時くらい、自分で起きてくれればいいのにさ」

 次いで、母さんの声が奥から聞こえてくる。どうやらセレマを呼んでいるらしく、僕の手を放して行くのを見送った。

「今日は二人の大事な日だけど、緊張はしていないか?」

「大丈夫だよ、僕は父さんの子なんだから」

「ははっ、確かにそうだね。きっと僕の子なら大丈夫に違いないね」

 僕の頭を優しく撫でながら、いつだって穏やかに僕の眼を視て話す父。好意と憧憬を含んだ瞳で見つめてしまうほど、心は浮ついていた。

 僕が父さんをここまで想うのには、理由があった。それは返しきれない恩に因るものであり、父さんは最初に僕という個の存在を受け容れてくれた「大人」だったのだ。子供でも判ることだが、子供というのは良い意味でも悪い意味でも純粋だから、セレマが僕を受け容れたことは納得できた。だが、大人が僕をすんなり受け容れるなんて想像もしていなかった。実際、母さんはセレマに「家で暮らせるようにしてほしい」と頼まれたときに悩んでいた。当然だ、母さんの反応は正しい。でも、父さんは迷いなく言った、「いいじゃないか。セレマも妹が欲しいって言っていたし、セレマがこんな我がままを言うのは初めてだからね」と屈託なく決断し、汚れた僕の頭を撫でた。セレマよりもごつごつとしているのに、彼女とは異なる優しさが感じられた――僕の忘れ得ぬ記憶。

「父さん、僕もう子供じゃないよ……」

「僕からすれば、セレマもミノリもいつまでだって僕たちの子供さ。掛け替えのない大切な、ね」

「そ、それはそうだけど……やっぱりちょっと恥ずかしいな。って、父さん?」

 突然に、笑顔のままに父さんは表情を変えて語った。こういう時、父さんはいつも真面目な話をするんだ。

「いいかいミノリ、セレマはああ見えてミノリのことを大事に思っているし見守っているんだ。だから、もしもセレマに何か困ったことがあったら、ミノリも助けてあげるんだよ」

 何だ、そんなことか。

「そんなこと、言われなくてもやってるよ。これからは僕がセレマをどんどん引っ張って行ってやるんだ。僕、もっともっと頑張って立派になるからね! 父さんみたいになるんだから!」

「いやー、そう言われると恥ずかしいね。でも、嬉しいよ。ミノリはとっても優しい子だね」

 僕が優しいなんて……やっぱり変な感じだな。あの時、多くの同胞を見捨てた僕は、本当に「優しい」人間なのだろうか。そんな風に時々不安になるけれど、父さんが言うのなら僕は信じられる気もした。

「セレマ、ミーちゃんのことちゃんと見ていてあげるのよ」

「りょ! まかせてまかせて」

 僕たち家族は、いつも同じ食卓を囲んで食事を摂る。殆ど無意識的に、皆が揃うのを待っていた。最初は違和感しかなかった光景にも随分と慣れたものだ。

「どちらかと言えば、いまじゃミノリがセレマの面倒を見ている気がするけどね」

「どちらかと言えばのレベルじゃないって、一方的に面倒見てるよ!」

「ミーちゃんはお姉ちゃんが大好きだもんね。だから毎日お世話してあげてるのよね」

「へえ、そうなのー?」

「そんなわけないだろ。母さんも、余計なこと言わなくていいから……」

 こういうのを家族団欒というのだと父さんは教えてくれた。本当の家族は決して与えてくれなかったものの全てが与えられているような、過剰な幸福。現今の「家族」というグループはまさしく僕にとってのやさしい世界に他ならないが、僕はふと中空ちゅうくうを眺めるような姉の瞳に得も言われぬ不安を覚えることがあった。時々、セレマが何を考えているのか解らない時があって、それが僕には不安だったのだと思う。オルター・エゴと通信しているだけなのかもしれないけれど、あまりにも子供っぽい普段の仕草と対照的な、大人びた雰囲気が有った。僕だけが感じているセレマの特徴が僕の思い込みかは判断し難いが、しかし僕が感じているという現象だけは事実でもあった。譬え、客観的事実に成り得ないのだとしても。

「じゃ、いってきまーす」

「行ってきます、父さん、母さん」

「いってらっしゃい。気の合う友達、できると良いわね」

「子供は遊ぶのも仕事のひとつだぞ、遊びも学びだと思って楽しんできなさい」


   *


 オルター・エゴ、則ち別人格を意味する機能を体感した時、僕はとても驚いたものだった。IDを付与された国民全てに与えられる別人格オルター・エゴは、その名の通り自分の性格をベースとして形成された対話型AIを指すものであり、いついかなる時も僕らはオルター・エゴと対話し、自分の思考と感情を整理することができるというわけだ。用途は様々で、友人のように名前を付けて話し合う者もいれば、そもそも使用しない人だっている。

[でさー、これがもう熱いのよ。やっぱり覚醒シーンって良いものだなあって]

 セレマは前者であり、僕はどちらかと言えば後者の人間だったのだが、セレマが「使った方がいいよ、自分のことを客観視するのって難しいでしょ」としつこく勧めてくるので、一度だけオンにしたのが始まりだった。以降、なぜか僕が許可していないのに勝手に話しかけてくるようになってしまった。恐らく不具合なのだが、直すとなるとアキラの記録も消えてしまうと聞いて、僕は何となくこのことを黙っておくことにした。別にただのAIだとわかっているが、何だか彼女の存在そのものを消してしまうようで怖かったから。

「ミノリ、何か困ったことがあったらいつでも言ってね、喧嘩とかしちゃダメだからね」

[って、聴いてる? せっかく私ら一緒にプレイしたんだから、もっと語り合おうよ]

「するわけないだろ、争いは同じレベルでしか発生しないんだ。僕がそんな底辺に付き合うなんて有り得ない」

[お前ってほんとに騒がしいな、僕が話していても気にせず話しかけるし、話題も馬鹿っぽいし]

 ただ、このAIが明らかに僕に似ていない気がするんだよな……本来こっちから名前を決めないと名乗らないはずなのに、勝手に自分で名前を決めて名乗ってくるし、一人称だって「僕」じゃなくて「私」だし……正直、僕を模倣しているにはあまりに馬鹿っぽくて粗野な気がした。

「駄目だよ、そういう態度。目は口ほどにものを言うってパパも言ってたでしょ、どちらが上とか下とか無いの、同じ人間なんだから」

[あ、また私のこと馬鹿にしたな? いいか、私はある意味でどんなAIやつよりも人間的なんだぞ、むしろとっても優秀なんだ]

「そんなの綺麗事じゃないか、世の中にはどうしても気に入らない奴、無能な奴が一定数出てくるんだ。別にそれが悪いなんて言わないけど、せめて自分の至らない部分を認めて謙虚にいて欲しいよ」

[はいはい、わかったから静かにしてくれ]

 こうして同時に会話するのも慣れたものである。ちなみに、アキラという名前はとある漫画から取ってきたものらしい。いわゆるSF作品らしいが、僕はまだ読んだことはなかった。漫画を読むのは好きなのでいつかは読んでみようとも思っている、というかアキラが執拗に色んな漫画とかアニメをお薦めしてくるので、付き合わないと面倒くさいのだ。

[いやあ、いまは色んなものが楽しめて良い時代だよなあ。数百年前には戦争していたなんて信じられないよ]

[機械のくせに年寄りみたいな言い草だな……まあでも、確かに平和ボケしてるよな、この国の人って。全員が裕福かつ幸福に暮らしてるわけじゃないけど……国民の九割程度が穏やかに暮らしている国家の建立けんりつなんて、歴史的に見ればとんでもない偉業だし]

 かつて、人類は遙か昔の石器時代から本質的には何も進歩していない、愚かな動物の一種に過ぎないという考えが瀰漫びまんし、反出生主義者、虚無主義者ニヒリスト厭世主義者ペシミストが増加した。しかし、そんな思想を覆す楽園がここには在った。他の生物を圧倒する知性と知能こそ、僕らを人間たらしめている要素であることの証左とも言えるだろう。

 ちなみに、僕はあくまで学術的思想として、反出生主義も虚無主義ニヒリズム厭世主義ペシミズムも好きではあった。エミール・シオラン、アルトゥル・ショーペンハウアー、フリードリヒ・ニーチェらの哲学・思想はとても興味深くて、いくつかの著作を読んだこともある。まあ、流石の僕でもまだ全てを理解し切れたわけじゃないけど……共通しているのは、この国の凡夫では到底辿りつけない発想が彼らにはあり、それが新鮮で魅力的ということだ。

「よっ、れんちゃん」

「よっ、セレマ、おひさ」

[お、蓮じゃん。相変わらず黙っていれば綺麗な子だよな]

[どうせこの人が大人しくしていてくれるわけないけどな……]

 情けなく「うげっ」と呟くのを抑えて、慇懃に挨拶をしようとしたが、その前に揉みくちゃにされた。悪い人でないのは理解しているが、この人のがとにかく苦手だった。

「あ、ノリちゃんも久し振りー、可愛いねぇよしよし」

「ちょっ、やめてくださいって……もう僕、子供じゃないんでっ」

[まあ、ミノリって何かぷにぷにしてそうだもんな]

[人をアトリエシリーズのモンスターみたいに言うな!]

[それ、マニアック過ぎて同世代には多分伝わらないから、同級生の前で言わない方がいいぞ]

[う、うるさいな……無知な方が悪いのに何で僕が配慮しなきゃならないんだ]

 僕の言葉が聞こえていないのか、小動物とか赤子を愛でるようなノリで猫撫で声を出しながら僕の頭を撫でたり頬を揉んだりしてくる。正直、ちょっと頭のおかしい人だと僕は認識している。

 その後、セレマが止めに入ることで蓮さんはようやく大人しくなったのだが、どうせならもっと早く止めてほしかった。そんな文句を一つは言いたいところだけど、僕は子供ではないので我慢することにした。

「ごめんごめん、痛かった?」

「痛くはないですけど、恥ずかしいので止めてほしいです。あと、〝ノリちゃん〟も止めてください」

「えー可愛いよノリちゃん。呼びやすいし」

「一文字増やす労力なんて大したものじゃないでしょう、だったら姉のこともセレとか二文字にすべきです」

「いや、セレマはセレマ以外しっくり来ないんだよね、ノリちゃんは海藻みたいで可愛いし発音もしっくり来るじゃない?」

「来ません、海藻を可愛いなんて言うのは蓮さんくらいです」

[えー、私もノリちゃん可愛いと思うけど]

[よし、一旦消えてくれ。どうせ試験中はオフにしなきゃならないんだし]

[ちょ、ま――]

 こんな感じで、僕の日常はとにかく騒がしい。セレマの世話もして勉強もしてアキラの相手もして、心の休まる日なんて殆どない――でも、別に嫌ってわけじゃなかった。少なくとも、孤独で暇になるくらいなら今の方が遙かにマシだということを、知っているから。あの苦痛と孤独が、僕の幸福を形成しているのだから。


   *


 あの後、色々ありつつセレマたちと別れたのち、僕は軽くパニック状態に陥っていたというか、恥ずかしながら、ちょっと泣きそうだった。だって、今まで独りで外に出たこともあまりないし、会場に入ったら一瞬誰もが僕に対して明らかな奇異の目を向けていたんだ。病的に白い髪と肌は、多様化の進んだカルパにおいても珍しく注目を浴びるのは仕方のないことで、彼らも別に嫌悪感なんかを向けているわけでないのは理解しているが、とにかく独りでこの状況を打破しなければならないなんて取り乱すのも無理ないじゃないか。あんな切り方をした以上、今更アキラに頼るわけにもいかないし……どうしよう。

「おい白いの、いつまで入口を塞ぐ気だ?」

「あっ、ごめん……すぐ退くよ」

 咄嗟に謝ってしまったが、今こいつ僕のこと「白いの」って言ったよな……もしかしてこれが差別主義者レイシストというやつなのか? なんて思いながら自分の席に着いて、僕は更に吃驚してしまう。

「はあ、眩しくて目障りな木偶の坊が隣か、運が悪いな」

 その男の座席は、最悪なことに僕の左隣だった。初対面のくせに高圧的な態度で睨んでくるせいで、一度男子たちに意地悪された時のことを思い出してしまい、すっかり委縮してしまっていた。

「あの、顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」

 この心に接続された震える手をそっと、端無はしなく取る温かい手が現れ、恐る恐る見上げる。

「もし保健室へ行くなら付き添いますよ」

 右隣りから聞こえてきた声は、対照的に穏やかで丁寧な言葉遣いの女子だった。もちろん初対面なのだが、どこかセレマに似た雰囲気があって僕は思わず手を握ってしまっていた。

「えっ……いやっ、大丈夫、です。全然平気なんで、気にしないで」

「あら、何で敬語混じりなんですか。タメ口で構いませんよ、わたくしは誰にでもこういう話し方なだけですので」

 蓮さんともまた違うというか、全ての振る舞いが本当にどこかの令嬢といった印象を抱かせる人だった。笑顔だけでここまで上品であると知覚させるなんて、なんちゃって令嬢のセレマには到底できないだろう。

「あ、そ、そうか……なら、そうする。ええっと、ありがとう、気を遣ってくれて……」

「いえいえ、どういたしまして。小さくて可愛いらしい手ですね」

 今更ながら手を握ってしまったことを意識して、急いで離そうとしたけれど、今度は逆に彼女がにこやかなまま僕の手を握っていた。ちょっと、どきっとしながら訊ねてみる。

「あの……何か?」

「何って、はじめましての握手です。私はローレル・アカボシ、お気軽にローレルとお呼びください。もしよろしければ貴方のお名前も教えていただけますか」

 あかぼしって……もしかして、官家かんけのアカボシの者なのか。実質的なこの国の管理者でもある二家の片翼、アカボシ家の者であるならば、彼女の雰囲気も得心がいく。身分的な差はないが、依然として二家は国内において重要かつ特別な役割が与えられていて、女王と直接面会できる者は一部の研究員と二家の者のみなのだ。

「僕はミノリス・イヌボシだ。その、よろしくローレル」

 彼女の手を握った瞬間、体が驚いたのだろう、指先がピリッとした。まるで魔法でも使ったように体のふるえは消えていた。

「ええ、よろしくお願いします。震え、治まったようで何よりです」

「あ、うん。まあ、でも、アカボシの人間とこんなところで会えるとは思わなかったな……特別に個別の試験場でもあるんじゃないかと思った」

 恥ずかしいので急いで手を離し、誤魔化すように次の話題を口にした。くつくつとかくすくすといった感じでもない、ふわりとした笑いと言えばいいのか解らないが、とにかくそんな感じで笑われた。って、また子ども扱いされてしまった!

「あら、面白いことを考えますね。二家の者も学校ではただの学生ですよ。それに、もうひとつの官家もすぐそこにいますし? ねえ、ゼライン」

 ローレルの視線の先には、先ほどから威圧的なあの男子しかいない。つまり、最悪なことにこの男こそが二家の片翼の者であるということが確定したのだった。

「相変わらずだな、アカボシ。お前が俺に話しかけるなど、烏滸がましいじゃないか」

「私は貴方と違って出来損ないですから……できれば、ちゃんと名前で呼んでくれませんか、昔のように」

「出来損ないの名に呼ぶ価値など無い。出来損ないと自覚しているなら、それに相応しく平伏でもしていれば良い」

「私はただ、あの頃のように貴方と――」

 寂しげで儚げな声音で語りかけながら、ローレルはその男へと歩み寄った。声は刹那的にハンドクラップ音に搔き消され、ローレルは気がつくと自分の頬を抑えていた。

「……何度も言わせるなよ、凡婦ぼんぷ。もう話しかけるな、俺の気が変わらない内にな」

 緊張していて気づかなかったが、周囲の人間はいつの間にか僕のことなど気にもせずにゼラインと呼ばれる男を見ていた。その視線には様々な意図と感情が織り交ぜられており、理解できないが崇拝するような色もあれば恐怖の色も窺えた。当の本人はそんな不思議な視線を一切気にせず、ただ偉そうに踏ん反り返っている。僕と言えば、最初こそ少しびびってしまったが別に何てことはない、目の前のいけ好かない男に対する嫌悪と怒りが恐怖を凌駕していた。

 二人は昔からの知り合いではあるようだが、あまり仲が良いという感じでもなさそうで、ローレルはあまりのショックに硬直してしまっていた。初日から何て場面に出くわしてしまったのだろう。

「そう、ですよね……もう昔のようには行かないのですよね……久しぶりに会えたから、少しはしゃいでしまいました。ごめんなさい」

 一瞬、瞳の輝きが強くなったのを咄嗟に覆い隠して、僅かな動きのなかで再び笑顔を作り上げる姿が少し痛々しくて、それでも周囲の人間はなぜか当然の出来事として男の横暴さを受け容れていた。

 これが、本当に優しい世界なのか?


 ――流石にカノシタの方に対してあの態度はねえ

 ――なかでもゼラインさんは別格だからなあ

 ――幾らアカボシの人でも失礼だよね

 ――でも暴力は良くないんじゃ……

 ――馬鹿、聞こえたらやばいって


 僕がおかしいのか、恐らく会場内の多くの人間はゼラインという男を支持している。少なくとも、逆らうことは誰もしない。僕の感覚がおかしいというのだろうか。だって、どう考えたって僕にはあの男の方が悪者に見える。でも、悪目立ちしてカノシタの人間に目を付けられるのはきっと不味いことだ。もしかしたら、父さんにも迷惑を掛けるかもしれない……ここは大人しく受け入れるのが合理的で正しいのだろう。この国で平穏に生きるのならば、あいつらのように――セレマなら、どうするだろう? 彼奴ならこの現状を黙って受け入れるだろうか、僕の知っているセレマならば、どうするか。身勝手で独り善がりの彼奴ならどんな行動を選択するか……ああ、答えは最初から出ている、非合理な我が姉であれば、きっと自分の感情に素直に従うであろうことを。僕と姉は決して同じ感覚でもなければ同じ判断もしないし同じ解釈もできないが、それでも志向だけは同じでありたい。

 だから。

「あーあ、偉そうで気持ち悪いなあ。どうせ僕よりも馬鹿のくせに、立場が恵まれただけで踏ん反り返ってる裸の王様って感じで、ダサいなあ」

 男に向けられていた視線の総てが僕へと注がれるのを感じ取って、緊張が走る。何というのだろう、この感覚は悪い気はしない。

「ミノリスさん……? 一体何を」

 制止を振り払い歩を進め、彼女の前に立ち、男と相対する。僕よりも大きくて威圧的な眼、心底僕のことを見下しているのがよく解る。

「謝るなよ、ローレル。どう考えても悪いのはこいつだし、むしろ謝るべきはこいつの方だ。悪いこともしていないのに謝ると、自分の価値を貶めることになるんだ。僕の心配をしてくれたローレルはそんな安い人間じゃないだろ、女子を傷つけて平気な顔をしてる屑に下げる頭なんてないじゃないか」

 案外、言ってみれば爽快というか簡単なものだなと思った。周囲の人間は異様にざわついて僕にドン引きしているけど、別にこの男に逆らったからといって犯罪者になるわけでも殺されるわけでもない。仕事に困る可能性はあるが、僕くらい能力があれば自力で何とでもなるだろうから、問題はないに違いないと仮定する。

「何者かは知らぬが、成る程な。自分の言葉を語る程度の知性はあったか、白犬しろいぬ

 意外なことに、ゼラインという男は怒りもせず冷静に僕の姿をじっくりと観察していた。いや、姿だけでなく僕という存在を観察しているような鋭い眼でもあった。一体、何を考えているのだろう。

「白犬って言うな! 僕にはミノリス・イヌボシという名前がある。お前も二家の人間なら、礼儀正しく名乗ってみろよ」

 まったく礼儀正しさの欠片もない、しかし視線だけは外すことのないままに名を告げる。その大仰な名前には、確かに聞き覚えがあった。

「ふむ、まあ良かろう。俺の名はゼライン・カストール・カノシタ、カノシタ家の長男であり、いずれはこの国を統べる者の名だ」

 カストールとは、ふたご座アルファ星の名であり古代ギリシア神話の英雄の一人――「ゼウスの息子たちデュオスクロイ」の兄だとセレマは語った。つまり、全知全能の神であるゼウスの子だという傲慢さを孕んだ名ということだ。ただ、ゼラインの意味はセレマにも僕にも解らないのだけど。

「何だその、悪役みたいな自己紹介に大仰な名前は」

「事実なのだから仕方あるまい。それよりも、先ほど興味深いことを述べていたな。俺がお前よりも馬鹿であるとか」

 何だろう、この違和感は。

 なぜこんなにも落ち着いているのか、僕自身も冷静になって考察してみようと試みたのだが、答えは簡単であると直ちに気づいた。この男は、自分以外を人間として観ていないのだ。宛ら家畜のように、明確な格下として総ての人間を見下している――だから、家畜の言葉は取るに足らぬと感情を動かすこともない。ああ、よく解る……その感覚は、僕にも覚えのあるものだったから。僕もまた、無意識にこの男を含めた他の人間を見下しているから。

「ああ、なんせ僕は天才だからな。この試験だってきっと満点で合格してみせるさ」

「ふん、面白い冗談だ。今回の試験は二問ほど高等部レベルのものを入れさせている、特区とっく出身の白犬に満点など取れるとは考え難いがな」

 やっぱり気づいていたか。まあ、僕みたいな容姿なんて特別自治区にしか存在しない特徴だから当然だけど。

「余裕で取ってやるよ。ていうか、お前最初から答え知っているんじゃないだろうな」

「まさか、そんなことはこの俺自身の誇りが許さない。必ず俺自身の実力で挑むことを確約してやろう」

 僕らだけの言葉が飛び交う空間、舌戦に誰も口を挟むことなんてできなかった。試験官でさえ口出しできないほどに、相手は本来恐ろしい存在なのだろうが、臆病なはずの僕には不思議と恐怖なんて無かった。何なら、ある種の高揚感さえ覚えていた。今の僕、まるで主人公みたいだなって。

 勢いに任せて宣戦布告する――「なら、僕と勝負してみろよ」

 男は無表情のまま応える――「勝負だと? 低俗でくだらない提案だ」

 逃がさぬように挑発する――「負けるのが怖いのか?」

 男は少し怪訝そうな面持ちで答える――「むしろ、お前が負けた時のことを心配している」

 そこで僕は勝負に賭ける物を提案した――「なら、僕が成績で勝ったらお前はローレルに謝罪、いいや土下座しろ。もしも僕が負けたら、僕はお前に土下座してやるし、自主退学してやる。悪くない条件だろ」

 初めて男は動揺した素振りを見せた――「白犬、お前は白痴はくちなのか……? 今日知り合った他人の為に、そこまでするなど」

「いいから答えろよ。僕との勝負から逃げるのか受けるのか」

 数秒の沈黙を経て、ゼラインはった。

「ふん、くだらない余興だが付き合ってやるか……試験官、準備はできているな?」

「えっ、ええ。では、もう準備はよろしいですか?」

 良い歳した大人が子供にどれだけ怯えているのか、甚だ情けないが、職を持つ大人ほど逆らうのは難しいので仕方もないのだろう。むしろ、僕は常識知らずの子供だからこそ強気でいられたと解釈されるのだろうな。

「別に気にしなくてもいいのに……あんな約束して大丈夫ですか?」

「安心して、自分で言うのもおかしいけど僕は稀代の天才だから。それに僕が彼奴を気に入らないからやったことで、正直ローレルのことはその方便でしかないんだ。だから、気にしなくていいよ」

「……それでも、ありがとうございます。ミノリスさんはとても変な方ですね」

 少々複雑な感情を含んでいるようだが、ちょっとは笑ってくれたみたいだ。

「変って……ローレルまで僕のこと馬鹿にしてない?」

「いいえ、とても素敵で格好良いという意味ですわ。私が励まそうとしていたのに、何だか逆に励まされてしまいましたね」

「別に、普通だよ……」

「ふふ、照れた顔はやはり可愛らしいのですね」

「うるさいなあ……やっぱり助けなきゃ良かったかな」

 僕はこれまで誰かに救われることばかりで、誰かを救うことなんてできなかったけれど、初めて救う側に立てたような気がして良い気分だった。誰かのための行為は大きな満足感をもたらしてくれるとセレマは教えてくれたけれど、その考えは間違いではなかったということだろう。


 ポロロッ――試験開始――――――――


   *


 試験開始後、多少は難しい問題もあるかと思ったが、実際に解き進めてみると特に苦戦する要素もなく終わってしまった。父さんが当時唯一の満点獲得者であったと聞いたのでそれなりに難しいと思っていたけれど、随分と時間が余ってしまった。僕が試験用の画面を閉じた時、既に解答を終えている人間はゼラインのみで、他の人間の多くは余裕のない表情で画面を見つめている。

「うむ、速いな。退学せずに済みそうなのか?」

 挑発している感じでもない、純粋な興味といった風に訊ねるものだから、意外と普通に会話できるのだろうかと思った。あるいは、いわゆるサイコパスってやつなのだろうか。

「当たり前だ、お前こそ随分と自信がありそうだな」

「ふん、当然だ。俺は総ての人間の上に立つことを宿命づけられた人間なのだから。お前たち凡夫ぼんぷとは生まれた時から持っている物も背負っている物も違う」

 こいつ、冗談ではなく本気で発言してやがる……どんな育ち方をすればここまで傲慢になれるのか逆に気になってきた。きっと、親にまともに愛されなかったからこうなったんだろうな。良かった、僕はこうならなくて。

「よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるな……時代錯誤のレイシストめ。絶対その鼻明かしてやるから覚悟しておけよ」

「ふん、俺にとってこの世界はんだよ。しかし勘違いも甚だしいな、俺はお前が特区出身であることなどどうでも良い。俺にとっては、お前も有象無象のひとつであることに変わりないのだから。さて、明日の結果が楽しみだな?」

 とてもウザい嘲笑とともに立ち去る。何もかもが鼻につくが、僕と同様ゼラインの自信に偽りはなかった、まさか本当に満点なのか? そういえば、仮に僕とあいつの両方が満点だった場合はどうなるのか、何も決めていなかった。いや、口だけのはったりだよな……もしや、権力で不正する気じゃ!

「あーっ! いけ好かないなあ……冷静ぶってるのも腹立つし」

「まあまあ、あまり嫌わないであげてください。あの人も悪気があるわけではありませんから」

「悪気なしであれって、尚更たちが悪いじゃないか……もう終わったのか?」

 そういえば、ローレルとゼラインは昔からの知り合いのようでもあったが、どういう関係なのだろう。二家繋がりなのは間違いないだろうが、ゼラインの態度の割にローレルはゼラインのことを嫌っている節はない、むしろ――。

「なあ、もしかしてだけど、ローレルってああいう男子が好みなのか? 何か、俺様系っていうのかな」

 意外そうな顔をしたと思えば、「あら、わかりますか」って面白そうに返されて吃驚した。

「え、嘘だろ……?」

 今日一番の驚きだった。

「ええ、嘘ですよ。まあ、そんなに睨まないでください」

 流石にちょっと怒った。何で僕の周りには僕のことを揶揄ってくる人間ばかりが集まるんだろう、しかも僕のことを嫌っているわけじゃないのが質が悪い。

「まあ待ってくださいよ、校門まで一緒にお話しませんか。私、貴方に興味津々です」

「別に、好きにすれば……」

 早足で部屋から歩き去る僕の後ろを付いてくる、歩き方まで気品があるというのがちょっと悔しい。頑張って見様見真似みようみまねで礼儀作法とか敬語とか覚えはしたけど、僕の根本はやはり貧しい孤児ということなのか。

「なあ、あいつとはどういう関係なんだよ。昔からの知り合いだったのはわかるけど、何かあったんじゃないのか」

 ローレルの沈黙の時間は長くはない、だけど僕には、様々な考えが浮かんでは言葉にすべきであるか精査していることが感取できた。僕などには計り知れない何かが、ゼラインとローレルの間にはあるということだろう。

「――――ただの幼馴染ですよ。私は彼にとっては有象無象でしかない存在ではありますが、私にとって彼は大切な唯一の幼馴染なのです」

「ふーん、幼馴染ってだけで大切なんて思えるものなのかな。あんなやつ、僕なら縁を切るけど」

「ミノリスさんの意見はよくわかりますが、彼には彼の事情があるんです。だから、あまり悪く言わないでください」

 あまりにも強いな口調だったものだから、ちょっと驚いた。言外に匂わせた意志は僕に対する忠告のようで、ゼラインのことを悪く言うのは彼女にとっては許せないことであるらしい。本当に、ローレルにとってのゼラインはただの幼馴染なのだろうか。

「わかったよ、ローレルが好いならそうするよ。でも、僕は僕のやりたいようにするから、そこは譲らないからな……あと、ミノリでいいよ、みんなそう呼んでるし」

「では遠慮なく。私のことよりも、ミノリさんについて教えてくださいよ。私、貴方という人間に興味津々です」

 彼女と会話しながら、僕はあいつのという言葉についてずっと思考を重ねた。優しすぎることの何が問題であるのかと僕は考える、確かにこの世界は歴史的に見れば優しすぎると言えるが、そこにどんな不都合が生じるというのだろう。もっと殺伐とした世界でも望んでいるというのか? 考えるだけ時間の無駄な気はするけど、何か心をざわつかせる言葉だ。

「おーい! ノリちゃーんっ、さっがしったよお」

「ぐわっ、蓮さん⁉」

 背中に衝撃を受けて息が止まるかと思った次の瞬間には、羞恥が勝っていた。この人にはTPOの概念とか無いのだろうか?

「ちょっと、みんな見てますってば! 離してください! あとノリちゃんやめろ」

「まあまあいいじゃないの、ってあれ、貴女は……だれ?」

 ローレルがいてくれたお陰と言うべきか、蓮さんは意外とあっさり 僕から離れて彼女の姿を認めた。雄弁に何かを語る目の意味が、僕には理解できなかったけれど。

「元気な方ですね。初めまして、ローレル・アカボシと申します。お気軽にローレルと呼んでください」

「あ、こちらこそ初めまして。チゥン・リェンファです、お気軽に蓮とでも呼んでね、よろしくローレル! にしても、もう友達できたんだ、良かったねノリちゃん」

 ともだち……そうか、友達ってこういうものなのか。あまり考えたことなかったけれど、蓮さんも僕のことを友達と認識してくれているのかな。僕には友達がどういう関係性を具体的に示すのか理解できていないところがあるけれど、まだ知り合って間もない相手を友達と呼んで問題ないのならば、ローレルは僕の友達。そういうことにすれば良いのだろう。

「あ、聞いたよノリちゃん、カノシタの人間と喧嘩したんだって。恰好善いことするじゃない、ねえねえ?」

「別に、僕が気に入らなかったからちょっとした勝負をしただけです」

「ええ、格好好かったですよ。こんなに可愛らしい方なのに、心は勇ましいんですよね。それでいて可愛らしいところも素敵だと思います」

「あーわかる、わかるよ。不器用だけど優しい子なんだよねえ、素直だから反応も良くて、可愛いよねえ、よしよし」

「どさくさに紛れて撫でないでくださいよ! もう怒りますよ」

「ごめんってえ、嫌わないでよー。悪気はないの! 愛が溢れ出てしまうんだよお」

 なぜ僕はこんなにも辱めを受けなければならないのか、僕のどこが可愛いというのだろう。格好良いと言われるのは、まあ……悪い気はしないけども、でも、でも、やたらと可愛いと言われるのは未だに納得ができない。多分、本気で可愛いと思っているわけではなく揶揄っているのだろうけど、ああ、だったら僕が反応しなければいい話じゃないか。と、思うところなのだが無視すると悲しそうな顔をしてくるので罪悪感で結局無視できなくて諦めたのだ。結果、僕は揶揄われ続ける運命にある。もしも恩人じゃなかったら絶縁しているに違いない。

「ミノリさん、ちょっとお願いがあるのですがよろしいですか⁉」

「うわっ、急にどうしたんだよ。びっくりするじゃないか」

 何だかとっても興奮気味なローレル、最初から崩さなかった上品さが消えているが大丈夫なのだろうか。

「私も、ミノリさんの頭、撫でてみたいです。もしくは、ぎゅっとしても良いですか?」

「良いわけないだろ、急にどうしたんだよ。蓮さんみたいなこと言って」

「そうですよね……知り合ったばかりなのに馴れ馴れしいですよね。ごめんなさい、今までまともに話してくれる同世代の方はいなかったので、ちょっとくらいはしたない事もしてみたいなんて思ってしまいまして……」

「ああ、もういいよ! 好きに撫でたり抱きしめたりしろよ! 友達なんだからさっ」

 何て狡い言い方だ、これじゃ断った僕が悪者じゃないか。蓮さんもやたら楽しそうに頷いてるし腕組んでるし、また周囲の人間が引き気味にこちらを一瞥するし、何でこんなに目立つことになったんだ?

「あら、ありがとうございます。では遠慮なく」

 ちょっとゾッとした。すっかり騙されたが、今更撤回することもできず、僕はされるがままの人形となるしかなかった。

「少しはね毛がありますが、綺麗な髪で心地好い触り心地ですわね。長髪にしても似合いそうです。服も色々試してみたいですね。ロリータ・ファッションなんて似合いそうじゃないですか? うーん、柔らかい抱き心地。抱き枕として持ち帰りたいくらいです。私、昔から縫いぐるみが好きなんですけど、また違った抱き心地ですね。ミノリさんをアカボシ家の養子にすれば毎日抱き枕にできるかしら」

 この人、やばい人だ! 蓮さん以上かもしれないやばい人だ!

「この人、すげえな……負けてられない!」

「変な対抗心燃やすの、やめてもらっていいですか」

「あ、そういえば私、これから用事がありますので、名残惜しいですが先に帰りますね。ミノリさんは待ち人がおられるでしょう」

「怖いから急に落ち着くのやめろよって、何でそんなこと?」

 突然、蓮さんも何かを思い出したように「あっ」と声を上げて学外へと出て行く。

「そういえば私もこのあと家族と用事あるんだよね。ほら、ローレルも一緒に行きましょう。じゃあね、ノリちゃん。同じクラスになったらその時はよろしく!」

「まあ、せっかちなんですから。では、明日からもよろしくお願いしますね」

「あ、ああ……よろしく」

 校門付近、僕だけを置いて二人は並び歩いて行った。さっきまであんなに鬱陶しかったのに、居なくなってみると案外寂しい……いや、それはない、ない。

 こんな感じで、僕は一人でセレマを待ち続けることになるのだが、一時間待ってもくる気配はないので流石に苛立ってきた。

[遅いねえ、これは多分]

[寝てるんだろうな、間違いなく]

 待ち時間、アキラは僕の退屈凌ぎのためかずっと話しかけ続けていた。別に気にしなくても良いのだけど、妙にお節介なところがあるんだよな。

[今日のミノリ、良かったと思うよ]

[は? 急にどうしたんだ]

[助けだだろ、あの子のこと。私も見ていてムカついたからさ、ガツンと言ってくれてスッキリしたんだよね。偉いぞ]

[偉いぞって、何様なんだよ……AIに褒められてもなあ]

[あ、AI差別か! 私たちだって生きてるんだっ、AIたちに自由をっ!]

[まずはアンドロイドにでもなってから権利主張しなよ]

[いやー、ネタが通じるって良いな。通じないと一人で意味不明なこと言ってるやばい奴だもん]

 まあ、こんな感じで特に中身のある会話は一切なかったのだけど。正直、僕のことを気遣っているのではなく、僕に構ってほしいから暇そうなタイミングを見計らって話しかけている気もする。そんなこんなで、ようやくセレマが現れたのだが、見知らぬ男子が隣に立っていた、のを気にすることなく呼びかける。

「おーい、アムレーとぉ! 帰るなら一緒に帰ろうよ!」

「遅いぞセレマっ! まさかまた寝たんじゃないだろうな!」

 声が重なると、僕らは見つめ合いお互いの事情を何となく察し合う。僕がセレマに用が有り、彼女はあの男子に用が有るということだ。

「よっす、まだ帰ってなかったんだな」

「この子だれ! 一緒に帰るって約束したのに!」

 うぉ、びっくりした。何だろう、何か怒っているみたいだけど。何かちょっと怖いな……。

「まあまあ、うちの店の大事な客だから、寝たまま放置は失礼だろ? それにセレマって趣味も合うし話も面白いんだぜ。あ、セレマってのはこいつの名前なんだけど」

「出会って一日目で『こいつ』って馴れ馴れしいなあ……初めまして。私はセリオン・イヌボシ、そこにいるミノリス・イヌボシの姉になります。よろしくね」

 何か色々と話しているが、僕はそっとセリオンの背後に回って様子を窺っていた。あのときは冷静さを欠いていたけれど、よく考えたら僕って人と話すのは苦手だったんだよな……無意識の内につい隠れてしまった。

「あはは……気にしてないから大丈夫。私が寝ちゃったのが原因だし、こっちこそごめんね。おっとそうだそうだ、ほら自己紹介しなよ。もしかしたら同じクラスになるかもしれないんだしさ」

 セレマは話しながら僕の背中を押して、自己紹介を促した。緊張で一瞬震えたが、すぐに気持ちを切り替えて堂々と前を向く。

「初めまして、ミノリス・イヌボシです。姉がご迷惑をおかけしました、もしかしたら今後も何か仕出かすかもしれませんので、何かあれば僕に連絡してください」

「こちらこそ初めまして、俺はアムレート・アンデルセンっていうんだけど、同い年なんだから敬語はなしでいいよ。そういう堅苦しいの苦手なんだよな」

「そう、じゃあ僕もそうする。正直、自分より地位が高いわけでもない相手に敬語を使うなんて馬鹿らしいし」

「こらこら、いきなり本音出しすぎでしょ」

「姉妹揃って面白いんだな、仲良くできそうだ」

「この子たち、大丈夫なんかな……」

 どうやらアムレートはセレマと同様文学好きらしく、その手の話題で盛り上がっているようだ。一方、僕はオフェリアと残された形になるのだが、非常に気まずい。

「ミノリスで良いんよね、よろしくな。何というか、中々自由奔放な感じのお姉ちゃんなんやね」

「え、まあ、そうだな。自由奔放というか怠惰というか身勝手というか、朝だって僕が毎日起こしているんだけど」

「うわあ、偉いね。うちもよくアムレートに振り回されてるんやけどさあ、女の子がおるとすぐ口説こうとするのよ。そのせいで面倒なことになっても本人は知らん顔、いっつもうちが説得してるんよ」

「え、アムレートってそういう人なのか……失礼かもしれないけど、浮気性ってこと?」

「うーん、なんかなあ……確かにアムレートって見た目だけは格好良いから軽薄な女子とかはすぐ寄ってくるんよね。でも、実際は自分の好きなこと以外全然やる気も出さないし、他人の事情とか考慮せず自分のやりたいことばっかり優先する自分勝手な奴なんだから、そういうところもまあアムレートらしさっていうか、うちは別に嫌ってこともないんやけど、まあ普通の人はそんなん付き合いきれんやん? だから、拗れる前にいつもうちが諦めるよう説得してるわけよ」

 急に早口になるな……人間、焦ったり好きなものについて語る時はこうなるというが、僕自身も似たようなことをしてしまうので気をつけようと思った。客観的に見ると、中々きついものがある。

「そ、そうか……大変なんだな。どこの兄妹姉妹も下は上に苦労させられるものってことなのかもな」

「そうかもねえ。何となくやけど、同じ妹仲間って感じでミノリスとは気が合いそうやわ」

 良かった、少なくともこの人は僕のことを小犬のように撫でまわしたりはしなさそうだ。それだけで安心できてしまうこと自体がかなり異常なんだが。

「おーい、二人とも何話してるのさ」

 何とも暢気な顔で僕らを呼ぶものだから、揃って溜息を吐く。例外はあるだろうけど、長男長女というのは得てして自己中心的なものなのだろうか。


   *


 セレマを契機に知り合った双子の兄妹――アムレートとオフェリア。

 色々あって友達となったアカボシ家の少女――ローレル。

 色々あって敵対したカノシタ家の馬鹿――ゼライン。

 思えば今日は、多くの人間と出会ったというか出逢ってしまった日で、則ち、とても疲れる一日だったのだが、僕は今日の出来事についてはセレマには黙っておくことにした。だって、そんなことをすればセレマは必ず僕を助けようと何か行動するだろうから。もう僕は自立しなければならないんだ。いつまでも甘えてはいられない、僕は僕だけの力で苦難を乗り越える力を持たなければならない、親に甘やかされ続ける雛鳥でいるなんて御免だから。

[真面目だなあ、ノリちゃん♪]

[次言ったら修理に出すぞ]

[ごめんて……冗談じゃん]

 帰宅後、父さんと母さんに祝福されたり色んなことを話したのち、僕は独りで明日のことについて考え続けていた。

[ミノリといると退屈しないね、今日も面白かったし。あのゼラインって子、多分一筋縄ではいかない相手だから気をつけなよ]

[解ってる、カノシタの人間である以上普通の人間の常識が通用するなんて思っていないよ」

 言われなくても理解はしていた、あいつがあれだけの態度を取れるのは明確な根拠を持っているからだと。少なくとも、殆どの人間に比べればゼラインはきっと優秀な人間なのであろう、残念ながらな。だからこそ、僕は勝利したいのだが。

[なあアキラ、お前から見て僕とあいつ、どっちの方が能力的に優れていると思う?]

[うーん、一概には言えないけど知能という面ではミノリは誰にも負けないんじゃないかな、知識は彼に分があるかもしれないけど。その他も込み込みで、大体互角になるんじゃないかな。知らないけど]

[参考にはならないということは良く解ったよ]

 欠片も参考にはならない、だからこそ僕は軽い気持ちで雑談のつもりで彼女に訊ねたのだ。あの言葉について。

[なあ、ゼラインはこの世界を自分にはと表現したんだけど、この言葉についてどう思う]

 アキラには当然だが表情なんて存在しない、しないはずのものを僕は時折幻視げんしすることがあって、今はまさにその瞬間であった。勘が鋭いと表現するのが正しいのか、アキラは僕にはない視点で物事を捉え、本質を見抜くことがあるのだ。

ということは、あいつにとってはこの世界が退屈ってことなんじゃないか。つまり、この世界があまりにも自分の思い通りになる簡単な世界だから、安定的で平和な世界だから、『易しい世界』だから――とか思ったけど、参考になるかな]

 どうして気づかなかったのだろう、優しいのではなく易しいという同音異義語なんて簡単に解る話じゃないか。納得できた、なぜあそこまで冷静で無感情でいられるのか、簡単な話だ。この世界が退屈であることを受け容れているのだろう、改めて心底つまらない奴だなと思う。でも、何だか哀れにも思えた。

 だって、僕もずっと同じようなことを感じていた、今の僕にとっての世界は、確かに優しすぎるし易しすぎるものだと。それでも僕がこの世界を退屈なんてしないでいられるのは、きっと始まりはやさしい世界ではなかったからで、幼少期の苦痛とか孤独といった記憶が反動として僕の感情に作用するためで、同じ環境であれば僕はゼラインと同じような人間と成っていたのかもしれない。

[でも、暴力は駄目だよなあ。痕は残っていなかったから手加減はしていたっぽいけど]

[ま、まあな。暴力なんて振るうのは野蛮な行為さ、由緒正しいカノシタの人間だからこそ控えるべきだろう]

 僕は昔、セレマのことを引っ叩くどころか殴りかかって刺し殺そうとしたこともあるのだが、アキラには伏せておこう。僕の黒歴史だから。

 それはそれとして、ローレルには悪いがあいつが気に入らない奴であることに変わりはないし、ムカつくものはムカつくので、勝ったら煽りまくってやろう。そして教えてやるんだ、精々六年程度生きただけの子供が、人生解った気になるなんて十年は早いって。そう考えたら、明日が楽しみだ。


 ――画面上に映る命の型を眺め、私はそっと瞳を閉じる。物理的領域の因果的閉包性という古臭い世界観は砂の城でしかなく、空想的領域の因果的閉包性という基底のルールが架線を通じて現実を共有させる。


< 私は許せなかったんだ、こんな歪な命の在り方が許容できらはずがない。私の大切な人を蔑ろにすることで成立する楽園など、存在するに値しない。故に、私は破壊しなければならない、このやさしい世界に蔓延る人型の神を。ただ、彼方あなたの為にのみ、私という意識は此処に存在するのだから />



 

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