本文 1-1冒頭
人の笑顔とは「恐怖」を表す一種の表現である、なんて話を読んだことがある。
どうやら名のしれた動物学者がチンパンジー研究の中、発見したらしい。
学生の頃、そんなことをでかく特集していた記事を見つけた時は、嘘をつけと笑った覚えがある。きっとその偉い人は本当に笑ったことがないのだろう。その頃の俺は、
友達と遊んでいる時だったり、小遣いを多く貰った時だったり、とにかく嬉しかったり楽しかったりした時にしか笑ったことがなかった。恐怖を覚えて笑顔を浮かべるなんて素っ頓狂な状況を、思い浮かべることができなかったのだ。
未来は明るくて、俺はきっと自分のなりたいものになることができて。例えばその隣には笑顔を浮かべる想い人なんかがいたりする。そんな毎日が俺には待っているのだと信じていた。
だけど先週、クビを部長に宣告された時、思わず笑顔を浮かべ、分かったのだ。
あの記事は真実を書いていた。
嘘でしょとか、勘弁してくださいよとかそんな言葉をなんとか口に出そうとして。
どうにかしてクビを撤回してもらおうと考えていると、何故か自然と頬が緩みはじめた。力は入ってない。笑おうとも思ってない。というかそもそも笑う暇なんてない。だけど口元は歪み、目尻は下がり、ついでに背中には冷や汗が流れはじめていた。
思うにあの笑顔は自分を立場として下の者だと相手に認識させ、なんとか機嫌を取ろうとした結果、動物としての本能が働いて生まれたものなのではなかろうか。
そう自覚した時、俺は敢えてその笑顔を持続するように努めた。
だってこれは証であり、自覚の象徴だからだ。
結局俺は何物にもなれない。小さい頃描いた、自分は何か特別なものになれるのではないかという夢は夢のまま終わったということを今更自覚させてくれたのだ。
俺はどこにでもいるサラリーマンで。いや、どこにでもいるサラリーマンという立場すら既に怪しい下落者だった。
でも、だから俺はあの時、彼女の言葉に頷けたのだろう。
まるで神様の様に全能で、幻想のような彼女の言葉を信じることができたのだろう。
自分にできることはないと思っていた俺を拾ってくれた、神様のような女子高生。
浅間徒鳥。
この名前をきっと俺は死んでも忘れることはない。
「私を神と崇めなさい。認めなさい」
「そうしたら貴方が抱く不安の一切合切を……私が全て受け止めてあげる」
まぁでも、その言葉に頷いたことが俺にとっての幸運だったのかは、
正直今でも分からない。……というか分かりたくない。
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暑い夏の日のことだった。
「えー、それでは何回目になるか分からない乾杯ですが……尾長辰巳君の今後の発展を祈って……かんぱーい!」
「かんぱーい」
ガチャンとジョッキをぶつけ合う音がそこかしこから聞こえてくる居酒屋。
ここは渋谷のど真ん中。
2時間3000円飲み放題。サラリーマンの味方であるチェーン店。
雑多な人々が多いこの店で今、俺こと尾長辰巳の送別会が行われていたのだった。
この店に入ったのは20時丁度。
それで今の時間は21時30分。
既に一時間半が経過しているにも関わらず、俺の周りで騒ぐ同期たちは次に行く店の話をしていた。
「尾長も二次会来るでしょ? だってお前主賓だし」
同じ部署で俺と同じぐらいのミスをする同期達。
部長に怒られた頻度は多分俺と同じぐらい。
そんな奴らが顔を発泡酒で赤らめ、酒臭い息を吐きながら俺に声をかけてくる。
「いや、どうだろ。ちょっと酔いすぎたかもなぁ」
こいつらと俺を比較してみればスペック的には殆ど一緒だろう。というか頭は俺の方がいいと思っている。だって俺簿記3級持ってるし。
じゃあ何故こいつらがクビにならなくて俺がクビになったのか。
それはきっと人間としての性能で俺が負けているからだ。例えば空気を読む能力。上司の前でのこいつらのごますりのうまさには俺も舌を巻くほどだ。上司が喉が渇けばお茶のお代わりを持っていくし、機嫌がいい時にはおこぼれをあずかろうと肩をもみに行ったりする。吸いたくもないタバコを片手に喫煙所に入っていく姿を何度も見たことがある。
俺にそれができるかと言われたら無理だった。色々タイミングも悪かった。
上司の期限が悪い時に声をかけてしてしまったり、表計算ソフトの式を間違えてしまったり、些細なミスを積み重ねてしまった。そういった小さな問題が積み重なった結果、今回の結果が出たのだろう。
周りの同期は俺がやんわりと断ってもまだ次に行く飲み屋を探していた。
おい、俺が帰るなら送別会はお開きだろう?
もっと悲しそうな顔でもしたらどうだ?
思わず口から漏れそうになる言葉をぐっとこらえる。
目を伏せて俯く俺は傍から見たら具合が悪くも見えるのだろうか、同期はほんの少しだけ心配そうな顔をしてどうしたと聞いてくる。
それに腹が立った。酒も入ってるから態度も自然とデカくなってくれるはず。どうせこれが最後になるのだ、少しは恨み言を言ってもいいだろう。そんな風に考えて、でも言葉にすることはできなかった。
顔をあげた俺の頬は気づけば緩み、笑みを浮かべていた。
あぁ、ここでもだ。俺は同い年の同期にすらこんな卑屈な笑いを浮かべるような人間なのか。自己嫌悪と胸やけで吐きそうだ。そうだ、いっそここで吐いてしまおうか。そうすれば少しはこいつらの記憶に残るはず。ただの飲み会として消費されるのではなく、愛すべき同期を一人失ってしまったという喪失感をここで味わってもらいたい。あわよくば次は自分かもしれないと怯えてほしい。
そうだ、吐こう。今吐こう。
そこまで考えて、人差し指を口に運ぼうとしたはいいものの、自尊心が邪魔をした。
たとえこの場で俺が嘔吐したとして、きっとこの場を忘れるものはいないだろう。でもそこに残った俺の姿は酷く情けないもので、救いようのない愚か者で、仕事もできなければ自重もできないまるで子供のような人間に映ってしまうだろう。
来週ぐらいには会社の中で上司を笑わせる話のタネとして有効活用されるかもしれない。そこまで考えて俺はだらしない笑みを止めることなく、一言だけ帰る、とだけ呟くのだった。
外に出て後悔した。
暑いしうるさいし人の数がとにかく多い。
酒の飲みすぎでキンキンと頭に響くし、油物の食べ過ぎで腹はゴロゴロなるし、座敷にずっと座っていたからか腰が痛い。背筋を伸ばせば肩甲骨辺りが痛くなる。お酒のせいで血行が良くなったのかもしれない。血の巡りは悪すぎてもいけないが、良すぎてもいけないのだなとどうでもいいことが頭に浮かんでは消えていく。
すぐ横を通り過ぎた学生たちはわーきゃー言いながら道玄坂を登っていく。きっと彼らもまだ飲み足りないのだろう。
そりゃそうだ。だってまだ22時にすらなってない。金曜日の渋谷なんてむしろここからが本番といってもいい。
「明日から俺どうすんだろね」
誰に話しかけるわけでもなく、口から言葉が漏れ出てくる。
それでようやく自覚した。多分俺は疲れてる。人生に。
小学校のころの俺は公称スーパーマンだった。だってかけっこが早かったから。周りから持て囃され、将来の夢は陸上選手か国会議員と周りには話していた。
なんで国会議員になりたかったのか。今ではそんなこと覚えていない。ただ偉くて格好良さそうに見えたからそんなことを言っていたのだろう。
要は特別な存在になりたかったんだ。
代わりがない、俺にしかなれないオンリーワンの存在。あの頃の俺はきっと神にだってなれるとまで思っていただろう。
だけど現実はそんなに甘くない。その証拠に俺は先週会社をクビになった。あとは有休消化しながら、最後の出社日を待つだけの存在。
情けなくて涙が出る。来月の俺は何をしているのだろうか。そんなことも分からない。神がいたら教えてくれ。明日の俺は一体何をして生きている。二日酔いと共に起きてトイレに駆け込むのか、それとも朝ごはんを食べてハローワークへの行き方を調べているのか。それとも実家に帰る準備をするのだろうか。
「……まぁ、神様なんてものがいたらこうはなってないか」
思わず鼻で笑ってしまう。だってそうじゃないか。俺を守ってくれる神がいるとするならば、どうして俺から職を奪うのか。こっちだって必死に頑張ってるんだ。どうにか食い扶持を稼いで毎日を過ごしていたんだ。
そんなことを考えていたらなんだか腹が立ってきた。別に神様を一発ぶん殴ってやろうとかそういうつもりも度胸もないけれど、一言文句を言ってやりたくなってきた。
ピロン、と携帯の通知がなって我に返る。無駄な考えということは分かっているけれど思考の邪魔をされても腹が立つ。衝動にかられ、胸ポケットから携帯を取り出し地面にたたきつけたくなる。
多分この時、俺はなにもかもに腹が立っていた。
だからだろう、こんなしょうもない根も葉もない噂に飛びついてしまったのは。
突飛な考えだということは認める。安直で馬鹿な選択であることに間違いはない。
それでもこの時は名案だと思ってしまったからしょうがない。
投げようとした携帯の画面が目に入る。
そこには小さなSNSの通知。
本当か分からないネットのおすすめ記事の見出しにはこう書かれていた。
「渋谷のマックに神がいる……?」
もしかして思考盗聴されてるのでは勘繰ってしまうぐらいにはタイミングばっちりな記事だった。
曰く、神はJKの姿をしている。
曰く、神は意識が高そうな会話をしている。
曰く、神はとっても美人で頭が良さそうだ。
この記事書いてるやつ頭悪そうだな。
要はよくあるネットの噂というか作り話の一種を面白おかしく書いているだけだ。
例えばファーストフード店で環境問題に悩んでいる誰かがいるとする。
すると丁度良く後ろの席に座っていた女子高生たちが現代の自然について熱く討論しているわけだ。やれ森林伐採は愚かな行為だ、とか牛を殺すなら大豆ミートを食ってろ、みたいにその『誰か』が実際に思っていることを話してくれる。そこでその『誰か』は今の女子高生の意識の高さに驚く。あぁこの国はまだ捨てたもんじゃないと感心する……といった具合に少し昔に流行ったネットのテンプレみたいなものだ。
そんなものを今更記事にしたところで購読者がつくはずない。
こういう記者はクビにしたほうがいい。
そんなことを思いながら最後までページをスクロールする。
『彼女たちの出没時間帯は――残り354文字、購読者限定となります』
ここでもう一回、携帯を投げたい欲求を抑えられた自分をほめてやりたい。
どうせ3000円浮いたんだ、一つの記事を買ったところで痛くなる腹はない。
ええいままよ、なんて言葉、人生で使うと思わなかった。
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俺は今渋谷のマックに立っていた。
記事によれば丁度この時間、件の神様がいるらしい。
ふらふらとした足取りでどうにかこうにか入店する。
まだ終電の時間には早いからか、店内は想像以上に静かだった。俺は水と野菜スティックを頼んで適当な席に座る。さっきまで誰かが座っていたのかほんのりと熱が残っていたなんとも気持ちが悪かったけれど、ここでわざわざ立ち上がるのも恥ずかしい。無駄な抵抗と分かりつつも浅く座って少しでも他人の熱を遠ざけようとする。
あぁ神よ、俺はなんでわざわざ作り話と分かっていたのにここまで足を運んでしまったのか。ただここまで来てしまった以上文句の一つでも言ってやりたいという気持ちの方が大きくなっているのは確かだった。
女子高生はどこにいる。
目を皿のようにして辺りを見渡す。しかし、いるのは疲れた様子のおっさん達だけ。やっぱりガセじゃねえか!
ふざけるな、あの500円があったら水じゃなくてコーラを飲めただろ!
後で抗議のメールを送ってやると思い立った、その時だった。
「私が思うに、無償の愛ってもう古いと思うんだよね」
後ろの席から声が聞こえた。
俺は直感した。こいつが神だ。だって普通の女子高生が話す内容じゃないもの。
「無償の愛?」
「見返りを求めない、利益なんて考えない愛ってやつ。所謂アガペーってやつ」
「はぁ……それが古い? どして徒鳥はそんなこと思うのさ」
「だって言い換えてみれば自己犠牲ってやつでしょ。今の時代流行らないって」
「ん~まぁそうかも」
「でしょ? 私が言う事に間違いはないって」
ケラケラと笑う女子高生たち。
その様子だけ見れば、もしかしたら微笑ましいものなのかもしれない。
でもついにここで、先週から溜まっていた、そして我慢していた俺の怒りは爆発してまった。噴飯ものってのは多分この状況を指すために作ってくれた言葉に違いない。
お前ら社会に出たことあんのかよって。そりゃ無償の愛ってやつがこの現代に少ないってことは認める。そんなのあったら多分俺はクビになってないし、ここで野菜スティックなんかかじってない。
でも、誰しも無償の愛ってのを欲してるんじゃないのか?
信じあえる仲間が欲しいんじゃないのか。卑屈な笑いを浮かべ合うんじゃなくて、腹から笑いあえる関係ってのが欲しいんじゃないのか。それでも結局手に入らなくてあぁこの世って辛いんだなと悲しくなるんじゃないのか。それをなに訳知り顔でポテトもぐもぐしながら話してるんだ。ぐるぐると頭の中で纏まりようもない考えが渦巻いている。
「まず愛してほしいならダブチくらい買ってきてから。じゃなきゃ私は愛さないね」
席を立つ。怒って帰ろうとしてるんじゃない。それじゃ俺が負けたことになる。
これは勝ち負けの問題にまで発展しているのだ。俺の中では。
世間の酸いも甘いも嚙み分けた社会人である俺と、まだ何も知らない大人の庇護下にある女子高生との闘いなのだ。
発言には責任を持たなくちゃいけない。それが大人の世界というものだ。
ズンズンとカウンターまで歩いてダブチをふたつ注文する。
「要は有償の愛しか信用できないって話で……って、何か用です? お兄さん」
気付けば俺は彼女たちの目の前に立っていた。
それまで伏せていた顔をここにきてあげる。頬に力を入れて、決して笑わないように。俺はもうヘラヘラなんてしない。その方が威圧感があるからだ。俺が上だと分からせてやる。
「ダブチをやる、だから俺を――」
言葉が止まった。
「……え、奢ってくれるんです?」
俺がここに来た理由。それは俺をこんな目に合わせた神が実在するのなら一言文句を言ってやろうと思ったからだ。そのにっくき顔に罵声を浴びせてやろうと思ったからか。
だが、そんな考えは彼女の顔を見てさっぱり消えてしまった。
「……わぁ」
脳天に雷が落ちてきた。
めっちゃ美人だった。
あの記事を書いた記者は多分頭がいい。
だって本当にとっても美人なんだもの。
差し出したダブチをひっこめる。
何故ならこんな態度で渡すわけにはいかない。だって神様なんだもの。
それ相応の渡し方というのがあるはずだ。
跪く。
あぁそうだ、それがいい。
だってこれは貢ぎ物。神に愛されるために、俺が買ってきたものだから。
「――アンタが神だ」
神の隣にいる女子高生は何故か慌てふためている。
やっちまったか、と今更遅い後悔が脳内をよぎる。だけどもう引き返せない。これもまたプライドの問題なのだ。
少しの静寂の後、神が笑った。
おかしそうに、愛おしそうに。
「分かった。受け取ってあげる」
良かった。神は俺を見捨てていなかった。
神が俺をクビにしたのはここで出会うためだったんだろう。
きっとそうに違いない。
だって、こう言ってくれたんだ。
「ダブチ分は愛してあげる」
って。
あぁ、幸せだ。
久しぶりに心からの笑顔が浮かぶ。これが幸せというものか――
その記憶を最後に俺の意識は、そこでプツンと途切れるのだった。
②渋谷のマックに神がいる そまりあベッキー @somariabecky
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