第7話 間違い電話

 かんさんへ急いでメッセージを送った。

 警察が来ても事件とは関係ないこと、私が八ヶ岳に行ったことになっているアリバイ工作についても話さないことをお願いする。


 メッセージはすぐに返ってきた。どうやらお願いは聞いてもらえるようだ。

 折り返しで昨日、八ヶ岳で刺殺事件があったことをどこまで知っているのかを尋ねた。

 彼女は下山中に後ろから「死体だ!」という男の叫び声を聞いたらしい。しかし好奇心で現場に向かってしまうとアリバイ工作が台無しになると思い、警察官とすれ違いながら家に直行したらしい。

 おそらく彼女の判断は正しい。もし現場近くにいたら、警察の捜査で私のアリバイ工作がバレるおそれがある。そのまま下山したのであれば、仮に私のアリバイ工作によってうちに警察官が来ても、「急いでいたので気にしませんでした」と答えればはぐらかせるだろう。


 やりとりを終えるとスマートフォンをロッカーに戻して鍵をかける。

 更衣室から出るとコーチとコートへ行って、今日のレッスンを受けた。コーチから出される黄緑色のボールを一心不乱に打ち返していく。

 テニスに打ち込んでいるかぎり、私はいっさいの不安を感じなかった。それは火野コーチへの信頼の表れなのだろうか。

 レッスンを終えて帰宅すると、洗濯機を動かしてテニスウェアを洗い、その間に夕食の仕込みを始めた。




 翌朝、家の掃除を始めると電話の呼び出し音が鳴った。こんな時間に誰だろうか。おおかたセールスの電話だろうが、もしかすると警察からの電話かもしれない。

 すぐに手を出せなかったが、意を決して白い受話器をゆっくりと取った。


「はい、かざですが……」

「えっと……よこやまさんのお宅ですか? つちおかと申しますが……」

「いえ、うちは風見ですが……。電話番号を間違われておられませんか?」

「あれ? おかしいな。お宅は横山さんではないんですね。たいへん申し訳ございませんでした。それでは失礼致します」

 通話が切れて、受話器からツーツー音が聞こえる。


 なんだ、間違い電話か。

 もし警察からだったらどうすればよかったんだろう。

 私は日曜に八ヶ岳へ行きました、とアリバイ工作どおりに答えるべきなのか。それとも素直に火野さんと食事していましたと言うべきなのか。

 なにかにき立てられるような気持ちが湧いてきて、居ても立っても居られなかった。

 すぐさまポケットからスマートフォンを取り出すと、火野さんへ電話をかける。彼なら正しい答え方を知っているはずだ。そう確信していた。そして気だるげな声で応答してきた。


〔はい、火野です。さん、なにかありましたか? まさかご主人にバレたとかじゃないですよね?〕

 その言葉を聞いて、火野さんがまだなにも知らないことに気づいた。


「わかりません。先ほど間違い電話がかかってきまして……。もし警察から電話がかかってきたら、どう答えたらよいのか迷っています」

〔昨日、アリバイ工作の女性と連絡をとりましたよね。それでアリバイ工作や由真さんについても話さないことを確約したのですから、こちらももし日曜の八ヶ岳登山を聞かれても、『行きました』と答えればいいでしょう。いちおう彼女がとった行動は聞いているのですよね?〕

 確かに念を押してはいる。しかし状況次第で発言が変わるのは誰しもあるのではないか。つかまれたくない尻尾が目の前にちらついていたら、警察がそれに飛びつかないともかぎらない。


「はい。下山中に男性の『死体だ!』という叫び声を聞いたけど、アリバイ工作に不都合だと思ってそのまま下山したそうです」

〔それなら由真さんも話を合わせて、『私も近くにいたようですが、かかわると面倒くさいのでそのまま下りてきました』と言えばだいじょうぶですよ〕

 ということは、アリバイのほうに合わせて答えればいいのか。


「仮に、ですけど……、誰かが私を見ていないと証言するようなことはないんでしょうか?」

 いささか間の抜けた質問だったかもしれない。

〔『見た』という証言なら信用できますが、『見ていない』という証言にはしんぴょうせいがありません。おそらく警察としても『見ていない』では動けないはずです〕

「だといいのですが……」

〔もし警察から電話が来たとして、今のように弱気だと付け入るスキを与えかねません。『その日、私は八ヶ岳に行きました』と断言してください。疑いの余地がないと思わせれば追及はかわせますよ〕

「わかりました。もっと気を強く持ちます」


〔今日レッスンはありませんが、明日クラブへいらっしゃった際に詳しく打ち合わせましょう。事前に質問を想定して答えを用意しておくんです。それを間違わないように答えるだけですから、難しくはないですよ〕

 本当にそうだといいんだけど。今の私にはなにがよくて悪いのか、見当もつかない。


 アリバイ工作をしているのだから、そのアリバイどおりに「八ヶ岳に登りました。下山中に『死体だ!』という男の声を聞きましたが、面倒なのでそのまま下りました」と説明すればいい。火野さんはそう言っている。

 しかしもしこのアリバイ工作が裏目に出ると、私が人を殺して何食わぬ顔して下りてきたようにも映りはしないだろうか。

 実際に八ヶ岳に行っていないのが判明すれば、なぜ行っていないのに行ったと言うのかを問われるに違いない。

 そのときもし「男性のテニスコーチと食事していました」と答えたとして、前言を翻すわけだからすんなり信用してくれるとは思えない。かえって私の立場を悪くしないだろうか。

 こんなに悩むものだから、火野さんは「強気でいろ」と言っているはずだ。私がブレずにしっかりと「八ヶ岳に行きました」と答えればよいのだ。火野さんとの関係をわざわざ暴露しなくたって、私にはアリバイがあるんだから問題なんて起ころうはずもない。


「とにかく私は確信を持って『八ヶ岳に行きました』と警察にお答えしておきますね。火野さんにご迷惑をかけるわけにもまいりませんし」

〔僕のことは気にしなくていいですよ。由真さんの疑いを晴らすのが先決です〕

 頼もしい声を聞いて、私は少し不安が消えたのを感じた。

「わかりました。まあそもそも警察が訪ねてくるとはかぎらないのですが」

〔登山客の数を考えれば、すべての人に当たるなんて無駄なことを警察はしないでしょうしね。万が一のために気を引き締めていればいいでしょう〕

 ピンポーン。

 玄関のチャイムが鳴った。今日届く宅配便があっただろうか。


「荷物が届いたようなので、ここで失礼致します」

〔ご苦労さまです。では明日お会いしましょう〕


 電話を切ると、私は玄関へと急いだ。




(次話が第一章の最終回です)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る