第6話 発端
火野コーチと食事デートを始めてから一か月が経ち、昨日も楽しんだあとの月曜日。
家でお昼ご飯を食べ終え、民放の情報バラエティー番組を観ていると、どうやら八ヶ岳で刺殺体が発見されたと速報で伝えている。
アリバイに使っている場所だけに、なにやら心地悪い。
さすがにアリバイがバレるとは思ってもいなかったが、八ヶ岳のどのあたりで殺されたのかは
まあアリバイの時間に警察沙汰になっていなければ、知らぬ存ぜぬでシラを切れるだろう。
それにしても最近身のまわりに犯罪がつきまとっているようで薄ら寒さを感じる。
夫は昨日もゴルフと称して
今日も写真付きで欣一さんが佑子さんと食事をし、そのあとラブホテルに入っていく姿と出てきた様子が日時入りでプリントされていた。
以前は毎週通うくらいゴルフにハマり、たまに私も連れていきたいと言ってくれたのに、いつの間にかそんな誘いをしてくることもなくなっていた。
実際にゴルフ場へも行っていなかったとわかるまで、私はなぜ微塵も疑わなかったのだろうか。
今でも週二回は体を求めてくるが、夫は毎週佑子さんとも致しているのだ。
その証拠が月曜になるたび増えていく。これは欣一さんと別れさせようとしている何者かの
考えられるのは火野コーチだが、彼とは肉体関係を持ってはいない。
もちろんそれとなく誘われることもあるが、あれこれ理由をつけてははぐらかしてきた。私にはまだ“貞淑な妻”の肩書きを外すことはできそうにない。
それでいいのだろう、と今では思っている。
そもそも火野コーチとの食事デートは欣一さんへのあてつけで始めたものだ。
それなのに、もし肉体関係を持ってしまったら、私は欣一さんを責められなくなる。私も同じ穴の
刺殺事件のニュースを聞きながら、テニス道具一式をバッグに詰めていく。
そして
テニスクラブで白いテニスウェアに着替えて更衣室を出ようとしたとき、外から男女が言い争う声が聞こえてきた。
「
健明さん。火野コーチをそう呼ぶのは、私の知る限り
私はあくまでも夫の不倫に関する相談をしているだけである。
しかし彼女の認識はそれとはズレていた。
周りからは私が火野コーチとお付き合いしているように映るのだろうか。
「
「あの人妻のことを名前で呼ぶだなんて! もう深い仲になったの? 彼女の具合はどうなのかしら。私なんかよりとてもよかったんでしょうね。私を忘れるくらいに」
今更衣室を出ていいのか悩んでしまうな。直接財前さんと顔を合わせると、どんな言葉が飛んでくるかわからない。火野コーチがうまくなだめたのを見計らって出ていくべきだろうか。
「彼女とは食事をしながらご主人のことを伺っているだけですよ。寝てなんかいません。だから具合がいいかどうかなんて僕にわかろうはずもありません」
「どうかしらね。殿方なんて“穴があったら入りたい”人ばっかりじゃない。健明さんも都合よく私が近づいてきたから“入りたかった”だけじゃないの? だからあの女と寝ていないなんて信用ならないわ!」
これは顔を出したほうがよいのだろうか。
ないものはないと断言すれば、少しは彼女の気が晴れるのかもしれない。実際ホテルや彼の家などにふたりで行ったことはないので、たとえ興信所を使われても非などどこにもない。
思いきって更衣室の扉のノブをつかんだ。
「正美さん、僕たちのことを同期の
「うまいこと調査員の目を盗んでいるんじゃありませんこと? 彼女がなにをしてあなたと会っているのか。知らないとでも思っているのかしら」
アリバイ工作がバレている! もし彼女が欣一さんにそのことを教えたら……。なんとかして彼女の口を止めなければ。
気は
ためらいでノブから手が離れてしまう。
「夫のある身で、それ以外の男性と会って相談しているなんて直接話せないでしょう? 内容が夫のことである場合はとくに」
「口ではどうとでも言えるものよね。しかしそんな屁理屈が通用しないことを、きっといつか思い知ることになるわ。あなたも、彼女も、ね」
これまでの怒りとは違った、
「せいぜい、身辺に気をつけるのね」
無音になってしばらくしてから、更衣室の扉を開いた。そこには火野コーチが立っている。
「由真さん、いらしていたんですね。姿が見えなかったので今日は来ないのかと思いましたよ」
先ほどまでとは打って変わって、優しい声色に変わっている。
「私たち、
上目遣いでコーチの顔を覗いてみる。
「なにを言うんですか。ご主人の不倫が解決していない今、相談相手を失えば対処のしようがなくなりますよ」
「しかしあの財前さんのおっしゃりよう、気になってしまいますわ」
デートで見せる優しい表情を浮かべている。
「彼女になにができますか。たとえ調べられても、僕たちにやましいところはいっさいありませんからね」
その顔を見て安堵していると、あれが気になり始めた。
「そういえば、家を出る直前にニュースが流れたんですけど。なんでも八ヶ岳で刺殺事件が起こったとか」
「八ヶ岳で? それが僕たちとなんの関係があるんですか? そもそもあなたも私も八ヶ岳には行っていないのですから、疑われることはないと思いますよ」
「ですが、アリバイ工作をしているわけですから、もしかしたら私を探り当てられるのではないか、と。それに毎週八ヶ岳に行っているはずの私から、夫は現場の様子を知りたがる可能性もありますし」
少し考えた素振りを見せたコーチに、アリバイ工作を任せている
「その官渡さんにいちおう口止めをしておいたほうがいいですね。仮に警察が訪ねていっても、私は行っていません、と言ってもらえば足がつくことはないかと」
その言葉で私は更衣室へ戻り、スマートフォンを取り出した。
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