第2話 相談
今日もテニスクラブで汗を流している。
一昨日の
「
我に返ったのは、コーチがネットを越えてこちらのコートにやってきてからだった。
「火野コーチ、お疲れさまでした」
まだまだ憂さ晴らしをしたかったのだが、そのためにコーチを拘束するのも悪い気がする。額から流れ出る汗をリストバンドで拭い、コート脇のベンチへ歩んでいってバスタオルで顔を覆った。
「ずいぶんと熱心に打ち返していましたね。なにかやりきれないことでもありましたか?」
「あ、いえ。ただ大学以来、久しぶりに本気でテニスをやりたくなったので……」
穏やかな笑みを浮かべてこちらを眺めている。
「そうですか。もしお時間の都合がよろしければ、この後ちょっとお食事にでも行きませんか?」
驚いて改めて顔を見上げると、これ以上なくクラクラするような
ベタにたとえるなら「王子様」だろうか。そんな王子様のお誘いに乗らないほどうぶでもなかった。
「そうですね。ご飯でも食べたら気分転換になるかもしれません」
「それではシャワーで汗を流したら、駐車場で待っていてください。僕もすぐに向かいますので」
不意打ちでさらなる王子様スマイルを見せられ、思わずキュンとときめいてしまった。結婚してから今まで感じたことがなかったものだった。
そこへつかつかとピンクのワンピースに着替え終わった女性、
「
火野コーチは笑顔を絶やさない。しかし左眉がかすかに動いたのを見逃さなかった。
「正美さん、本日はこちらの風見さんとお話がありますので、残念ながらお付き合い致しかねます」
私へ背を向けたままの財前さんは、露骨に肩を震わせている。
「私との約束はどうでもいいとお考えなのですか!」
「いえ、風見さんがなにか悩まれておられる様子なので、お話を伺いたいだけですよ。解決するお手伝いができれば、と」
火野コーチは明らかに不服そうだ。善意で私と話し合いたいだけなのに、浮気を
「コーチは、生徒の悩みを解消してスポーツに打ち込めるよう気を配るのも仕事のうちなんです。正美さんの悩みもお伺いしたではありませんか」
すると財前さんがこちらを向いて、指を突きつけた。
「こんな女の悩みなどたいしたことはありません。私のような悩み多き家系でもないのですから」
長い前髪をまとめるための銀のヘアピンが夕陽に輝いている。やけにきらめいているのでよく見たら、大きなダイヤモンドがひと粒付いていた。
それにしても「悩み多き家庭」とはなんだろうか。たしか財前さんは上場企業のご令嬢で、火野コーチと婚約したとの噂も耳にしている。それでも多くの女性が彼を狙っているのだった。
「こんな泥棒猫に健明さんを
泥棒猫呼ばわりされてついカチンと来たが、どうやらコーチも同様だったようだ。
「風見さんは旦那様のいらっしゃる人妻ですよ。僕を盗られるなんて気にする心配もありませんよ」
「わかりませんわ。ふたりきりになればひとりの男と女に戻るのですから、不貞な企みで
私は
「それでは私はこれで失礼致します。火野コーチも早く着替えをなさったらいかがですか? 風邪を引いてしまいますよ」
コーチの顔色を窺わず、私はシャワー室併設の更衣室へと立ち去ろうとする。
「それでは風見さん、お着替えが済んだら駐車場で待っていますので。忘れないでくださいね」
その言葉に財前さんの叫び声が耳をつんざく。
「健明さん! いいかげんにしてください!」
後の展開が怖くなって、その場から
シャワーで汗を流して、テニスウェアとテニスシューズを緑色のボストンバッグに詰め、私服に着替えてから更衣室を後にした。
火野コーチは待っていると言っていたが、どこまで本気なのだろうか。いちおう駐車場をチラッと見ると、コーチはグレーのポルシェの横に立っていた。私に気づいたのだろう、こちらへと歩み寄ってくる。
「風見さん、お待ちしていましたよ。さあ食事に参りましょう」
あたりを見まわしても財前さんはどこにも見当たらない。
「あの……、財前さんはどうなされましたか?」
火野コーチは後頭部を左手で撫でている。
「今日はなんとか理解してくれました。恋人でもないのに拘束されるなんてごめんですからね」
その言葉に違和感を覚えた。
「あら、たしか財前さんは火野コーチのフィアンセと伺っておりましたが?」
「誰ですか、そんな根も葉もない噂を広めたのは。僕はフリーですよ」
フリーな立場をアピールしてくるのは、私と近づきたかったからではないか。
やはりちょっと軽率だったかもしれない。たとえ婚約者がいたとしても未婚の男性の申し出はなるべく辞退するべきだったのだろう。
「それで、今日はなにを食べましょうか。幸い近くのイタリア料理店に予約可能か聞いてみたところ、今日は飛び入りでもたいじょうぶだと返事が来ました。それでよろしければ今からご案内致しますよ」
ここまでお膳立てされると逃げるわけにもいかないな。仮に逃げたとして、以後テニスクラブに来づらくなってしまうだろう。せっかくの気分転換の場を失うのももったいない。
「はい、私はそれでもかまいませんよ。食事代はいかほどかかりそうですか?」
「いえ、お誘いしたのは私なのですから、全額こちらで持ちますよ。それじゃあ車に乗ってください。今から向かいますので」
左ハンドルのポルシェの右ドアを開けて、私を手招きする。観念してシートに腰を落として、ボストンバッグでスカートを押さえながら両足を手早く内側へしまった。シートベルトをし終えたところで左ドアが開いて火野コーチが乗り込んできた。
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