第一章 アリバイ工作

第1話 尾行

 先週から続く激しい雷雨に見舞われている東京。遠く離れた台風から吹きつける湿気が前線を刺激し、この一週間豪雨が続いていた。


 そんな土曜日の朝方に、夫はいろのメーカーロゴと「風見」と緋色の糸で刺繍された白いゴルフウェアに身を包んで玄関で靴を履いている。


きんいちさん、今日くらいゴルフはやめたらいいのに。雷に当たったら死ぬかもしれないわよ」


 そんな不安をよそに、欣一さんはにこにこしながらルンルン気分でゴルフバッグを抱えている。

 短く刈り揃えたツーブロック。シャツから生えているたくましい腕はこんがりと日に焼けていた。この夏、ゴルフを堪能してきた証なのだろうか。


「なに、大自然の中でプレイするからゴルフって楽しいんだよ。も一緒にラウンドすればわかるから」

「私がゴルフ苦手なの、あなた知っているでしょう? 皆さんの足を引っ張るだけだわ」


 夫がゴルフに行くとき決まって交わされる会話だ。

 私たちは大学時代に付き合い始めた。ともに社会人となり、三年前に結婚。欣一さんは今年三十歳で大手広告代理店の課長となった。二年前からゴルフに興じるようになり、当初はしきりに私を誘っていた。しかし私は高校から始めたテニスを今でも続けているのだが、ゴルフはまったくうまくない。ひとホール回るだけで十数打叩くほどのヘボである。


「今日はどこのゴルフ場なの?」

「接待ゴルフだからなあ。たしか群馬県だと聞いていたけど」


 ずいぶんと遠いな。これは帰ってくるのは日をまたぐかもしれない。それとも。


「あんまり遅くならないでね。雷に打たれたんじゃないかって心配になるから」

「だいじょうぶだよ。ゴルフ場側がプレイできないと判断したら、クラブハウスで飲み会になるだけだから」


 でも……。そう言いそうになったが、言葉を飲み込んだ。

 そう、彼は実際にゴルフ場へは行っていないのだ。いや、最初のうちは確かに行っていた。クラブハウスでのレシートがゴルフウェアのポケットに入っていたのを確認している。

 だがここ一年、彼の衣服からレシートが出てきたためしがない。先月の洗濯時に出てきたのは、見知らぬ名前のホテルのレシートだった。インターネットで検索してみると、それはいわゆるラブホテルだった。

 ゴルフ仲間とラブホテルに行ってどうしようというのだろうか。いや、わかっている。私に隠れて女性と付き合っているのだ。


 “不倫”


 その単語が頭を駆けまわるものの、口に出すのはためらわれた。仮に欣一さんが不倫をしていたとして、私になにができるのだろうか。もしとがめでもしたら、彼は気を悪くして当たり散らすか、最悪離婚を切り出されるかもしれない。

 今は会社を辞めて専業主婦として生活しているので、離婚の話になったら私が圧倒的に不利だ。今の生活を守るためには夫の“不倫”にも目をつぶらざるをえない。

 だが……。


「とにかく行ってから考えてみるよ。少しでもプレイできそうなら、ボールを遠くに飛ばしたいからね」


 やはり欣一さんは私が“不倫”に気づいているとは思ってもいないようだ。

 実は彼には内緒で近くにタクシーを待たせてある。離婚を言い渡されたときの被害を最小限に食い止めるため、“不倫”の証拠を押さえようと考えているのだ。


「それじゃあ行ってくるよ」

「遅くならないでね」

 軽く頬にキスを交わして、夫は玄関から出ていった。

 内側から鍵をかけると、すぐにエプロンを脱ぎ、白いワンピースに着替えて裏口に待たせていたタクシーに駆け込んだ。そして夫が乗り込んだ自家用車が動き出す前に、家の正面へタクシーを寄せた。

「運転手さん、あの赤いプリウスの後を尾行してください。夫が乗っているんです」

 了解の声が聞こえると、すぐにプリウスは動き出した。




「奥さん、このまま行くと高速に乗りそうなんですけど、追いかけますか?」

「お願いします。おそらくすぐに下りると思いますので」

 赤いプリウスはタクシーの運転手の言うとおり、インターチェンジから高速に乗った。そのまま尾行を続けると、案の定次のインターチェンジで高速を下りていく。

 私たちは気づかれないよう後に続いているが、おそらく真後ろにつけていても、まさか自分がつけられているとは思わないだろう。


 プリウスは都心方面へ引き返していく。そうして先ほど乗ったインターチェンジまで来ると左折して繁華街へと向かった。

 車が国道脇の駐車場へ入っていく。ここはミシュランで一ツ星が付いたフランス料理店だ。私たちは国道の路肩に停まって様子を窺った。

 屋根のある駐車場でプリウスから降りた欣一さんは、トランクを開けてゴルフウェアの上からスーツを着込んでいく。着替え終わったら、なに食わぬ顔をして店に入っていった。

 私たちは停車位置をズラして中の様子が見える位置につける。

 中へ通された欣一さんは、ウェイターに案内されて窓際の席までやってきた。そこにはすでに紫色のドレスを着た妙齢の女性が座っていた。

 私はここでタクシーの精算を済ませて店に張り付く。


 二時間後、欣一さんは会計のためにウェイターを呼んだので、私もタクシーの配車アプリを使って足を確保した。

 一緒に食事をしていた女性を連れて駐車場に現れ、助手席に座らせると車を走らせた。

 ドライブなのだろうか、行く先をころころ変えている。そうして、ある駐車場へと入っていく。私はその様子をスマートフォンのカメラで逐一撮影していく。

 ここは前にインターネットで検索したラブホテルだった。


 ふたり連れ立って駐車場から出てきて、ラブホテルの入り口から中へ入っていく様子をスマートフォンに収めていく。夢中でシャッターを切っていると、タクシーの運転手が声をかけてきた。


「どうも後ろの黒いベンツも今のを撮影しているみたいですね。あちらは望遠レンズの付いた本格的なカメラですけど。あのふたり、有名人かなにかなんですか?」

 言いづらいがここで嘘をついても意味はない。

「男性は私の夫です」

「あ、不倫ですか。悪いこと聞いちゃいましたね」

 言葉とは裏腹に、運転手は悪びれた様子もなかった。


「まあうちらもいろいろと修羅場を経験することはありますけど、慰謝料をぶんどるつもりで気を強くしてくださいね」

 それより背後から望遠レンズで狙っている人物が気になった。スモークガラスでよく見えないが、あんな上等なカメラを持っているということは男性だろうか? もしかしたら探偵かなにかだろうか。

 欣一さんの会社が身辺を洗っているのだとしたら、こんな失態を見逃すはずはない。それは彼の昇進に響いてくるはずだ。

 たとえ離婚にならなくても、欣一さんが左遷されて心が離れてしまいかねない。念のため後ろの車と撮影者も撮影しておこう。



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