容疑者のひとり〜探偵・地井玲香の推理

カイ.智水

容疑者のひとり〜探偵・地井玲香の推理

プロローグ

罪の代償

 長野県と山梨県にまたがってそびえる八ヶ岳の山々の中で、男性の刺殺体が発見された。


 およそ山登りにふさわしくない上下黒色のスーツを着て、ピカピカの黒い革靴を履いている。

 スーツは高級ブランドであるブリオーニのテーラーメイドで、五十万円は下らない代物だ。革靴はフェラガモでこちらも十万円以上は軽くするだろう。

 中でも金色のネクタイがひときわ目を惹いた。

 高価な衣装を身にまとっている割に、ブランドは統一されていない。しかもネクタイが悪趣味な金色である。被害者はいささか成金趣味の気があるようだ。



 遺体を確認すると、刺し傷は右首筋と右脇腹にあり、そこから真っ赤だったはずの血液が白いシャツを染めておういろに乾いている。

 どこかで殺されてここまで運んでこられたのだろうか。

 ガイシャの靴底を確認するとこいちゃいろの土とうぐいすいろの苔が付着していた。

 どうやら場違いな格好でここまで登ってきたようである。

 なぜこんな姿で登らなければならなかったのだろうか。


 遺体の左手首には日焼け跡があるものの、そこに腕時計はなかった。

 念のためスーツのポケットをあらためたがすべて空っぽで、どうやら身分を証明するものをなにも所持していないようだ。


 髪は短めだがポマードで固められている。右の瞳にはコンタクトレンズが装着されていたが、左にはそれがない。犯人と争ったときに落としたのだろうか。

 しかしこの広い山中で紛失したコンタクトレンズを探し出すのは現実的ではない。

 また仮に発見できたとして、それがなんの意味を持つのだろうか。

 片方が外れているのであれば、一方を着け終わり、もう一方を着けようとしているときに襲われたか、争ったときに片方外れたかしか考えられない。

 そしてここまでコンタクトレンズをせずに登ってきたとは考えづらいので、やはり争って外れたと見るのが正しいはずだ。


 財布も携帯電話も所持していないことから、ものりの犯行を装っているように見える。

 だがいくらこの遺体が大金を所持していたとしても、見ず知らずの人物にわざわざここまでおびき出されるものだろうか。

 ここまで誘導されて登ってきたとして、山道から外れたこんな草木の生い茂った場所へブランドものの服を着て足を踏み入れるとは考えづらい。

 誰かに誘われたとしても、高価な衣装でここまで草木をかき分けて下りてくるものだろうか。



 この人物は誰かに弱みを握られていた、とは考えられないだろうか。

 それによって山道を外れてここまで下りてこざるをえなかった。

 たとえばたいせつなものを奪われて、ここに落とされていた。

 ブランド品を身に着けているということは、金にさといかもしれないので、奪われた財布がここに落ちていたとする。

 いや、それではここまで下りてくる必然性がない。財布がここに落ちていた確証がなければ下りてくるはずがないのだ。


 であれば、携帯電話がここに落ちていた。

 そして他の携帯電話が呼び出して、着信音を頼りにここまで下りてきたのではないか。

 そう考えれば、遺体が携帯電話を持っていなかった理由にも合致するだろう。

 最後に呼び出した携帯電話の番号が履歴に残っていれば、それが最重要人物だとあかすようなものだからだ。



 これはものりの犯行ではない。そう見せかけた顔見知りによる仕業だろう。

 身分を証明するものをすべて奪っていったのは、被害者の近辺を探られると困るからではないか。そう考えると、このげんじょうに納得がいった。



 だが、犯人は大事なことを忘れていたようだ。

 テーラーメイドのスーツには、たいてい持ち主の名前が刺繍されている。スーツのジャケットを翻してみると案の定、金糸で刺繍が施してあった。

 「T.Godai」

 これがこの遺体の名前と見てよかろう。


 他に遺体からわかることがあるだろうか。

 革靴を履いていたということは、自動車でここまで連れてこられた可能性が高い。

 いちおう最寄りのJR小海線野辺山駅へ部下をやり、防犯カメラに「T.Godai」が写っていないか確認に向かわせる。スーツを着ているので駅を利用していればすぐにわかるはずだ。

 だが、ブランドもののスーツと革靴を身に着けて、駅からここまで登山してきたとはまず考えられない。

 最初から登山するつもりでいるのなら、登山服に登山靴、それにリュックくらいは背負っているはずだ。それがこの場に最もふさわしい出で立ちである。

 だから、最初から登山するつもりで来ていなかった。

 誰かに連れてこられ、なんらかの理由でここに携帯電話が置かれてあり、自分の携帯番号で呼び出させて音を頼りにここまで下りてきた。

 そう考えるのが自然だ。

 であれば、自動車でやってきた可能性が高いだろう。自分の車か犯人の車かはわからないが。



 そこで部下を付近の駐車場へ振り分けて、監視カメラ映像の確認に向かわせた。

 また現場と、そこまでの山道に犯人の痕跡が残っていないか調べさせる。

 ゴミ箱になにか捨ててあるかもしれないので、現場より下にあるすべてのゴミ箱からゴミを集めるよう指示した。

 凶行に出たあと、そのまま登山を続けるような愚かな真似まねはよもやしないだろう。痕跡があるとすれば現場より下である。



 鑑識が写真を撮り終わり、病院へ搬送するために遺体を動かした。するとひとりの刑事から声があがる。

「課長、下になにかあります!」


 遺体の下をよく見ると、白い紙切れが落ちていた。コンビニエンスストアのレシートのようである。

 場所は東京都内で、日時は八月二十六日金曜の七時十三分。一昨日のもののようだ。内容を見てみると、缶コーヒーとサンドイッチを買ったものである。

 これが被害者「T.Godai」か犯人か、いずれかの決め手となるかもしれない。

 鑑識に白手袋で渡すとともに、付近を探している制服警察官たちに空き缶やサンドイッチの包装フィルムなどを重点的に探すよう指示した。



 すると空がピカピカッと光り、雷鳴が轟き始める。

 今日は午後から天候が荒れると予報されていたのを思い出した。じょじょに厚い霧が立ち込める。

 どうやら大雨が降り出す前に現場の確認はすべて終わったようだ。後は制服警察官に任せ、残っていた刑事全員が「T.Godai」の身元確認へと散っていく。私もすぐに覆面パトカーで現場を後にした。


 事件は深い霧の中へと突入したかのように視界が効かず、見通しはまったく立たなかった。



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