第3話 食事

 初めてきんいちさん以外の男性とふたりで料理をしに来た。

 イタリア料理には詳しくないが、コーチはボロネーゼを頼み、それに合わせたワインを注文した。

 しばらくするとソムリエがやってきて、キャンティというイタリアワインがグラスに注がれた。明るいルビーレッドで、グラスを回すとさくらんぼの豊かな香りが広がる。ひと口含むとソフトで滑らかな口当たりで、しつこくない渋みを感じる上等なワインだ。これはお高いだろうと気になった。


かざさん、これは一本三千円くらいのテーブルワインなんですよ。味わいの割にお安いのでコストパフォーマンスにすぐれていますから」

 なんだ、三千円ならうちでも一本くらい買っておいてもよさそうだ。さくらんぼの風味がクセになる。ウェイターが運んできたボロネーゼと合わせても味が衝突しない。本当に飲みやすいワインだ。

 でも私はあまりアルコールには強くないから、飲みすぎたらすぐに酔いがまわってしまう。飲みやすさに騙されないよう気を引き締めて、ボロネーゼを食べていく。


「風見さん、レッスン中にうわの空でしたけど、なにか心配事でもあるんですか?」

 食べ終わったところで火野コーチが尋ねてきた。ナプキンで口元を拭い、少し考えをまとめてみた。


「実は、どうやら夫が浮気をしているようでして……」

「浮気ですか。今の僕たちのように一緒に食事をしていたとか?」

 少しためらわれたが、ここは嘘をつかないほうがよいかもしれない。

「はい、それもあります。でも、食べ終わってから……その……ふたりでいかがわしいホテルに、入っていったんです……」

「いかがわしいホテル、ですか……」


 コーチが意味深長な表情を浮かべている。そしてなにか物色するような視線を感じた。

 テニスクラブのコーチではあるものの、火野さんもしょせん男性である。私とベッドを共にしようと考えているのかもしれなかった。しかしあえてその可能性を否定する。

「いちおう一緒に食事をしている場面と、いかがわしいホテルに揃って入っていく様子は写真に撮ってあるのですが……」

 少し口を開きすぎたかな。火野さんが弱みに付け込んでこなければよいのだが。

「それなら、離婚を切り出されたときの武器は手にしているんですね」

 意外な言葉が返ってきた。

「武器、ですか?」


 火野さんが身を乗り出している。なにか、どうもうな肉食獣に肉をちらつかせているような気分だ。


「そうです。仮に離婚の話になっても、証拠の写真があれば慰謝料は思うがままです。それで離婚を思いとどまらせることもできるし、別れる場合でも財産の大半はこちらが受け取れますよ」

 とうとうとまくしたてる姿に、なにか手慣れている雰囲気を感じた。おそらく火野さんはそういった修羅場を幾度も体験しているのだろう。経験したことはなによりも雄弁に物語れるものだ。


「でも、それならこちらも手を打っておいたほうがいいですね」

「こちらも、ですか?」

 聞き返すと、すでにいたずらっ子のような態度に変わっていた。


「そうです。今僕たちが食事しているシーンを、もしご主人が撮影していたら、言い訳できませんよね。だからこちらが証拠写真を突きつけても、『お前だって他の男性と食事をしていたじゃないか!』と逆ギレされないともかぎらない」


 言われてみれば確かにそうだ。今日の行動は軽率に過ぎたかもしれない。もし誰かに証拠を握られてしまったら、言いなりにならざるをえないだろう。


 そういえば、店前の道路に見覚えのある黒いベンツが停まっていた。もしそこから望遠レンズで狙われていたら……。

 いや、あの望遠レンズの人は欣一さんの写真を撮っていたのだ。であれば私の写真など必要ないだろう。


「とりあえず、こちらはアリバイを作っておくべきですね」

 意外な言葉が飛び出した。アリバイとはなんだろうか。

「僕たちが食事をしている間、他の場所にいた、というアリバイを作るのです。そうすれば、仮にご主人がさんの身辺を洗っても、アリバイがあるので僕にはたどり着かない」

 つまり私が他の場所にいると偽装すればよい、ということだろうか。


「たとえば、単に『山に登ってきます』と言っても後をつけられてバレかねない。でも登山服に登山靴、リュックサックを背負って『山に登ってきます』と言えばしんぴょうせいがあるじゃないですか」


 そういえば欣一さんもゴルフウェアを着てゴルフバッグを持って「ゴルフに行ってくる」と言っていたな。だから最初は私も疑わなかった。でもラブホテルのレシートを発見してからは、そんな嘘を見抜けなかった自分を責める日々が続いている。

 もし最初から嘘を看破していれば、夫は浮気に走らなかったのではないか。私の甘さが原因で不倫を許してしまったのだろう。


「では山に登るとして、必要なのは登山服と登山靴、それにリュックサックくらいでいいのでしょうか?」

 提案者に尋ねてみた。

「そうですね。それですぐにはバレないと思います。ですが、興信所を使ったり由真さんのようにご自身で証拠をつかもうとしたりすれば、すぐにバレかねない」

 それで夫の浮気に気づいた私が言うのもなんだが、筋は通っている。


「そこで、山に近いところに住んでいる背格好が似ている人へ頼んでアリバイトリックを仕掛けるんです。実際に由真さんが山に登っていたような痕跡を残させれば、おそらく僕たちの関係には気づかれないでしょう」

「アリバイトリックですか……」

 ない頭を振り絞って考えてみた。


「まず登る山を決めないとですね。由真さんの体力なら高尾山よりも八ヶ岳のほうがお似合いだと思います。それに高尾山よりも遠いので、それだけアリバイトリックに気づかれにくくなるでしょう」

「八ヶ岳に登るんですか」


「最初は実際に登るんです。そうしてどんな山なのかを把握して、二回目からは協力者に痕跡を残させる。それで疑いの目を逸らせます」


 ここまで話が進んできて初めて気がついた。

 これは火野さんとふたりきりになるためのアリバイ工作なのだと。

 つまりコーチは私と火遊びをしたいのではないか。端的に言えば、安全に私と寝たいからアリバイを作らせる。おそらく火野さん自身もなんらかのアリバイ工作はしているのだろう。そうでなければ婚約しているというざいぜんさんに、私たちの関係を気づかれかねない。


 私としては火野さんと火遊びするつもりはないが、彼に下心がある以上、アリバイ作りはしておくに越したことはないだろうと腹を決めた。



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