気付く side織
高校に上がり、彼はぱったりと女の子と遊ぶのをやめた。私と距離をとるのもやめた。めんどくさくなったのだと彼は言った。
「だって僕には織がいるし」
「私がいるっていっても別枠なんだろ?」
「ん? 織とは名前が必要な関係ではないでしょ?」
「まあ、そうか。そうだな」
「だったらもう、織だけいてくれればいいんだよ」
「私が何度言ってもやめなかったくせに」
「そこはまあ、許してよ」
「許すも何も、初めから怒ってなどいない」
「そっかぁ」
*
夏休みに入り、私は彼の家に入り浸っていた。
「ねえ、織」
「なんだ」
「夏祭り行かない?」
「夏祭りか。そういえば久しく行ってなかったな」
「ね、行こうよ」
「そうだな、行こうか。いつやるんだ?」
「来週の土曜日」
*
「すまない。母さんに瑠衣と祭りに行くっていったら張り切ってしまって」
私は紫陽花が描かれた紺色の浴衣を着ていた。髪は横で編み込みにしてある。母があと少し、あと少しと粘るものだから待ち合わせの時間に遅れてしまった。
「そんなに待ってないから大丈夫だよ。浴衣似合ってるね」
「動きづらい」
「まあ慣れないしね」
祭りの会場は人でごったがえしていた。夜には花火も打ち上げるそうだからもっと人が増えるだろう。
「はぐれると困るから手でもつないでおこうか?」
「それもそうだな」
幼いことから手をつなぐなんてこと数えきれないほどしているため、今更特別な感情なんて湧いてこないが、人混みが苦手な私でも、緩く繋がれたこの手があるだけでそんなに悪いものではないと思えた。
「今のが最後か?」
「そうみたいだね」
屋台で食べ物を買い込んで、食べながら花火を見た。久しぶりに近くで見るそれは記憶のものよりもずっと美しく感じた。花火を打ち上げる音が体中に響き、しみわたる。その余韻に浸っていると、瑠衣が手を緩くつないできた。
「帰ろうか」
人の波に乗って流されるように歩く。
「あ」
後ろから押される衝撃に耐えきれず、思わずつんのめる。勢いあまって下駄が明後日の方向に飛んでいってしまった。
「るい、瑠衣。すまないが先に行っていてくれ。下駄が脱げてしまった」
「織、こっち」
人ごみを抜けて道のわきによける。
「ちょっとここで待ってて」
そういうと彼は私が脱げた方の靴を脱ぎ、私の足元に置いた。履くなり足を置くなりしていいと言い残すと、彼はそのまま人波に入っていった。
ほどなくして彼は、私の下駄をもって戻ってきた。
「織、これだよね?」
「ああ。瑠衣、すごいな。よくあの人ごみで見つけたな」
「そんなに難しくなかったよ」
「しかしな、しばらくたてば人も少なくなったろうに」
「それだと織が大変でしょ? それに下駄も壊れていたかもしれない」
まあ、結構汚れちゃったけど。瑠衣は足元に跪くと、タオルを取り出し、私の足を拭き始めた。
「お、おい。瑠衣。それはやらんでいい。汚れてしまうだろう」
「でも砂が付いた足で履くの嫌じゃない?」
「それはそうだが」
私の抗議の声を聞き流して、今度は下駄の天を拭く。
「よし、こんなもんかな。履きにくかったら僕につかまってくれてもいいよ」
「すまない」
下駄を履きなおして帰路につく。珍しく静寂が私たちの間に走った。私の頭の中は先ほどの出来事で頭がいっぱいだった。心臓がどくどく言っていてうるさい。顔が熱い。無言でいることがこんなにもつらく感じたのは初めてだった。
そうこうしているうちに自宅に着いた。彼とは家が隣どうしということもあったが、すぐに別れて家に入ってしまうことなく、私の家の門の前までついてきた。
「瑠衣」
「何?」
「今日は、ありがとな」
「こちらこそ」
「じゃあ」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
そうして私が玄関の扉を閉めるまで彼はそこにいた。
私は扉を閉めると、そこがたたきであることもかまわずにへたり込んだ。
思えばいつもそうだった。彼は私が家に入るところを見てから自宅に戻っていくのだ。
よろよろと立ち上がり、リビングへ向かう。家でのんびりしていた母に迎え入れられる。
「ただいま」
「おかえり。どう? 楽しかった?」
「うん。だけど浴衣は動きづらくて大変だった」
「まあ、こればっかりは慣れとしか言いようがないわね」
「そっか」
「瑠衣ちゃんの反応はどうだった?」
母は昔からの名残で彼をちゃん付で呼ぶ。
「悪くはなかった」
「そう」
「ね、お風呂入りたいから脱ぐの手伝って」
「はいはい」
浴槽につかり、ぼーっとしていると、ふいに今日の出来事が浮かんでくる。今更ながら、あんなにも何も感じていなかったはずの手をつなぐという行為がなんだかとても恥ずかしく思えてくる。それに、なんでだ。彼の顔が浮かんでくるたびに心臓がうるさい。顔が熱い。ただ、この何とも言えない幸福感で満たされている感じは嫌いではなかった。
*
幾日か経ったとき、浮かれていた私は唐突に思い当ってしまう。この気持ちは、おそらく世間でいうところの恋であるということに。それならば私は持ってはいけない感情を彼に抱いてしまったことになる。彼との約束をたがえてしまったことになる。途端に氷水を浴びせられたかのように冷静になる。
何もなかったかのように、今までのように彼といることができるか? いや、無理だ。どうしても、彼を意識してしまう。今までどおりなんて無理だ。ああ、なんでこんなものに気が付いてしまったんだろう。なんでこんなものに名前を付けてしまったんだろう。きもちわるい、きもちわるい。なんで、なんで、なんで。
あの日彼が言っていた意味がようやく分かった。こんなもの、全然きれいじゃない。美しくなんてない。素晴らしいわけがない。ドロドロしてきもちわるい。汚い。
隠さないと。なくさないと。捨ててしまわないと。誰にも悟られないように。気づかれないように。彼に伝わってしまうことないように。
「これは、恋ではない」
幾度となくつぶやく。心のなかで反芻する。大丈夫。これは恋ではない。恋ではないから、彼にそんな気持ち抱かないから。だから、私が彼のそばに誰より近い場所にいたい。いさせてくれ。だけどその気持ちは本当に純粋なものなのか? 独占欲ではないのか? 違う。これは恋ではない。付き合いたいとは思わない。思ったことはないから、これは恋ではない。恋ではない。恋ではない。
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