ない
♤
「……うん?」
体を洗って風呂を出ると、違和感を覚えた。
そしてすぐにその正体に気づく。
「服が……ない?」
脱いで、ちゃんと畳んで置いておいたはずの服がない。
パンツすら。
どこにも見当たらない。
「……どういうこと?」
頭が真っ白になっていた。
俺は夢でも見ているのか?
「染谷君、出た?」
ポカンと立ち尽くしていると、奥の部屋から先輩の声が届く。
「え、ええ。あの、服がないんですけど」
「洗濯しておいたよ。汚れてたから」
「せ、洗濯? え、うそでしょ?」
「ほんと。洗濯機回してるから」
「ええ……」
そばにある洗濯機は確かに動いていた。
ドラム式のそれの中でグルグル回っているのは俺の服、だそうだ。
いや、どうすればいいんだ俺?
靴がないどころの騒ぎじゃない。
服がなければさすがにここから一歩も動けない。
「もう出るの?」
また、先輩の声が届く。
慌てて返事をする。
「ふ、服がないとさすがにどうしたらいいかわかんなくて」
「部屋の中だから服、なくても大丈夫じゃない?」
「そ、それは……いえ、さすがにダメです」
そう言って、俺はもう一度風呂場へ戻った。
そして、少し冷えた体を温めようと再び湯船に浸かる。
先輩、もしかして極度の天然なのか?
確かに部屋の中でどんな格好をしていても自由だろうけど、ここは他人の部屋だ。
しかも女性の、俺の大好きな先輩の部屋。
そんなところで裸のままでいたらさすがに気がおかしくなりそうだ。
「……でも、こっからどうしたらいいんだ?」
洗濯が終わるまでここからは出られないし。
服が乾いてもやっぱり靴はないし。
ていうかいつまでも風呂場を占拠していたら先輩の邪魔だし、それにのぼせてしまいそうだ。
「……んー」
じっと考えてみても、何も策が見当たらない。
そして、
「染谷君、いつまでお風呂入るの?」
先輩の声がした。
しかしさっきより近くから。
磨りガラス越しに、人影が見える。
「せ、先輩?」
「ねえ、いつまで入ってるの?」
「す、すみません! あの、先輩待たせてますよね? ええと、と、とりあえず出ますのでそこを」
「服、ないと困るの?」
「え?」
「服がないから、出てこないのかなって。困ってる?」
「……はい。さすがに恥ずかしいので」
「……わかった」
静かに先輩はどこかへ行ってしまった。
で、どうなるんだろうとそのまま待っているとすぐに先輩が戻ってきた。
「ここ、着替えおいておくから」
「え、もう乾いたんですか?」
「ううん、お父さんが置いて行った着替えあるから。ジャージだけど、いい?」
「それはまあ、大丈夫ですけど」
「そ。うん、じゃあ、置いておくから早く出てきてね」
先輩はそう言って再びその場を去った。
俺は、少し間を開けてから風呂を出る。
すると、綺麗に畳まれた、黒いジャージが脱衣所に置かれていた。
これが先輩のお父さんの服、か。
でも、本当にそうか? もしかして、先輩の元カレとかが置いてった……いや、それならそれで、隠す理由なんてないもんな。
でも、服があって助かった。
最悪、これを借りて帰ろう。
恐る恐る袖を通すと、ふわっと甘い香りに包まれる。
そして服のサイズはちょうどいい。
「なんだろう……先輩みたいな香りがするけど。いや、先輩の親のだから、同じ洗剤でも使ってるのかな」
なんとなく、先輩に抱きしめられているような気持ちになる。
もちろんこんな妄想は口にすれば気持ち悪いだろうし、それに、あくまで男の人の服を借りて着ているだけだ。
「……さてと、先輩もお風呂入りたいだろうし、さっさと帰らないとな」
あくまで紳士的に。
先輩の前で理性を失うべからず。
そう決めて、俺は部屋へ戻る。
♡
「……ドキドキ」
やっぱり服は着ていないと恥ずかしかったんだ。
いいのに、別に。
でも、染谷君が嫌がることをしたらいけないもんね。
だから、こんなこともあろうかとちゃんと準備しておいてよかった。
さっきでかけた時に、染谷君のためにジャージを買ってきててよかった。
部屋着、いるって言われた時のために用意しててよかった。
それに。
「さっきまで私がずっと身につけてあたためておいたからね。ぬくぬくしてるよ」
私を包んでいた服が彼を包む。
私が、彼を包んでるみたい。
気づかれないように、ちゃんと彼を囲んでおかないと。
もう、あと数時間もするころには私でいっぱいにしてあげるから。
だから早くお風呂出てきてね。
私に包まれて、こっちにおいで。
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