お願い

「はあ……」


 自宅に戻るとそのまま二階にある自室に篭った。


 平凡な一軒家の二階には俺の部屋しかなく、窓を開けても隣の家の屋根が見えるだけ。


 そんな見慣れた景色を見てももちろん気分は落ち着かず、そのままベットに寝そべる。


「せっかく先輩の家に招いてもらったのになあ」

 

 千載一遇のチャンスを逃したかもしれない。

 あの場でいつもの調子で押せたら……いや、それでも先輩は振り向くとは思えないけど。


 でも、今よりは仲良くなれる可能性だってあったはずだ。

 それを俺は勝手に卑屈になって、コーヒーの礼も言わずに逃げるように帰ってしまった。


 最低だな……。

 もう、先輩のことは諦めた方がいいのかな。


「元々、俺には縁のない人なんだよな」


 氷女乃凍花。

 あんな美人が俺みたいな年下のなんの取り柄もない奴に振り向いてくれるはずないもんな。


 好きなだけじゃ、付き合えない。

 わかってたことだけど、現実ってきついな。


「いつきー、帰ってるのー?」


 一階から母さんの声が聞こえた。

 仕事から帰ってきたのか。

 どうせいつものように先に風呂入れってことだろう。

 

「いいから先入っててくれよー」

「何の話よ。お客さんよー」

「……客?」


 どうやら俺を訪ねて誰かが家にやってきたようだ。

 しかし誰が? 

 学校で話す程度の友人はほどほどにいるが、家に遊びに来るほど仲のいいやつなんていないんだけど。


「はーい」


 考えても仕方ないのでとりあえず重い腰をあげて部屋を出て階段を降りると、母さんが玄関の前に立っていた。

 なぜかニヤニヤしている。


「何だよ母さん、いいことでもあったの?」

「まあいいことといえばそうかもね。なによ、あんたも隅に置けないわね」

「何の話?」

「まあまあいいから。私は部屋にいるからゆっくりしてらっしゃい」


 そう言って母さんは奥に。

 で、玄関の方を見ると磨りガラスの向こうに人影が見えた。

 女性? いや、誰だよまじで。


「はい……え?」

「こんばんは」

「ど、どうして……」


 無愛想に扉を開けると、そこに立っていたのは氷女乃先輩だった。

 いつもの制服姿ではなく、薄手のニットにジーンズ。

 その見慣れない姿に胸がキュンと締め付けられた。


「おうち、近くなんだね」

「え、ええと……あの、どうしてここに?」

「表札を見てもしかしてと思って」

「あ、ああそういうことですか……じゃなくてなんで俺の家に?」

「お礼、伝えてなかったから」

「礼?」

「お部屋、片付けてくれたから。あと、汚い部屋で気分を害したならごめんなさい」


 スッと先輩は小さな頭を下げると、ふわっと長い髪が垂れて甘い香りが玄関先に広がる。

 その香りに頭をくらくらさせながらも、俺は必死に渇いた口を動かす。


「そ、そんな謝らないでください。俺こそ、何も言わずに帰ってしまってすみません」

「それはいいけど。それより、ずっとここで立ち話する?」

「え?」

「家、お邪魔してもいい?」


 耳を疑う一言だった。

 俺は頭の中が真っ白になりかけながらも、玄関先に立つ先輩の首を傾げる仕草にハッとなって、反射的に「どうぞ」と言ってしまった。


 で、先輩は無言で家の中に。

 靴を脱ぐとそのまま奥へ行こうとして、そして足を止めて「ねえ、染谷君の部屋はどこ?」と聞かれてまた俺は冷静さを失う。

 

 で、その後のことはよく覚えていない。 

 気がつけば、先輩は俺の部屋にいて、俺は慌てて用意したであろうお茶を自室の真ん中にあるこたつ机に置いて目を泳がせていて。


 先輩からは甘い蜜のような香りが漂っていて、男臭い俺の部屋が彼女の匂いに包まれていき。


 ようやく意識が戻ってきたのは、先輩が「部屋、綺麗だね」と話しかけてくれた時にようやく、だった。


「え、ええまあ。綺麗というよりは、何もない部屋ですが」

「本とかも整頓されてる。几帳面なんだ」

「ま、まあ。親がなんでも自分でやれって方針の人だから」

「家事もするの?」

「そ、それなりですけど。共働きなんで親がいない時は自炊したりはしますが」


 今時共働きも珍しくないし、高校生にもなれば身の回りのことは自分でやるのが普通だと。

 自分がそうだからそんなものは当たり前だと思っていたんだけど先輩は、


「料理とかできるんだ」


 心底驚いた様子だった。

 毎日告白しても眉ひとつ動かさなかった先輩が今は目をパチクリさせている。

 俺ってよっぽど家事しない雰囲気だったのかな。


「そ、そんなに意外ですか?」


 なにより、いつも無表情な先輩が戸惑っている様子が意外すぎて俺も少し焦るように聞き返した。

 すると、先輩は首を横にふりながら「ううん、すごいなって思っただけ」と、とくにそうは思ってなさそうな固い表情でそう言ってからお茶を一口。

 で、一呼吸ついてから俺の方をみると、また質問。


「ねえ、私のお部屋、どう思った?」

「ど、どうって……一人暮らしの人の部屋って、入るの初めてだったので」

「散らかってた? 汚かった?」

「そ、それは……」


 正直な話、結構散らかっていたと思う。

 女の人の部屋に入ったことなんてあれが初めてだったけど、俺がイメージしていたものとは程遠いものだった。

 本は床に散らばって、洗濯物も籠に入ったまま。

 先輩の独特な甘い香りはしたけど、それがなければだらしない独身男性の部屋と間違えてしまいそうなそれだった。


 が、もちろんそんな率直な感想なんて言えるはずもない。

 

「べ、別に一人暮らしだとそういうものなのかなって」

「私、結構だらしないの。家事もできなくて休みの日は外食で済ませることも多いし。幻滅した?」

「そ、そんなことないですよ。俺だって一人暮らししたら多分そんな感じになるかなって思いますし」


 そう話すと、先輩は「そっか」と小さくつぶやいてから少し頷いて。


 少しだけ沈黙したあとで、お茶を飲みながら上目遣いで俺を見ながら。


 グラスを口から離して一言。


「明日、お部屋の片付けにまた来てくれる?」


 

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