第30話 若君、復活する
【SIDE 若君】
「申し訳、ございません」
いきなり腕を掴むという私の非礼に対し、なぜか謝ってくる尼。
顔を隠しているし、髪も短くなっているが、それは間違いなく鶴だった。
◇◇◇◇
鶴と離縁した後は、しばらく記憶が曖昧だ。
何をする気にもならず、動かない体を持て余し、ただ一日部屋に籠っていた。両親が毎日何かを言いに来るが、内容は全く覚えていない。
千代殿とまだ乳飲み子の虎樹丸が、人質として尾谷家に差し出されたと聞いても、何の感情も湧かなかった。
それでも、もう一度動こうと思ったのは、又七があの護り石を持ってきてくれたからだ。
「奥方様に守られた命を無駄にするのか」と泣きながら喚き散らす又七を見て、初めて申し訳ないという感情が浮かんできた。
それからは少しずつ体を動し、徐々に部屋から外に出るようにした。
左腕だけはどうにもならず、僅かに動く程度で、物を掴むことや手を上げることはとても出来そうにないが、その他は問題なく動けるようになった。
執務にも戻り、以前の通り振舞っていた、つもりだった。
だが、周りから見ると随分違っていたらしい。
「侍女も家来も、そなたが怖くて近寄れないと困っておる」
父に言われた時、一体何を言っているのかさっぱり分からなかった。
顔を見て来い、と言われ、庭の水鉢を覗き込んでみる。
……自分でも驚くほど、不健康で人相の悪い男がそこにいた。
なるほど、これは近寄り難い。
ただ、どうしようもないのだ。何の話を聞いても、面白いとも悲しいとも、腹立たしいとも思わない。
鶴がいなくなってから、感情が動くということが無くなったようだった。
水面に映る、無表情で生気の無い男から目を背け、執務に戻った。
◇◇◇◇
そんな私を見かねてか、又七がこそこそとどこかへ出掛けるようになった。
単純な又七のことだ。おそらく鶴を探しているのだろうと、容易に想像がつく。
だが、見つけたところで鶴はもう北上家の人間だ。今更取り返せる訳がないし、どうすることもできない。
私が鶴のことを考えないようにしているというのに、ある日、帰ってきた又七は完全に泣き腫らした顔だった。
それでいて表面上は明るく振舞おうとしているのだから、何か最悪の事態が起こったのであろうということは、想像に難くなかった。
それを聞くことはできなかった、というより目を背けていた。
聞いてしまったら恐らく私は狂うだろうな、とそんな予感があった。
それからしばらくして、又七が今度は陽玲寺に行こうと言い出した。
陽玲寺は、私が幼い頃、稽古が嫌になるとよく逃げ込んでは、匿って貰っていた寺だ。
なぜそのようなことを言い出したか釈然とせず、同意せずにいると、又七は力ずくで私を抱え上げ、馬に乗せた。
本気の又七の力に抗える者はいない。そのまま陽玲寺まで、引きずるように連れていかれた。
陽慶和尚は、子供の頃の記憶のまま、相変わらず遠慮も何もない御老人だった。
無理矢理連れてこられたが、陽慶和尚の遠慮のない物言いで、逆に気持ちが落ち着いてくる。
出家するのが一番良いかもしれない、という考えが頭をよぎった。
跡取りは虎樹丸がいる。今の私に後を継がせたいと思う人間は、御影家中にはおるまい。
そう思ったが、今は尼がいるからと、和尚に断られた。
意味がよく分からず、聞き返そうとするが、和尚はその尼の話をする。
――実家から逃げ、働き者で、針仕事が不得手――
和尚の袈裟に目が行く。良い生地の袈裟なのに、酷い縫い方をしているとは薄々感じていた。
ひと針ずつの幅がまちまちで、蛇行している縫い目は、見覚えがあった。
(……まさか……)
ほくそ笑むような和尚の表情を見、反射的に立ち上がり、寺の中を探す。
逃げようとする尼を捕まえ、そして見つけた。
私が望んでいた女性だった。
寺の境内だということも忘れ、思わず抱きしめてしまったが、全く後悔はない。
◇◇◇◇
落ち着いてから、鶴の話をじっくりと聞く。
鶴は深く考えていなかったようだが、北上と御影の国境からこの寺までの山中は、賊が蔓延っていて治安は相当悪い。
野生の獣も多く、無事に辿り着いたことは奇跡のようなものだ。
鶴に何かあったらと思うと血の気が引く。
私が一人でめそめそしていた時、鶴は命懸けで戦っていた。
今度こそ、手放さない。
一度この手に戻してしまった以上、もう手放すことなど考えられない。
御影家も武士の身分も捨てて、鶴と二人で逃げるという方法もあるが、それは鶴が望んでいないようだった。
ならば、堂々と鶴を迎え入れるよう、状況を変えるしかない。
厳しい道のりだと思うが、鶴を手に入れるためなら、やってやろうという気持ちが沸々と湧いてくる。
「待っていてくれるか」という私の問いに、応えてくれた鶴は、輝くように美しかった。
◇◇◇◇
御影の屋敷に戻ると、これからの方策について考える。
まず、北上と尾谷の戦いが続く限り、北上の娘である鶴を、御影家に迎え入れることは不可能だ。
鶴は知らないようだったが、病床に就いていた北上義泰殿は、三か月程前に亡くなった。
北上は義泰公を失ってから、ますます弱体化しており、最早滅亡は避けられまい。
当家の領内にある陽玲寺に匿われている以上、鶴が実家滅亡の火の粉を浴びることは無いだろう。
尾谷に付いている我らは、早急に北上家を滅ぼす。鶴を北上家の鎖から解放し、別の出自をこじつけて、もう一度妻として迎える。
駄目だと言われたら、父でも尾谷でも切り殺そう。
そう決意して、早速、北上に従属する豪族を頭に浮かべる。
……さて、どこから切り崩すか……
夢中で策を練っていて気付かなかったが、両親と又七は私の部屋を覗いていたらしい。
「薄暗い部屋、あまりに悪い顔色で、突然ほくそ笑む姿に、我が子ながら恐ろしさしか感じなかった」と、後に母は語った。
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