第29話 姫君、約束を交わす

 私の名を、泰久様の声が呼ぶ。

 もう二度とないと思っていた。嬉しさと、混乱と、そして少しの悲しさと、感情がごちゃ混ぜになり、顔が上げられない。


「鶴……鶴なのか……?」


 手首は痛いくらい、強く掴まれている。


「……申し訳、ございません……」


 謝罪が口からこぼれた。何に対するものか、自分でも分からない。

 その瞬間、捕まれていた手が離される。そのまま背に腕が回され、泰久様の胸に引き寄せられた。右手一本とは思えない力で、泰久様に抱き締められる。


「鶴……良かった……」


 泰久様の口から出た言葉は、非難でも疑問でもない。安堵の言葉だった。

 私も、もう堪えきれなかった。両腕を泰久様の背に回し、力一杯抱きしめる。

 もう二度と離したくなかった。


 そのまましばらく、抱き合ったまま泣き続けた。



「……寺の境内で、尼を相手に何をしてるんじゃ」

 遠くで、陽慶和尚の面白がっている声が聞こえる。


「和尚、御勘弁下さい。今しばらく」

 ……こりゃ、熊殿は泣いてるな。


「まさか花詠殿が、御影の若殿の奥方だったとは……」

「以前檀家の方から聞きました!若殿は奥方様を大事にされておられると」

「ああ、あの若殿のご寵愛を受けている姫なのだから、どれ程の美姫なのだろうと思っていたが……」

「花詠尼様は明るくて素敵な方ですから、若殿はそこがお好きなんでしょう!」


 哲蓮殿と淳念殿の声は相変わらずでかい。

 というか、なかなか失礼なことを言ってないか?淳念殿もフォローになっていないよ。


 明らかに全員に見られている。

 冷静に周りの様子を把握すると途端に恥ずかしくなり、慌てて離れようとする。

 が、泰久様が全然離してくれない。


「あの、泰久様……離していただけますか?」

「なぜ?」


 なぜじゃないよ!っと心の中で突っ込む。


「いや、あの、恥ずかしいので……」


 泰久様はそこで初めて状況に気付いたらしい。

 しぶしぶ、といった様子ではあるが、ようやく離してくれた。


「満足したか、御影の小僧よ」


 泰久様は姿勢を正し、和尚に深々と頭を下げる。


「陽慶和尚……鶴を匿ってくださり、誠にありがたく……」

「なあに。この娘っこが勝手に転がり込んできただけで、わしは何もしておらぬよ。まあ、御影家からの寄附金はたんまり頼むぞ」


 和尚は相変わらずだった。


 しばらく二人で話し合うがよい、と和尚は寺の一室を貸してくれた。


「ここは寺の中だからな。いかがわしいことはするでないぞ」と言い、いつもの笑いで去っていく和尚に、何だか脱力した。


 泰久様に促され、これまでのことを少しずつ話す。

 あらためて話してみると、我ながらとんでもない無鉄砲さだなと感心する。泰久様は時々顔をしかめたり、溜息をついたりしていたが、口を挟まず最後まで聞いてくれた。


 そして、私の話が終わると、ポツリと呟いた。


「鶴は、凄いな」

「ええ?何がですか?」


 呆れられるとは思ったが、褒められるとは思わなかったので、思わず聞き返す。


「鶴は、望まぬ状況に追いやられても、自分の力で道を切り開いている。おなごの身で、どんな苦境でも戦っている。すぐに諦めて、目の前の苦しみから逃げてばかりいる私とは、大違いだ」


 伏し目がちな泰久様に、若干イラっとする。

 泰久様の右手を両手で握り、泰久様の顔を覗き込む。


「私が頑張ろうと思ったのは、泰久様がいらっしゃったからですよ」

「え?」

「泰久様が生きていてくださったから、私も、同じ世で生きていきたいと、そう思ったからです。泰久様がいてくださるだけで、たとえお傍にいられなくても、私は幸せです」


 心から思っていることを伝えた。泰久様は、私の肩の辺りに頭を軽くうずめる。

 しばらくすると、目を真っ赤にした泰久様が顔を上げた。


「ならば、私ももう一度戦うことにする。鶴と一緒に居られるように」

「それは……」


 それは、無理じゃないだろうか。家が、情勢が、時代が許さないだろう。

 私の心を読んだかのように、泰久様は続けた。


「無論、今の状況では無理だろう。だが、今のこの争いが収まり状況が変われば、そなたをまた迎え入れることも、できるかもしれない。駄目なら駄目で、その時は私も御影を捨てる」


 簡単に言い切った泰久様を、慌てて諫めようとするが、泰久様は私に口を挟ませず、問いかけてきた。


「だから、時間はかかるかもしれないが……待っていてくれないか?必ず、迎えに来る」


 真っすぐ私を見つめる彼に、答えは一つしかなかった。


「はい、鶴はいつまででも待っております。ですから、必ず生きて、迎えに来てくださいませ」



 お帰りになる泰久様と熊殿の背を見送る。

 来た時とは違い、泰久様の足取りは随分しっかりしている。


「流石わし。見事に腑抜けの若殿を治したぞ」


 ご満悦気味の陽慶和尚に、気になっていたことを聞いてみる。


「陽慶様、いつから私が泰久様の妻だと気づいておられたのですか?」


 あの誘導の仕方は流石に偶然ではないだろう。泰久様に気づかせるきっかけが、私のお裁縫というのは甚だ不本意ではあるが、なぜ和尚は、私が泰久様の妻だった者だと気づいたのだろう。

 御影の嫁だった時も、陽慶和尚とは会ったこともない。


「わし位徳の高い僧侶ともなると、色々と見えるものがあるのじゃよ」


 フォフォフォと更に笑い、和尚は本堂に戻っていった。

 本当に飄々として掴みどころのないお坊様だ。

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