第24話 若君、慟哭す
【SIDE 若君】
鶴が、私の名を呼んでいる。
呼ばれる度に、そちらに向かおうと思うのに、体は黒い沼に囚われ、全く動かない。
必死に足掻き、一度だけ、鶴と会えた気がしたが、すぐにまた、沼に引きずり込まれる。
もがいても、もがいても、抜けだすことができない。
そんな夢を何度も見た。
◇◇◇◇
ふと気が付くと、自分の身体の感覚を感じた。ごく僅かだが力を入れることができる気がする。
それでも鉛のように重い上瞼を、ノロノロと開かせると、眩しい光が差し込み、思わず目を再び閉じそうになってしまう。まだ霞む目に、天井の木目が映る。
体を動かそうと手足に力を入れようとすると、全身に激痛に走った。思わずうめき声が漏れた。
「若殿⁉若殿が目を覚まされましたぞ!」
一番初めに気が付いたのは、見覚えのある年嵩の侍女だった。すぐに慌ただしい足音がし、母上が飛び込んでくる。
「与三郎!気が付いたか?」
「母上……私は何を……?」
「そなたは戦で大怪我を負って、もう五日も意識が戻らなかったのです」
そうだ。尾谷との戦で殿をしていたのだった。最後に敵兵に囲まれていたのは覚えている。
あの状況で生きて帰っているとは、何とまあ悪運が強い。
少し話すだけで、とてつもなく体力を消耗している。喉から出る声も、自分のものではないかのようにしゃがれている。油断すると、再び眠りに誘われそうだ。
口に白湯を含まされながら、一つ、母に尋ねた。
「鶴は、何処ですか?」
「……鶴殿は、今は休んでおられる。そなたも、もう少し体を休ませなさい」
母の歯切れの悪さが気になったが、再度問いかける力が沸かず、また意識が遠のいていった。
次の目覚めは、それほど時間は経っていないようだった。
日が傾き始めており、父上の小姓をしている少年と、先ほどの侍女が部屋にいた。
私が目を開けたことに気づくと、侍女が素早く医師を連れてくる。
医師は左肩の包帯を交換するが、少し動かされるだけで、声が出そうなほどの激痛が走った。
だが、肩の痛みは感じるものの、その先の左腕には、全く感覚が無い。
医師の処置が終わると、別の侍女が重湯のようなものを運んでくるが、私の求めている人は、いつまでたっても現れない。
少しずつ動き出した頭が、最悪の予感を弾き出していた。
傍らの少年に声をかける。
「……妻が、鶴が何処にいるか、知らぬか?」
「そ、某は、存じ上げませぬ」
年若い少年は、分かりやすいくらい動揺していた。
その様子を見て、血の気が引いていく感覚がした。
「父上にお会いしたい」
全く力の入らない体で起き上がろうとすると、侍女が抑え込もうと、慌てて近寄って来た。
「若殿、動いてはなりません!傷が開きますぞ!」
「ならば、父上にお会いしたいと伝えよ!」
声を荒らげると、少年は青ざめ、跳ねるように飛び出していった。
◇◇◇◇
「与三郎、目を覚ましたか。本当に良かった」
間もなく、父上が現れた。
明るく振舞っているが、笑顔が引き攣っている。この父は、武家の当主でありながら、腹芸が全くできない。嘘を吐くことも不得意だということは、昔からよく知っている。
「御心配をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。ところで、鶴の姿が見当たらぬのですが、御存じありませんでしょうか」
いきなり本題に入ると、父上は目を逸らし、張り付けた笑顔はあっという間に剥がれ落ちる。しばらく逡巡しているようだったが、すぐに深刻な顔で私の目を見つめてきた。
「……与三郎よ、我らは尾谷と同盟を結ぶことにした」
その返答は以前から、私も想定していたことではあった。御影家を守っていくためには、最善の選択だと。
だが、その時、北上家の娘である鶴をどうすれば良いのか、考えることができず、目を背けていたことでもあった。
「……鶴をどうしたのですか?」
父はしばらくごにょごにょと口を動かしていたが、やがて意を決したようにはっきりと言い切った。
「そなたと離縁してもらった。鶴殿は、昨日北上家にお返しした」
――察していた内容だった。
だが、どうしようもない怒りが沸き上がる。胸が掻き毟りたくなるほど熱く、苦しい。
「私は、承知しておりません‼」
思わず怒鳴り声を上げた。
「当主であるわしが決めたのだ。もうどうにもならん‼」
父上も怒鳴り返してくる。
我が父にこれ程の殺意を覚えたのは、初めてだった。怒りを抑えきれず、何とか父上を殴ろうと起き上がる。
あれ程、体中が痛かったのに、全く気にならない。鉛のように重かった体が不思議と持ち上がる。
「鶴は!鶴は私の妻だ‼」
「よせ!傷が開く!」
父上の怒鳴り声に、外に控えていた家来が飛び込んでくる。家来数人がかりで、布団に抑え込まれた。
ひたすら喚き散らしたが、途中からは、自分でも何を言っているか分からない叫び声が、喉から出ていた。
――自分に対する怒りを、父に八つ当たりしているだけだ――
そんなことは重々分かっている。
彼女が一番苦しい立場にある時に、情けなく寝込んでいた。
妻を守りたいなどと、偉そうなことを言っておいて、結局何の役にも立たない、どうしようもない自分が、殺してやりたいほど憎い。
最早御影家も、北上家も、何もかもどうでもよかった。
ただ鶴を返して欲しい、それしか考えられなかった。
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