大雪 18時

――――――――――――――――

(日暈が撮影した、絵画が盗まれる映像)

 アトリエ内の、掃除用具入れの中から撮影された映像。日暈が自身の所有物であるカメラで撮影したもので、その視点は玄関方角の定点である。

 扉上部の通気口からレンズを覗かせて撮ったため、上下に暗い領域があり、映された景色は横に長細い。

 左方にはアトリエの奥へ続く扉。右方に業務用の巨大な冷蔵庫があり、それらの中間にこちらを向く絵画のキャンバスがある。キャンバスが大きいため、玄関方角の窓は映っていない。

 冒頭。日暈の小さな呼吸音と、スマートフォンが掃除用具入れの扉に接触する音がする。

 それから九秒後。複数人がアトリエに入ってきた。合計で十人。いずれも油島会の構成員であり、身元は判明している。先頭の男、故・初富(はつとみ)が、背後の九人へ次のように指示を出す。

「四人、奥まで見てこい。誰かいたら、殺して燃やせ。ちゃんと傷口から燃やせよ。骨は切るな。残りは運び出せ」

 指示通り、四人が画面左側の扉を通って行き、残りの五人が絵画を運び出す作業に入った。

 指示から二十六秒後。四人が帰ってきて、その内のひとりが初富と、次のような会話をする。

「誰もいません。ちょうど、出掛けたタイミングだったようです」

「ちゃんと部屋、全部調べたんだろうな」

「はい。トイレにもいないんで、間違いないと思います」

「ああ。じゃあ作業、手伝え。二枚あるからな。記事の通りだ」

 指示から七十秒程度で、画面中央にあったキャンバスと、アトリエの奥にあったキャンバスが運び出される。二枚目の絵画と共に、構成員たちもアトリエから出ていく。

 初富がテーブルの椅子に置かれた日暈のバッグに気付く。画面右手前、視点から約二メートルの位置でバッグをあさり、いくつかの金品を窃盗する。盗んだものは以下の通り。

・現金一万三千円

・免許証

・保険証

・社員証(諸星新聞社)

 窃盗のあと、男もアトリエの外へ逃亡。それと同時に、視点が画面中心へズームインする。キャンバスが無くなったことで、窓から外の様子が見てとれる。構成員が乗ってきたと思われる黒のバンに、絵画を積み込む作業をしている。車のナンバーは映っていない。

 それから二十秒後。車が出発する。侵入から百十三秒である。

――――――――――――――――


 夕暮れ。少し暖まった空気を冷やす夜がやって来て、雪景色が闇に溶ける時間。


 二つの県境をまたいで来たのは、とある地方の一軒家だった。


 広い和風の豪邸は他の建築物の存在を許さないがごとく孤立し、また他者の侵入を拒む塀が広大な土地を囲んで切り取っていた。


 その門の前に、バンが滑り込むように来て、前のめりに停車した。


「では、計画の通りに」


 到着するのとほとんど同時に降りる小望月の背へ、日暈が声を掛けた。後部ドアを閉めるとき、彼はただ「行ってくる」とだけ呟いた。


 真っ暗な周囲には生活の明かりなどほとんど無く、この土地の閑静さは人がいないためにあった。


 しかし過疎化の進んだ集落で人がほとんど来ない場所ということもあって、ただのバン一台でも相当に目立つ。通報される可能性は都会よりはるかに高い。


 速やかに火葬せねばならないと壺を抱えた黒装束が、薄い轍を辿って雪が泥まみれで固まる道を往く。


 他者への拒絶を示すはずの門は開いており、あっさりと通れた。過疎化の進んだ村などでは全員が顔見知りであるため扉の施錠をしないことがある。しかしこの家に限っては、そうした理由から門が開いているのではない。この家で盗みを働くという恐ろしさ。皆がそれを知ってのことだ。


 指定暴力団湯島会先代会長、油島邸。


 ただし今は家主が出払っている。日暈の調査では月に二度、世話人と共に出掛けて数日後に帰ってくるという習慣があった。今日がちょうど出発の日だった。


 しかし――用心と出迎えのためだろう――一人の世話人が家に残り、帰りを待っているのだという。世話人といっても暴力団の世話人だ。戦い慣れた者である可能性があるので、鳴金以上に警戒せねばならない。


 門を抜けると、左手に広々とした庭に寝室である離れが独立しており、正面には庭を突っ切る渡り廊下が、右手には巨大な母屋があった。倉庫や車庫は母屋の更に奥にあって、寝室からの眺めに無駄が無くなるよう建てられているようだ。


 小望月は真っ直ぐ母屋へ向かう。絵画がある可能性が最も高いのは応接間だ。晦の身長ほどはある絵画を飾るのに十分なスペースがあり、かつ眺めるのに適した部屋や方角で考えると、そこか寝室しかない。


 庭は枯山水のような砂利場と、芝生と、池とが混在している。母屋の周囲は芝生になっているので、足音を消して回り込めそうだ。周囲を塀で囲われているので外から見られる心配もない。


 ともあれ世話人を攻略しないことには何もできない。外から様子を眺めつつ何処に居るのか探る。暗いこともあり、電気が付いているか否かで在不在の判別はできた。玄関から離れ側を覗き見る。すぐ手前の壁まで母屋の縁側が続き、いくつかの襖があって、もっとも奥の明かりが付いている。あそこは台所か、浴室かのどちらかだ。


 それを認めて裏手、車庫の方角へ向かった。離れの方角は母屋からも離れからも見えてしまうので、台所の裏口から侵入して不意を突こう。小望月は行動を開始した。


 車庫の裏へ回り、暗いトイレの窓、暗い世話人の寝室の窓、明るい浴室の窓の下を抜け、裏口である黒フレームのガラスドアの横に立つ。……明かりは付いているが、人の気配はしない。ゆっくりとノブを下ろすと、鍵も開いているようだった。


 中に入って右手に炊事場、正面に襖。左手に風呂へ続く廊下があった。床は三和土だ。やはりここにはおらず、風呂場へ続く廊下の明かりが付いている。きっと風呂を洗っているのだろう。三和土から上がって、足音を立てないよう慎重に歩を進める。


 脱衣所に着いた。ここは壁や床、棚まで全て木でできており、棚には折り畳みの携帯電話が置いてあった。世話人のものだろう。曇りガラスの引き戸の奥では鼻歌が響いていた。


 ちょうどこのタイミングで来られたのは僥倖だった。逃げ場も無く抵抗もできない上、通報する手段もない。風呂を洗うのに武器を持ち込むこともないだろう。相手が丸腰なら、一方的に制圧できる。


 引き戸を開ける。中は白い石貼りの広い空間だった。ここでならこの木造建築の中でも絵を燃やせる。


 中肉中背の老人がひとり。ちょうど風呂釜を磨いていたところらしい。小望月を見るなり腰を抜かして尻餅をついた。彼の目に映るのは真っ黒な化け物なのだから当然の反応だった。


「ひ――」


 黙ったまま近づくと、小さく縮こまってしまう。


「ひぃいい……よしておくれよぅ。儂ぁただの世話係じゃ。…………乱暴はよしておくれよぅ……後生じゃよぅ……」


「絵画を探している。邪魔さえしなければお前を攻撃しない。約束しろ」


「心臓が弱いんじゃよう……。後生じゃよう……」


 小望月の声が全く聞こえていないようだった。結束バンドを一つ取り、風呂釜へ投げ入れた。ひぃと、一際大きな悲鳴。


「両足を縛れ。それだけでいい」


「う……う……。後生じゃ……お願いじゃよぅ……」


 怯える顔が、また小望月の願望を呼び起こす。とっさに左腕の内側を掴んで傷を刺激し、鋭い痛みで死という希望を追い出した。


「縛れば殺さない。約束だ」


 老人はやっと頷いて、両の足首を縛った。これでいいだろう。少し腰の曲がる歳だ。もっと自由を奪えば、不安から心臓に負荷がかかるだろう。必要もないのに、人を殺す気などない。約束したわけではないし、俺の望みということもないのだが。


 …………ないのであれば、何故だ。


 約束は尊厳より、道徳より、法律よりも優先されるべきことだ。この老人の生は邪魔なのだから、生かす必要はない。この男を殺さない理由はなんだ。


 俺は――――何をしているんだ。


 自分でもよく分からなかった。この男を焼いて殺せば話が早かったのだ。この家ならしばらくは見つからないし、拘束などする必要もない。何故、そうしないのか。どうして殺さないと約束をしてしまったんだ。迷いが足枷を作ってしまった。


 ――いや。迷っている場合ではない。小望月は振り切るように踵を返し、携帯電話を取って台所へ戻った。そのまま通り抜けて抜けて廊下へ、いくつかの襖を通り越して、応接間へ。


 中は妙に明るい緑のカーペットの洋室で、高級なソファが小さな机を挟んで向かい合っている。酒の仕舞ってあるラックや、麻雀卓といった趣味の物や、いくつかの絵画やオブジェや観葉植物が置いてあった。そのどれにも、違和感があるほどに白色が使われていた。


 だが絵は無かった。この部屋に飾られた絵画はどれも小さなもので、目的のキャンバスの大きさの物がない。ならば寝室に飾っているのか。


 引き返し、廊下を抜けて渡り廊下を進み、襖で囲われた離れへ。襖の一つを開け、中へ入った。畳張りの部屋で、暖房がわりの囲炉裏が部屋の中心にある。この部屋もやはり、自然さなど無視した白色が混ざっていた。


 ……無い。他の場所だろうか。胸にざわめく焦燥を抑え、夜の凍った風を浴びながら廊下を渡り、母屋のあらゆる部屋を巡り、倉庫や車庫、果ては便所まで覗いた。


 どこにも無い。発見したことといえば、油島の生活圏には不自然な白色が多いことぐらいだ。


 調査が間違っていたのか。どこで間違えた。


 焦る足取りで老人の元へ戻ると、風呂釜の中で身を丸めたままだった。


「絵画はどこだ」


「絵画ぁ……?」


「最近、油島は絵画を手に入れたはずだ。晦の絵。大きな絵画だ」


「…………そうじゃったな……そんなん……あるっちゅう……」


 ひどく曖昧で、眠たげとも取れる声だった。


「どこだ」


「………………」


「絵画は、どこだ」


「…………別荘じゃった……かなぁ……。業者ぁ……任せたんで……」


 別荘があるのか。


 そうか。それが湯島の出掛ける先か。


「それは――」


 どこにある。そう聞こうとした途端に、老人の力が抜けた。


 洗いかけの広い浴槽へ滑るように沈んで、ぐったりとしたまま動かなくなった。


 ――――不味い。


 首に指を当てる。ごく僅かに、弱々しい脈を感じる。まだ生きているが、救急車を呼ばないと死ぬだろう。


 横倒しにして回復体位にし、身体が冷えないようシャワーを浴槽の壁に当てて温水が身体の周りを流れるようにした。


 部屋を戻りながら彼の携帯を開き、一一と押す。あとは九。


 小望月は、それを押せないでいた。当然、呼べば人が来る。そうなれば晦の約束を守れなくなる確率がより高くなる。どうせ情報源としても役に立たない。


 殺さないとは約束したが、見捨てないとは約束していない。今度こそ選択を間違えないで済むのだ。


 だが。


 小望月は九を押した。


「……救急だ。……場所は――」


 必要な情報を伝えながら、客間や広間を探る。湯島の別荘。その情報が欲しい。何でもいいんだ。土地の権利書でも。不動産との契約書でも。


 しかし何も見つからない。


 自分の名前や電話番号を聞かれたが無視し、必要と思われる情報だけを伝えて電話を切った。途中で電話が切れた場合でも、通報者や患者の無事が確かめられないため、救急車はやって来る。


 何か、無いのか。


 世話人の寝室へ向かう。畳張りで物が整頓された小綺麗な部屋だった。ふと、背が高く一つ一つの引き出しの幅が狭いタンスが目につく。小物や書類を入れるのにちょうど良さそうだ。


 小望月は引き出しを下から乱暴に引っ張り出し、中の物を床へぶちまけていく。


 ――――あれは。


 手を止め、一枚の紙を拾った。手書きのメモで、住所と『工事後搬入』と書いてある。業者に任せたというのは、絵を飾る場所を作る工事や、絵を持ち込んで飾る作業を指しているのか。これがそのメモ書きである可能性は高い。


 ポケットへメモを突っ込み、他の引き出しも見た。だが目ぼしいものはない。素早く身を翻して、風呂から玄関までの道順で扉を開け放し、走ってバンへ。後ろから乗り込んで扉を閉める。


「お帰りなさい……」


 運転席から、弱々しい声だけがした。


「ここにはない」


「えっ!」


 シートから、目を見開いた顔が生える。


「絵画は別の場所に移されていた。車を出してくれ。油島の別荘へ向かう」


「それじゃあ住所を……」


「その暇はない。救急車が来る。まずは急いで逃げよう」


「きゅ、救急車ですか?」


 訳がわからないという様子だが、手早くエンジンを掛けてサイドブレーキを外し、車を出発させた。


「使用人の心臓が悪かった。俺に驚いたんだ」


「それは……別荘の場所を聞き出すときにですか」


「そうだ。だが言わなかった。その前に倒れた」


「……なら、どうやって知ったんですか」


 小望月は運転席と助手席の間から身を乗り出し、握りしめられたメモを広げる。


「これしかなかった」


「住所しか書いてませんけど……」


 住所の位置をスマートフォンの地図アプリで調べる。場所は山の中のようだった。その予想到着時間から法定速度を守らないということを差し引いて考えると、およそ五時間程度かかるだろう。今が、六時と数分。


「そうだ。もしこの住所が違えば、確実に間に合わない」


 村を戻っていく途中、路地で救急車をやり過ごし、国道へ出た。


 不安を振り切ることのできない速度で高速道路に乗り、しばらく走る。


「日暈さん」


「はい」


「次のパーキングで交代だ」


「休憩している暇なんかありません」


「またぶっ通しで走る気か。次は五時間だぞ」


「走り慣れましたもん。小望月さんこそ休んでください。絶対に失敗できません」


「事故でも起こしたら……」


 後部座席から助手席に乗り換えようとして、日暈の向こうのサイドミラーがふと目についた。日暈も、バックミラーで背後の気配に気付いたらしい。


 パトカーが、少し離れた位置に居る。サイレンこそ鳴らしていないものの、小望月たちのバンを追っているように見えた。


「――あれは」


「ええ。もしかしたら、私たちを狙ってますね。鳴金さんが喋ったか、さっきの村で目撃した人が通報したか、ですかね?」


 小望月はバンのバックドアへ隠れるように、身を伏せた。


「これじゃ、速度違反はできないです」


「向こうはそれを待っているのかもしれない。ナンバーまでは割れてないんだろうな。だから様子見をしている。あるいはこっちの正体をもう知っているが、こちらが暴走するのを恐れているか」


「……ふふふ」


 バックミラー越しの日暈の不敵な笑みに、小望月は眉を潜めた。


「もし後者だったら任せてください。映画みたいなカーチェイス、夢だったんです」


 日暈はハンドルを切り、サービスエリアへ入った。


「なので。ガソリン入れますね」


 どうやら本気らしい。


「休め。疲れすぎで判断が鈍っている」


「鈍ってません。本気です。大丈夫ですよ、全部小望月さんにやれって言われたって言いますもん」


「……分かった。だが事故は起こすな。晦との約束が最優先だ」


 ガソリンスタンドに入る。小望月はパトカーまで一緒に入ってきたのを窓から覗き、身を伏せた。ハイオクのノズルから燃料が噴射される音だけが車内に響く。


 窓の隅にスマートフォンのカメラだけを覗かせ、カメラモードで外の様子を見た。二人の警官もガソリンを入れているところで、バンをチラと見ては話し合っている。


 いつ来る。日暈はこの場を誤魔化せるのか。バンの中で響く給油の音が、ガコンと鳴って収まった。数呼吸もしない内に手早く支払いを済ませた日暈が戻ってきて、キーを回した。


「――お待たせしました。行きましょう」


 バンが発車した。後ろでは、警官たちがやや慌てて支払っているのが見えた。


「満タンにする必要はないですからね。十分なだけ入れて終わりました。法定速度もきっちり守ってますから問題ないですよね」


「ああ。そうだな」


 車が本道に乗ったところで、小望月は消防服を半端に脱いだ。どっと疲れが出て、今まで感じていなかった熱が襲ってきた。身体の中が寒いというのに、表面ばかりが、皮膚ばかりが熱かった。


「こ、小望月さん……?」


 日暈がひきつった声を出した。どうしたのかと思えば、小望月の左腕の袖に血がべっとりと滲んでいた。それをバックミラー越しに見たらしい。


「血が……すごく出てますよ? 治療セット、ありましたよねっ?」


「気にするな。そう、深い傷じゃない」


 日暈が眉を潜めた。いつもの小望月ならすぐにでも処置してしまうはず。乗り込んだ後に怪我をしたというならば、どうして車に戻ってきてから応急手当をしないのだろう。


 そもそも、あの消防服は破れも切れもしていない。ならば――以前から腕が切れていたのではないか。


「いつからですか」


「…………」


「たまに、左腕を抑えてましたよね」


「…………」


「……見せてください」


 返事はない。だがもう、疑いは確信に変わっていた。彼は、リストカットをしているんだ。


「小望月さん。その傷、見せてください」


 運転席の後ろでごそごそと物音がし、袖をめくった左腕が背後から伸びてくる。


 傷。


 おぞましい数の傷が、肘の内側と手首の間にひしめき合っている。もはや切れる場所がないほどだった。


 日暈は、声すら出せなかった。わずか数ヶ所にリストカットの痕跡があるくらいだと思っていたが、その想像を遥かに越えた。


 袖を赤く染める血の量が、むしろ少なすぎると思えるくらいだった。


「……それ……なんですか……」


「……リストカットだ」


「そうじゃないですよ! そんな……本気で死んじゃおうとしてたんですか」


「死ぬ気はない。死なないために切った」


「……死なないため?」


 日暈は不安の顔で小望月を、バックミラー越しに見つめた。気が動転して、すぐにはどういう意味だかが分からなかった。


「死にたいと思ったら、あえて死に近付く。それでしばらくは収まる」


 この痛みが、この苦痛が、命をこの世に繋ぎ止める楔だ。小望月にとっての、お守りなのだ。


「でも……そんなに切ったら……」


「命は、約束を守るまでの間だけ持てばいい。この話は終わりだ」

 小望月は有無を言わさぬような断言をして、治療セットに手を伸ばした。


 そうして手当を始めた彼を見て、日暈はひどく胸を締め付けられていた。


 リストカットをすることが彼の希死念慮を止める手段だったのであれば――。


 この二週間にいったい彼は、どれだけ死にたいと思ったのだろうか、と。




 暗い。薄明かりの空間。色彩はなく、目に見えるのは輪郭だけだった。


 硬い床の上。


 体温を感じる。


 身体の熱ではない。


 晦と俺の間にこもった熱だった。


 晦は、俺の腕で眠っている。


 その顔は青い。


 その身体は冷たい。


 寝顔の奥で、燃焼しているんだ。


 もうじき燃え尽きる。


 このまま――――。


 ……小望月さん。


 目が覚めた。今のは、日暈の声か。あの熱は、うつ伏せた姿勢が上着の中で作った、ただの蟠りだった。


 夢、だったか。


「小望月さんっ」


「……なんだ」


「カメラです」


 日暈は少し慌てていた。


「ああ。すまない」


 小望月は起き上がって、火炎放射器を手に取り、座席の間から少しだけ乗り出して日暈へ向けようとした。こうしてわざと速度超過することで高速道路に設置されたナンバー撮影用の監視カメラに映り、公的な記録に日暈が脅されている場面を残そうという作戦だった。


 しかし小望月はすぐに運転席の後ろへ隠れた。そのままカメラは通過してしまう。


「え? どうしたんですか」


「今は不味い。パトカーに尾行されるような状況で見つかったら、それを理由に警察が動く可能性がある」


「そう……でしょうか。そこまで警察の行動は早いんですかね?」


「分からない」


 運転席の後ろ、スライドドアの内側に寄りかかった。ふと思い出すのは老人の顔。


 分からないが、不安だからやめておく。今日はそんなことばかりのようだ。


「俺は。油島の世話人を殺そうと思った」


「……えっ?」


 何とは無しに話し始めた言葉に、日暈の眠気が飛ぶ。


「ただ思っただけだ。殺せば見つかる可能性を低くできて、時間稼ぎにもなる」


「でも、助けたんですよね。救急車呼んで」


「助ける必要も無かっただろう。見つかるリスクを高くしただけだ」


「それは……そうですけど。それでも小望月さんは正しいことをしたと思います」


「時代と国の模範であることを正しいと言うのは分かる。だが、どうして殺さなかったのだろうな」


 返事はない。


 小望月は、流れる風景を見た。


「殺さない約束など、するべきじゃなかった」


「……殺さなかったのは、約束したからですか?」


「そうだ」


「助けたのも?」


「違う。命を救うとは言っていない」


 あの老人が助かり、意識を取り戻せば、通報なり、油島へ警告なりするだろう。そのせいで俺は、晦との約束を守れないかもしれない。あの老人に情があった訳ではない。例え死のうが、何も思わないのだ。


 それなのに、なぜ助けたんだ。


 あのときに感じた焦燥。あのとき脳裏に浮かんだのは、火の揺らめきだった。


「…………自分のことが分からなくなっている。何となくだが、そんな感覚がある」


「で、でもいいじゃないですか。悪い方に転んじゃうより、正しい方角の方が」


「正しい方角か」


 小望月の声色が変わった。ひどく明るい声に聞こえた。日暈にはその表情が見えず、だが彼がそこまでの笑顔をしていることが信じられず、危うくハンドル操作を誤りそうになった。


「……小望月さん?」


「悪いが、俺はもう正しい人間じゃない」


 いつもの声色だった。身を起こした彼の顔はいつもの無表情だ。日暈は少し混乱していた。いまのは……気のせいだったのだろうか。


「この手はとっくに汚れている」


「それって……」


初富はつとみを脅して絵の行方を吐かせた。そう言ったが、あれは嘘だ」


 初富と聞いて、日暈は脳裏にその顔を浮かべた。映像で何度も確認したので、明瞭に思い出せた。絵画を盗む構成員たちへ指示を出していた男だった。


「――足から順に、焼いた。絶対に吐かないと言うから、時間短縮をした」


「……強情っぱりそうでしたもんね」


 日暈は運転を続けながら、それだけ言った。本当は小望月に、その男はどうしたかと聞きたかったが、ふと油島に自分たちの情報が知られなかったことに思い至って、口を閉じた。


 小望月は、とっくに人殺しだった。だからこそ彼は思い悩んでいた。約束という理由で人を殺したのに、今度は同じ理由があったのに殺せなかった。


 そして今は、自殺の願望を約束のために抑え込んでいる。


「――小望月さんは、どうしてそこまで約束にこだわってるんですか」


 日暈が聞いた。小望月は数呼吸して顔を上げた。


「……少し、長い話になる」


「構いません。私、気になるんです」


 小望月は黙った。長い沈黙があって、やっと口を開いた。


「小学生の高学年になる頃、ひとりの親友がいた。同じ学年で、クラスが変わっても休み時間に集まるような友だちだ。だがあいつは身体が悪くて入院することになった。病名は忘れたが治るものではなかった」


 その病院のことはもう、うまく思い出せない。だが受付の台が高かったことと、親友が居た病室の匂いと、ベッドの手すりの汚れは覚えていた。壁に寄りかかるように座って手すりを眺めると、その内側が手垢で黒ずんでいた。不思議なことに、そんなものばかり覚えている。


「俺たちはお互い約束をした。勝手にルールを決めて、守ったら叶うはずだと勝手に思い込む。そういう類いのものだ。延命に繋がる根拠はなにもない。ただの、おまじないというやつだ」


「……白線から踏み外さないとか、自転車で足を着かない、とか。ジンクスってものですよね」


「ああ。約束すれば、守るために生き残れる。そんなに都合の良いことはないがな」


 そう呟いて顔を上げ、彼は窓の外を見た。


 闇ばかりだが、雪を纏った白い山々だけがかすかに浮き出ていた。


「あいつは俺に、一緒に都会に遊びに行きたいと約束させた。俺はあいつに、その都会で一緒に広い本屋に行きたいと約束させた。だが叶うことは無かった。余命宣告よりずいぶん早く、あっさりと死んだ」


 いつもみたいに面会の手続きをしようとして、亡くなったと伝えられた。


 ただ、それだけだった。


「それで、約束を大切にするように?」


「大切にはしていない。どうしても納得できなかっただけだ。あいつは死んだのに、約束は死ななかった」


 死んだ、死んだと聞かせれ続け、やっと友だちが死んだのだと理解できたとき、湧いた感情はどこまでも黒く、どろどろと煮え立っていた。それが憎悪であると知るまでにも、ずいぶんと時間を要した。


 それは一種の八つ当たりなのだ。ただの不条理を、恨むべき敵であると設定し、ただ憎む。そうして自分の心を守る。それが心理学でいう置き換えという防衛機制であることや、大きすぎる感情が憎悪という形でしか発散できなかったということを、大人になってから知った。


 それでも憎しみは燻り続け、いつまでも心を煙に巻いていた。道理として知ることさえ、何の解決にもならなかった。


「約束はひとつとして、生かしておかない。確実に殺す」


「約束を……殺す?」


 自らの口で言って、日暈はその意味を理解した。


「……その子との約束。まだ、生きてるんですね。のろいみたいに。……いえ、それこそおまじないだった、ということでしょうか」


「ああ。まじないは神頼みの術だ。良く作用することも、悪く作用することもある。いわいがのろいへ転じることもある。約束は、達成すれば消える。できなければ、不死の呪詛としていつまでも生き続ける」


「不死の呪詛ですか。なんというか、まるで――怪物みたいですね」


 日暈の言葉に、小望月は「そうだな」と返した。


 守られなかった約束という怪物。その表現はなんだかとても、腑に落ちた。


「約束はすべて、怪物になる前に殺す。それが理由だ」

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