白露
昼間の熱風が吹いて、アトリエの隣の青々とした木を揺らす。小望月はその下で涼んでいた。
九月の中旬を迎えるというのにまるで涼しくならない。この夏の気温は、徐々に上がってピークを迎えて徐々に下がることもなく、最初から最後までピークのままだった。暑くなり始めるのも早く、まだ昼でもアトリエの中はかまどのようで、とても人が過ごせるような気温ではない。なので小望月は開始時間より早めに来て、木の影で涼んでアトリエへ入るようになった。
何度目かの風でアトリエに入ると、晦はいつも通り、けろりとして絵を描いていた。風すら入って来ないというのに汗の一つもかいていない。
「晦。お前も涼め」
「やなこった。ちょうど筆が乗っているんだ。涼なら手詰まりになってから取る」
「なら水を飲め」
小望月はびしょ濡れのペットボトルを差し出す。晦は呆れて両眉を上げながら受け取った。
「結露で水分補給をしろって? 悪いけど遠慮させてもらう」
文句を言いながらも服で水を拭き、容量の半分を一気に飲んだ。
「全く。親のようなことしやがって」
「雇い主がこんなことで死んでは困る。いい加減、エアコンでも買えばどうだ」
「嫌いだから買わない」
晦は、少しでも生命維持に関わるような文明の利器を嫌っていた。何をされたわけでもないのに、病院に対する憎しみは深い。『終末期医療』に至っては口に出すことすら嫌っていた。
かといって明確な線引きがあるわけでもない。要するに、気に入るか気に入らないかの問題だった。
「命どうこうではなく、快適性のためにだ」
「嫌いだ」
「なら俺のために」
「ならお前も嫌いだ」
小望月の説得もむなしく、晦は濡れた手を拭いて、筆を取ろうとした。
指先に鋭い冷たさがあった。驚いて右手を離すが、手遅れだった。薬指の正面に、斜めに赤い筋ができ、それに沿ってぷくぷくと血の球が表れ始めている。どうやら、ペインティングナイフに指が当たったらしい。
晦が舌打ちをすると、小望月がその手を取り、傷口をじっと見た。
「……切創だが、深くはない。処置する」
返事をする前に、彼は荷物から白色ワセリンの入った小さな入れ物と、絆創膏、ハサミを取りだした。ステンレスの角バットまで出てきた。
なんだなんだと思っているうちに、そのやや底の深い角バットを右手の下に持たされ、小望月は半分残ったペットボトルから水をちょろちょろと傷口に流して洗浄した。そして彼はポケットからハンカチを取りだし、裏返しにして傷口に乗せ、水の揺れる角バットを受け取った。
「しばらく押さえておけ」
「あぁ……わ、分かった……」
あまりに手際がよく、晦はなにが起こったか分からないでいた。小望月は水をキッチンで捨てて来て、今度はハサミで絆創膏の両端に切れ込みを二つずついれる。端が三枚の帯のようになっていた。
「いつまで押さえればいい」
「十分程度だ。描いている最中の痛みをマシにしたければ、しっかり押さえていた方がいい」
「そうか」
言われた通り、傷をじっと押さえ、しばらくして小望月が「もういい」と手を伸ばした。
ハンカチを返すと、今度は傷に白ワセリンを塗り、絆創膏を当て、三本の帯の真ん中を折るように巻き付けて貼り、その両側の帯を交差させながら貼った。しっかりと巻き付き、指を折り曲げても絆創膏の端が浮いたりしないようになっている。
「終わった」
どうやら助けられたようだった。小望月の手が早く、晦が「別にいい」と意地を張る暇すらなかった。小望月を見て、妙な間を作り、口を開いた。
「…………ありがと……」
礼を言うことさえ恥ずかしがっている晦など無視して、小望月は指を切った犯人を手に取った。
「ペインティングナイフは、切れるほど鋭いものなのか」
「使い込んでいると、削れて鋭くなる。砥石で研ぐような感じだ」
「買い換えろ」
「面倒くさいんだよ、これを買いに行くの……。ああそうだ。明日までに買ってきてくれたまえよバイト君。シフト外になるなら僕が購入するという形にしてやろう」
目の前の男が雑用係だと思い出し、いまさら雇い主らしく振る舞う晦だった。
その隣で小望月は考えていた。晦をアトリエに残して窯焼きにしてはいけないから、夜に行こう。それと、熱中症になった場合の応急処置はどうするのだったか。といったようなことを。その最中ふと小望月は、アトリエの外に気配を感じた。
「業務に行ってくる」
「ん。任せたぞ」
小望月がスマホで録音を開始しながらアトリエを出ると、何人かの取材陣が居た。その中に日暈の姿はない。恐らくは別の新聞社の者たちだろう。
男が来て、録音機を構えた。かすかに見覚えがある。たしか、どこかの番組で、敏腕記者かなにかで紹介されていた。
「あ、すいません。新聞社の者です。ぜひ晦さまに取材を申し込みたいと思いまして……」
思わず鼻から溜め息を漏らした。マイクにカメラ、セットされたリポーターの髪。ひと目見ただけで、それがアポイントを取り付けに来た装備ではないと分かる。事前連絡も無しに取材を開始しようとしていたのだった。
「事前に連絡もなく、どこの新聞社の誰なのかすら名乗らないか。構わないが」
男は初対面で敬語を使わない小望月に面食らって唖然としたが、すぐに笑顔を作り直して名刺を取り出した。腰を低めに、ぺこりとお辞儀をしながら両手で差し出す。
「全くもってその通りです。失礼しました。私は海峡新聞社の――」
「勘違いしているようだが、どちら道取材には応じない。そういう雇い主の方針だ」
「し、しかしですね――」
「ここに多くの取材が来るようになったのに、取材記事がないことは分かったはずだ。誰も取材していないからチャンスだ、などとは思ってはないだろう」
男は表情を無くす。作り笑いをする余裕も無いようだった。
「あなたはあくまでも雇われた身でしょう。我々の取材に応じるかどうかはご本人様にお話を聞いていただいてからですね」
「その判断を一任されている。俺の決定が晦の決定だ。そもそも、本人が取材を嫌がっていることを知っていて、なぜ強行しようとする」
「そうは言ってもですね。あなたはあなたで、晦様は晦様です。晦様の気が変わるかどうかがあなたに分かるんですか?」
「少なくとも、俺の気も変えられない奴だとは思っている」
どう言ったものか頭を巡らせる男の後ろから、いつもの顔が覗いた。
「お話の途中に失礼します。おはようございます、小望月様。中へ入っても?」
「どうぞ」
同業者が堂々とアトリエに入っていくのに、男は思わず指を指す。
「な、なんで入れたんですかっ。あの人、諸星新聞の人ですよねぇ? 取材を受けない方針じゃないんですか!?」
「彼女はただの客だからな。なにか気に入らない事でもあるか」
「な、何を言って……るんですかねぇ?」
いよいよ表情に怒りがこもる男に、録音中を示すの画面を突きつけた。
「ともあれ報道は認めない。アトリエを勝手に撮って勝手に記事にするなら、俺もこの一件で勝手に報道の自由を行使する」
「そ、それは……。だって記者でもないのに……」
「知らないのか。記者なら今、アトリエにいる」
小望月はまだ揺れているアトリエのドアを示した。
「そうでなくとも、今は個人が情報を発信できる時代だ。人の感情を煽るプロなら、どうなるか分かるな」
何も言えなくなった男を背に、小望月がアトリエに引き返す。少しして外から軽い物を地面に叩きつける音と、車が走り去っていく音がした。
中では絵を描き続ける晦。それを見守る日暈は入口横の机でノートを開き、ちょこんと着席していた。
「報道の自由、なんてありませんよ?」
「前提となる取材の自由が不安定だと言いたいのなら知っている。だが問題はない。相手の武器はそいつが強力だと思っているから使っている」
「なぁんだ。知ってて言ってたんですね」
小望月も彼女の前に座る。文字がびっしり書かれているノートには、晦に関する情報は一つもない。
「それでは、続きをしましょうか」
「ああ。確か心理遺伝の存在についてだったな。経験を限りなくデフォルメした記憶が遺伝される……というところまでだったか」
「そうです。それが脳の構造――というよりも脳の回路の形質遺伝であって、それはジャン・バティスト・ラマルクの理論的ではあるのですが――」
日暈は、本当にただの客だった。あの晩に小望月とした議論が面白くなってしまい――どうせろくな仕事もない時期ではあるが――仕事のふりをしつつアトリエに入り浸っている彼女だった。つまりはサボりだ。それで何をするかといえば、小望月とこうして議論を繰り返してるばかり。
元々勉強が得意で様々なことを知っている小望月と、専門知識を知らない者にも理解できるように報道したい日暈。多くの知識を蓄えた二人の議論は、あちこちへ広がっていった。もちろん議論と言っても、専門家ではないので疑似科学や雑談の域を出ないサイエンスフィクションであり、ちょっとした知識の冒険でしかないのだが。
そのため全く成果のない日暈だが、本社からは晦の元へは三年も通い続けているし、アトリエには入れているのだから取材は惜しいところまでいっている、と思われているので問題がない。その上、同じ部署の人間が無茶な取材をしに来なくなるので、彼女にとっては一石二鳥だった。
やや罪悪感はあったが、いつも真面目すぎるくらいに仕事をしている彼女にとって、晦がいるアトリエで過ごすこの時間は至福のひとときだ。
「――ということで、後成遺伝学の観点から、ドグラ・マグラほどではなくても記憶は遺伝すると考えられるのではと思うのです。例えば遺伝子情報の冗長と思われている部分とかにですね」
「そうだな。感情が遺伝するらしいことをマウスの実験で確認した論文もあるようだし、記憶も同じように遺伝してもおかしくない。ただ記憶の遺伝と言っても、全く異なった形で遺伝する可能性はある。たとえば、前世の記憶だ」
「前世の記憶が? その正体が父や母から遺伝であるというのですか」
「思うに、それこそ胎児の夢だ。記憶は設計図と材料から成る。材料が違うまま設計図通りに組み立てるとおかしなことになる」
「ああ。夢分析でいう置き換えですね」
現実にあった出来事で、登場人物が違う人間になれば奇妙な状況が出来上がる。夢の教室で、授業の先生が親戚であったり有名人であったり、生徒に大人がいたりといったことが起こる。そうしたものを置き換えという。
「それが遺伝した記憶でも同様に起これば、両親の記憶が誰も知らない記憶として再構成され、子どもの口から出ていく。という構造だ」
「なるほど……面白いですっ」
日暈が夢中になってノートを書いていると、晦がキャンバスから顔を覗かせた。
「そんな面倒で不確実な遺伝より、こうして表現すれば手っ取り早く後世に記憶を残せるだろ。それより、仕事中だと忘れいないかお前」
「業務は発生次第に処理していく。安心しろ」
「ふん。それなら文句はないがな」
キャンバス越しの顔が今度は日暈を向いた。
「お前はお前で、出涸らしで夕方までよく粘れるもんだな。仕事道具なんか持って」
「えへへ。いつも美味しい出涸らしを、ありがとうございます」
日暈はぺこりとお辞儀をした。しかし取材嫌いの晦はむっすりとしている。彼女の持ち物に対しての嫌悪感が、どうしても拭えなかった。
「お仕事仲間でもあれば、淹れたての熱ーいお茶でも出してもてなしてやるんだが」
「接客対応で労働力をお借りしてしまって申し訳ないです。小望月さんって博識で、凄いんですよ」
「勉強だけはできるからな。デッサンの技法すらすぐ身に付いた」
あの日、小望月が顔料用の燃料を作れるという会話から、晦はもしやと思って小望
月へ色々と教えてみた。絵画の構図、技法、顔料の作り方。小望月は、その全てをすっかりと覚えた。
以来、小望月は二枚の絵を描いた。アトリエの外観の絵と、真っ白なキャンバスに向かい合う晦の背中の絵。未経験ゆえに線を引くのが下手だが、何が描かれているかは見て分かる程度のものを仕上げられるようになっている。
小望月がちょっといいか、と軽く手を上げた。
「あれから少し描いてみたんだが、どうにも絵にならない。何かコツはあるのか」
「ある。きっちりとデッサンを学んだ上で、嘘を吐くことだ」
「嘘を?」
「どんなに正確なデッサンでも絵にならないことはよくある。写真と同じだ。例えばこれは――」
晦は右手の指を真っ直ぐに伸ばし、パーにして小望月へ向けた。
「――表情がない状態。デッサンしても、学びはあるが絵にはならない。そこでこうやって――」
今度は右手の力を抜き、軽く曲げた人差し指から深く折り曲げた小指まで段々と曲がっていく形にした。
「――変化をつけてみる。この上でこの形が活きる角度を見つけるんだ。それでちゃんと絵になる」
「なるほど」
「色々な物、特に身体の細部を描くときに、『現実にはこうなる』ものと、『嘘だが表情がある』ものって選択にぶち当たることがある。そこで嘘をつく」
「フィクションということか。デッサンを学んだ上でと言うのは、上手い嘘を吐くためか?」
「そういうことだ。誤魔化しはバレるが、嘘はバレないからな」
晦はため息をつき、日暈へ向いた。
「ほら見ろ。ちょっと説明しただけで吸収した。しかも次の実践にしっかり活かしてくるんだからな」
「羨ましいくらい理解力がありますよね。私はどうしても一回覚えなきゃ、理解まではできないですよ」
そうは言うが、それでちゃんと理解できるお前も相当だろうに。晦はそんなことを思った。
「ま、とはいえそれだけのフリーターだ。知識も知恵もあって、人としてあるべき部分が足りていない」
「なら、人間の絵を描いて燃やそう」
「あははっ。良いなそれ」
晦はごく自然に笑った。何だかんだで、小望月にはすっかり気を許していた。
「足りないものを描いて燃やす。それを広めるのも悪くないな。そういうのも発信できるんだろ」
「できるが、したいのか。芸術家というものは、真似されたがらないものかと思っていた」
「それは人によるだろ。僕の場合、表現は誰にでも許されるべきもので、誰かが先にやったから真似だパクリだと言われるなんて、あってはならないと考えている。だが大衆というのは頼んでもないのに叩きに行って、僕の権利を主張するバカばかりだ」
そう言いながら高椅子から飛び降りた。
ネット配信を始めたあと晦は、SNSで作品の評判を見た。数十万人の消費者に紛れた、本当に分かる者に届いていないか。それを見つけるために。だが誰かが晦の技法を真似ただので炎上しているのを見つけ、晦の弁護を繰り返すファンと、どこから湧いたかも知れないお気持ち表明人間を見て、すっかり気が萎えた。
それ以来、SNSに触れもしていない。普段は触れないものに触れた結果は、晦の持論である『どの分野どの界隈でも、目立つ者の大半はバカ』が、『つまり、目に見える者は大体バカ』へと発展しただけだった。
「これを技法として広めれば、表現したい者にちょうどいい大義名分ができる。そこから派生しましたとでも言えば、それこそオリジナルとして独立できるはずだ」
「ずいぶんと考えてるな」
「建前に決まっているだろ。他の人間がこの表現で何を燃焼させるか。それを覗いてみたいじゃないか」
晦はテーブルまで来て、日暈へ向いた。彼女は驚いて目をぱちぱちと瞬いた。
芸術家の手には、鉛筆と落書きの描かれたページが開いたノート。集中力が続かず、そのせいで思うように筆も進まず、キャンバスを目前にして落書きに興じていたのだった。
「と、いう話を引き出すための罠だな。記事なんぞにされたくないから口止め料を払ってやろう」
「いいえ。結構です」
日暈の意外な答えに、晦はじっと見つめ、なぜか小望月に視線を移し、また彼女に視線を戻した。二人を前に日暈は背筋を伸ばし、軽い咳払いをした。
「口止め料を頂かなくても記事にはしませんよ。今の私はあくまでも客ですし、記者として取材をするなら事前に約束して、質問事項を送って、それから正式に取材をします。ただ、今のは素晴らしいお話でした」
「…………へえ。記者にはロクデナシしかいないと思ってたが、僕の考えが間違っていたようだな」
「実は建前です。だって、晦様の前でだけは一流の記者でいたいですからね。それで、よければアポ……」
「不法侵入してきたとは思えない」
すかさず小望月が言葉を挟み込む。すると彼女はハッとして、恥ずかしそうに顔を伏せた。
一方で晦は少し苦い顔をして、落書きの描かれたノートを見る。それから彼の前で気まずそうな面持ちの記者に視線を戻し、一思いにページを破って差し出した。
「だったら、堂々と不法侵入してきた時のお前にくれてやる」
「……へ?」
日暈は何が起こったのか分からないという面持ちで、恐る恐る受け取った。
そこには、『晦が描かれた電柱に向かってマイクを向けた、腰の低い日暈』という風刺画が描かれていた。落書きとはいえ、スケッチと見紛うほどに線が歪まず、それでいながらデフォルメの利いたポーズや表情がカートゥーンのような雰囲気を作っている。古いコメディ映画のワンシーンのようだった。
「あ……あっ……!」
「ふん。気に入らないか? だったら――」
「あのっ……え……す、好きです晦さまっ?!」
「うわっ。な、なんだなんだ?」
記者からファンに豹変した日暈に、晦は一歩引いた。
日暈は晦が幼い芸術家として登場した頃からの熱狂的なファンであって、そんな彼女に晦から初めての贈り物だ。自分が最も好きな画家が自分の絵を描いた。しかも絵画を燃やすという技法より以前の作風で、皮肉たっぷりの風刺画。一気に処理しきれないほどの感情が押し寄せた。感情の用量オーバーで自分が何を言っているのかもよく分かっていない。
こういったタイプのファンがそんな心理をしているなどファン嫌いの晦は知るよしもなく、石の裏の虫を見る顔をした。
「ありがとうございますっ! あっ、シワになっちゃう! クリアファイル!」
「落ち着け。ファイルくらいなら持ってるだろ」
「他の書類と一緒なんていやです!」
「じゃあ適当にノートにでも挟んでおけばいいだろ」
「端っこがボロボロになるじゃないですか! か、買ってきますっ」
ほとんど錯乱状態でアトリエを飛び出していった。
「……僕のことになるとこれだもんな」
呆れた晦が入れ替りで座った。ノートをパラパラと捲って、流し読みしていく。
「さて、と。いつも何の話をしてるんだ、頭でっかち二人組で」
「その様子だと、よほど最後の一枚が思い付かないんだな」
「ああ。全く思い付かない」
晦はあっさりと認め、専門知識がスパゲティのように絡まりあった情報たちを眺めては流していく。
「題材の種は決まったんだ。問題は、それをどう表現するか。どう、描いたものかな……」
「題材は何だ?」
「…………教えてやらない」
「分かった」
小望月はただ頷いて、それ以上は聞かなかった。晦はその素直さが好きだった。
「あの議論とやら、僕ともできるか」
「できる」
「議題は?」
「無い。それを決まるところから話が始まって、途中で出てきた話なんかに飛び移っていく」
「本当にただの駄弁りなんだな」
「駄弁りだ。何なら、結論が事実と全く違っても構わない。真実を見付け出すのが目的ではなく、真実に辿り着こうとする机上の冒険でしかない」
少し間があって、小望月が口を開いた。
「自殺は、悪だと思うか」
晦は顔を上げ、無気力の顔を見た。
「なんだよ急に。……まさかお前」
「あいにく死ぬ予定はない。緑色の炎の日に、日暈とそういう話をした」
「なんだ。……ん、日暈と? どうしてまたそんなことを」
「流れでな。それで、どう思う」
少年は両方の眉毛を上げ、呆れたような声を出した。
「悪かどうかは知らんが、嫌いだ」
「命の操作だから、か?」
「ああ。延命と同じ理由だ。分かってるなら聞くなよ」
「嫌いだから悪でも、悪だから嫌いでもないんだな」
「そりゃそうだ。僕が嫌いかどうかと世界にとって悪かどうかは別々の問題だろ。世界にとって良いことだろうが悪いことだろうが、僕が嫌いなら嫌いだ。例え正しいことだろうがやりたくないね」
「そうか」
晦は半目で小望月を見た。
「そう言うお前はどうなんだ。悪と思うか」
「いや。どうでもいいと思う。命など当人が使いたいように使えばいい」
「なんだそりゃ」
晦は呆れた顔をした。
この話は膨らまないなと小望月は、別の話題を探すことにした。また少し間があって、また彼が口を開く。
「俺たちは、月の名前をしているな」
「ん? ああ。確かにな。晦は月隠りで、新月だ。小望月は、たしか満月の一日前……だったか」
「そうだ。名字で共通点がある。そしてお前の作品も月の周期に関するものだ」
「確かにそうだが、そんなことはとっくに分かっていたことだぞ。僕たちは死んだ月と、満たされない月だ。その話でもするか?」
「いいや、月の話をしよう。ごく簡単な議論だ。名前は別の機会に」
話の筋が見えてこない小望月の提案に、晦は半目になった。
「日暈ともそんな感じだったか? 適当にやってないかお前」
「きっちり、真剣だ。何も、お国の未来を真剣に考えようなんて話じゃない。取っ掛かりはこんなものだ」
「それもそうか。で、月のどんな話をする」
「それも探す。それには様々な角度から見る。例えば歴史的な観点で言えば、月は日本で多くの詩や俳句に詠まれて親しまれ、夜道を照らす数少ない光源でもあった。神道において月は月読命という三大神の一柱ともされていた」
「月読命か。ほぼなにも分からない神ということだけなら知っている」
「ああ、その神だ。月は愛されているのに、月の神の記録がほとんど無い。これは研究者の間でも大きな謎らしい」
「単純に、記録に残すまでも無かったんだろ」
晦の言葉に、小望月が少し身を乗り出す。
「というと?」
「雅だ風流だと月の話ばかりしていたんだったら、皆が知っている話だろ。誰もが知っていることをわざわざ書く必要が無かった。だから記録にも残らなかったんじゃないか」
「当たり前のことだったから、か。確かに歴史でも、公的な写真や流行った音楽、スローガンなんかより、何でもない日記の方が当時の空気感が分かりやすいと言うな」
「だろ? わざわざ価値を付けるまでもなかったから記録になかった。例えば――命とかもそうだろ」
「へえ」
「……なんだよ」
意外だ。小望月のそんな表情を見て、晦は肘の杖に顎を乗せた。
「いいか。生は価値を主張するまでもなく、価値があるものだ。だから死は嫌われるんだし、人は宗教だのなんだので死に価値を付けたがる」
「無価値で悪いのか」
「少なくともそう思われてる。身内が死んだとき、不幸っていうだろ。だからみんな、わざわざ死とは何だって考えるんだ。僕だってそうだ」
そう言いながら不幸の迫る自分にまた気付き、冷たさに似たざわめきが、すっと胸を通った。
「僕が言いたいのは、死に生と同じだけの価値が、当たり前にあるべきものだってことだ」
「なるほど」
小望月は頷いた。生と死の価値が同じべきである、ということだけはお互いに共通しているな。そんなことを思っている。
「……生に価値があると思うのが、そんなに意外だったかよ」
晦は少し悲しそうに、ぷいと顔を背けた。切なかった。本当の理解者が存在しないことは分かっていても、現実として突きつけられれば痛みになる。
お前、そんなことも分かってくれてなかったのか。そうした感情を抱える晦と対極的なまでに、小望月はいつも通りの調子で口を開いた。
「いいや。そもそも生に価値があるということが意外だった」
その言葉に晦は、思わず目を丸くして無気力の顔を見た。
「…………どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。普遍的に確かな価値というものは滅多にないし、生や死は特に不安定だ。さっき言っていたように、生に議論するまでもなく価値があるとすれば、価値あるものを無くす死は損失だ」
「ああ、それで?」
「いくら死に価値があっても、生を無くすという損失は無くならない。単純な損得感情で言えば、生の価値から死の価値を引いた分が赤字となる。それを黒字にするには、生以上に死の価値がなくてはならない」
論理が展開していく。どうやら、もう議論は始まっているようだ。
「そんな状況になれば人は死を選ぶ。死に瀕した者が生きようとするように、生に瀕した者が死のうとするような状態だ。これを『自殺者のロジック』と呼び、この話の前提としよう」
「自殺者のロジック……」
「さてここで、ひとつの状況を考える」
小望月は言葉を切り、指を一本立てた。
「生と死の価値が全く同じである人間。生にも死にも瀕した者は、どちらを選ぶのか。これは矛盾とも呼べることじゃないか」
「…………」
確かにそうだった。だが、認めてはならない。小望月の主張がまかり通るならば、死に価値は付けるべきではないということになる。
「……でも、矛盾した学問もあるだろ。ほら、シュレディンガーの猫って。確かそういうのだったよな?」
小望月の土俵である勉学。その土台を突こうという詭弁にすらならない誤謬だった。その自覚もあり、言ってしまってから晦は少し顔が熱くなって来てしまった。だが、意外にも小望月は深く頷いた。
「シュレーディンガーの猫か。かつて光は誰かが観測したときとそうでないときで性質が違うと考えられていた。その人間本位な考え方をおかしいと思ったシュレーディンガーは、箱の中で粒子を測定し、観測できたら毒ガスを箱の中で噴射し、観測できなければ何も起こらないという装置を考え、そこに猫を入れるという例え話をした。蓋を開けて人間が確認するまでは猫は箱の中で死んでいるかもしれないし、生きているかもしれないのか、と。いわば皮肉めいた批判だ」
小望月はまた言葉を切って、一息いれた。説明が早すぎないかと気にしながら話を続ける。
「シュレーディンガーの猫が有名になったのは、皮肉で言ったにも関わらずあまりにも端的に、分かりやすく量子力学の本質を説明していたからだ。目に見える物質の世界では矛盾する考えを、受け入れなければならない世界だと。生や死もそうしたものであるというならば、確かにその通りかもしれない」
「……というと?」
「観測するたびに、生が素晴らしいものである自分か、死が素晴らしいものである自分かが確率で決まる。それでなら生も死も良いものであるということが矛盾しない」
「……ふうん。そうかもな」
少し気の抜けた返事だった。晦は考え事をしていた。
例えば電車を待つとき。電車が走ってくる瞬間にふと価値が揺らげば、特に何も考えずふらりと飛び込んでしまうのかもしれない。それが、自殺者のロジックだというのだろう。
もしかしたら自分も、そうなって死んでいたかもしれないな。そんなことを考えていた。
「……小望月。お前は、どうなんだ」
「生にも死にも、価値はない。良し悪しを判定するための基準が無い以上、どちらも選択することはない」
小望月はやはり無表情でいた。その表情を見ながら晦は、ため息をついた。
そういう答えだよな。お前は。生きるという選択もせずに生きているんだから。
ともあれ、今の話ではネタにならない。晦はそういう意味の唸り声を出した。
「月の話に戻るか?」
「ん。そうだな。歴史の話もいいが、他の視点はどんなんだ」
「そうだな。例えば科学的な観点……というほどでもないが、満ち欠けについて考えてみよう」
「考えるもなにも、月と地球の位置関係がどうこうってだけだろ」
「まあ聞け。重要なのは位置関係だ。細かい話は置いて、月は一ヶ月かけて地球の周りを一周する。当然だが、月が一周するまでの地球の自転の回数は三十回程度。地球が一周するとき、月がどの位置にあるかで満ちるか欠けるかが決まる」
「それで?」
「満月のとき、月はどこにいると思う」
「…………太陽の方を表とすると、地球の裏。と言えばいいか?」
「そうだ。その位置関係で日本が太陽を背にしたとき、満月が見える。もっとも明るい月が夜道を照らし、自分の影もはっきりと見える」
晦は頬杖のまま、話の展開を待つ。
ゴールすら決まっていない、議論とも呼べない議論。その中に絵になるような話は無いのだろうな。そんなことを思っていた。
「それで、新月のとき月はどこにいると思う」
「話の流れからして、地球の表だろ。太陽の方角だ」
「そうだな。見える月の面は影になり、しかも日中に上って下るから普通は目で見えない。……さてここで、地球と月の位置関係は満月のときと真逆になると分かった。月から見れば、地球が満ちた状態だ」
「……ははあ。地球が月の夜道を照らすかどうかってワケだな。話の展開が見えた」
得意気な晦だったが、小望月はまだだと制した。
「話はもう少しだけ踏み込む。地球は月よりも太陽光の反射が約三倍強く、面積も約十三倍となるので、かなり単純に言って反射光は月明かりの三十九倍だ。月は反射光だけで明るく照らされる。これを地球照という。そこで、ひとつ」
小望月が、ピンと人差し指を立てた。
「――――満ちた地球は、夜の月を何色に照らす?」
晦は頬杖の手を下ろし、じっと小望月を見た。
「それは……、どうだろうな」
「地球は青い。ならば青く照らされるのか。ただ青く見えるというだけで、白色に照らされるのか」
「…………じゃあ青だ。そう見えているということは、青い光が来ているってことだから、青いはずだろ」
「地球の空も青いが、地上はほとんど白色光に、いや、やや赤に近い色に照らされている」
小望月の言葉に、晦は思わずしっかりと腕を組み、うつ向いて真剣に考え、やがて顔を上げた。
「それは地球に届く色がそうだということじゃないか? 月に届くのは、地球の海と空の色だと思う」
「なるほど。ならそれを採択する。結論として――――月の夜道は青い、と言える」
晦が腕組みを緩め、背もたれに寄りかかった。
「へぇ。いつもこういう感じで話しているんだな。で、実際はどうなんだ」
「知らない。ただ、地球に届く光が暖色なのは空で青い成分が分散されるからだ」
「そうなのか」
どうやらわざと事実を言わなかった部分があるようだ。同時に、それもそうかと納得した。絵でも、分かりやすさのために嘘を吐くことは多々あるのだ。それこそフィクション、必要な歪みというものだろう。
「参考になる話が出るまで続けてもいい」
「いやいい。なんか、もう疲れた」
少年が立ち上がり、うんと伸びをして高椅子へ向かう。
「だけどまぁ。またやってもいい」
「ネタが見つかるような話の種を探しておく」
「ん」
晦はいつも通りに椅子の横に立ち、少し勢いをつけていつも通りに飛び乗る。
そしてふらりと、椅子ごと傾いた。
「あ……」
晦が声を漏らす。重さから解放される。落下するしかない。どうにも――。
地面に到達するよりも早く、小望月が滑り込んできて身体で受け止めてくれた。
「……わ、悪い……」
小望月の胸の上で、唖然として呟いた。いつもの動作なのに、いつも通りに身体が動かなかった。
前々から、体力が落ちていることは自覚していた。しかし自分で想像しているよりも遥かに早く身体は衰弱しているようだった。
「……今日は休め。一日、じっくりと」
小望月は晦ごと身体を起こし、そのまま座る。晦はまだ信じられないというような表情だった。
「……休んでいる場合じゃない。知ってるだろ」
「休んでいる場合だろう。疲労が蓄積した状態で描けるのか」
「描かなくちゃならないんだよ。もう時間がないんだ。こんなこと言わせるな」
「だからこそだ。限られた時間で結果を出すためには体力が必要で――」
「――その体力がなくなってるんだよッ」
叫びがアトリエに響く。出したことが無いほどの大声に声帯が痛みは咳き込んだ。
少しの呼吸をおいて、「済まない」と呟いた。
「もしかしたら、一月後には筆も……握れないかもしれないだろ…………」
「…………」
「僕には、これしかないんだぞ。まだ終わってないんだ。まだ、燃やしたい事がたくさんあるんだ……」
声が震えている。他人へ弱気を見せたのは、これが初めてだった。
病が判明したときも、流行りが過ぎて孤独になったときも、決して弱音を吐くことはなかった。何を言ったところで何も解決しない。何も救われず、何も起こらない。誰も、気にしない。
だから、悲しみを作品として描き続けた。誰にも見られずとも、自分の中にあったものを、世界として形にしていく。それだけが晦にとっての救いだった。それがいま、消えようとしていた。
「……なら、なおさら不完全燃焼で終わらせる訳にはいかない」
晦は小望月に抱き締められる。
「お前の命は、俺がしっかりと見据えている。灰になるまで火守りをする。だから、休め」
「…………済まない」
小望月が離れようとするが、晦は抱き返してそれを止めた。まだほんの僅かな間だけ離れたくなかった。この暑い中ですら求めてしまう温もりが、惜しかった。
すると小望月はそのまま脚の力で晦を抱き上げ、抱えた。なんだなんだと思っている内に運ばれ始める。
まさかこのまま帰るのか。危機感を覚えた晦は小望月の背を叩いた。
「お、下ろせ。こんな恥ずかしい格好で外を出歩くつもりか。真っ昼間だぞ今」
「お前の家まで坂や階段を上るからな。しっかり掴まれ。俺の首に腕を回すといい」
「いい。いいからっ。お前のお姫様なんかになった覚えはないぞ、こら!」
正直、彼の腕の中は居心地が良かった。そう思ってしまった自分が見えて、なんとも言えない気分になる。
「遠慮するな。雇い主の健康が第一だ」
「……じゃあ、家来として雇ってやる。家事とか、僕の世話を全部させてやろう」
「分かった」
「お姫さまって呼ばせてやる」
「分かった。これからは俺のお姫さまだ」
小望月に皮肉が通じないどころか、まっすぐに目を見て――しかもわざわざ「俺の」と付けて――恥ずかしげもなく呼んでくる。一方的に恥ずかしくなっただけだった。コイツには恥じらいもないのか。
「ところでお姫さま。それは残業扱いか? それか別件……」
小望月は本当に続ける気らしい、晦は暴れて抗議した。
「はーなーせーっ!」
「む。分かった」
暴れて落ちては元も子もないと、ゆっくり下ろされる。少しだけ、小望月の温かさが惜しかった。
「フン。ま、気遣いにだけは感謝してやる。全く、情けない姿なんか見せるんじゃなかった」
そう言いながら、すっかりあの悲しみがどこかへ行ってしまったと気づいた。
それならそれでいい。メソメソ泣いているよりこっちの方が何倍もマシだ。このバカのお陰で、何だかんだいつも通りが維持されているんだな。少しくらいは、本当に感謝してやる。
少し申し訳なさそうな小望月へ、心で礼を言った。心の中でなら、声を大にしてありがとうと言えた。
「それより日暈はどうした。どこまで買い物に行ったんだあの……」
バカは。そう言葉が続く前に晦の視線が釘付けになる。
アトリエの入り口に、居た。目が合って気まずそうに視線を逸らされる。あいつ、いつから居た? 晦は顔に凄まじい熱を帯び、耳まで真っ赤になる。
「日暈っ……!」
「は、はい」
手に二枚のクリアファイルを持った汗だくの彼女が入って来る。彼女の顔も赤い。
「いつからだ」
「…………ちょうど、お姫さまのところです」
晦が顔を覆ってしゃがみ、悶絶する。
「お、お邪魔でしたよね?」
「……とっとと……帰れ…………」
「はーい……、失礼します……」
日暈は手早く――しかし晦の落書きは慎重に扱い――荷物をまとめ、アトリエから逃走した。
立ち上がった晦は「おい、この。雇い主に大恥かかせるとはいい度胸だな」と小望月の腕を小突く。
「済まない」
「済まないじゃない。さっさと戸締まりしろ。帰るぞ」
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