大雪 0時

――――――――――――――――

反訳書

 以下は,12月○日深夜11時30分頃に,小望月氏と日暈氏が□□海岸沿いパーキングに駐車したバンの中で録音された会話の反訳である。

 尚,理解の簡単のため,音声中に発生した音なども表記した。


(自動車のエンジンが切れ,鍵が抜かれる音)

(小望月)おい,日暈。分かってるな?

(日暈)はい,えっと,

(何かを叩く音)

(日暈)ひ。お願いします,もう,やめてください。

(小望月)なんだと。ふざけるな。全部お前のせいだ。お前のせいでこんなことになったんだぞ。

(日暈)ごめんなさいごめんなさいごめんなさい,私が悪かったです。

(小望月)今さら謝るなこのクソアマ。俺は分かっているかと聞いたんだ。とっとと答えろ。

(日暈)はい,逃げません。絶対に逃げません。通報もしません。やれって言われたら,

(沈黙)

(小望月)言われたら?

(日暈)その,私の身体でご奉仕,します。

(小望月)それでいい。逃げれば殺す。逃げても,必ず追い付いて殺す。お前の家族の居場所も知ってる。

(日暈)(すすり泣く音)

(小望月)返事をしろ。できるだろそれぐらい。今すぐ殺すぞ。

(日暈)嫌,お願い。やめてぇ。殺さないで。

(金属音。証拠品1:火炎放射器から発生したと思われる)

(小望月)エタノールの火は限りなく透明なんだ。どうしてだと思う? 温度が高すぎて青色を通り越す。

(日暈)いや。いやあ。

(小望月)お前の綺麗な顔が焦げて行くのを,じっくりと見られるんだ。

(小望月が日暈の顔を舐める音)

(日暈)ひ。

(小望月)身体は燃やさないでやる。お楽しみ用だ。

(日暈)いやああ。殺さないで,殺さないでよお。死にたくない。どうしてこんなことするの。

(小望月)か,どうかはお前次第だ。

(バンの後部扉を開ける音)

(小望月)戻ってきたときに裸でいたら,もっと長生きできるだろうな。

(バンの後部扉を閉める音)

(号泣する声。17秒間)

(日暈)えっと,12月○日,23時で,36分,□□海岸,

(号泣する声。8秒間)

(日暈)どうして,小望月さん。

――――――――――――――――


 運転席で録音機に向かって話しかけていた日暈が、ちらと横を見る。


 助手席の窓。


 小望月が、覗いていた。


 日暈は録音を終了して合図を送り返す。それと同時に小望月が助手席へ入った。


「すまない。日暈さん」


 開口一番に謝罪し、ハンカチを差し出す。


「本当に舐めたのはまずかった」


「いえいえっ! いいんですよぉ。あれくらい本当に気持ち悪い演技じゃなきゃ」


 貰ったハンカチで頬を拭き、ついでに失礼しますねと涙も拭く日暈は、太陽みたいに明るい笑顔だった。


「もうすっ……ごい迫力でした! 悪役になりきれる人って珍しいんですよ? やっぱり悪い人の役ってブレーキがかかっちゃうみたいで。小望月さんって、意外と役者さんになれたりするかもしれないですねっ」


「日暈さんもだ。いきなり泣き出すなんてな。流石にそこまではできない」


「えへへ。凄いでしょ。実は記者になる前は役者さん志望で……なんちゃって」


「それか、脚本家かもな」


「そ、そうですか? まぁ……それも良いかもですね」


 日暈はまんざらでもなさそうだった。


 あの録音の台本を書いたのは、日暈だった。




 少し後の深夜十二時。十二月初旬、新月の日に移り変わったところだった。


 恐ろしく冷たい風が吹き、その冷たさが染み込むバンの中で、シャツやらウィンドブレーカーやらを幾重にも厚着にした日暈と、どこまでも真っ黒で異様な格好をした小望月が向かい合っている。


 防火服の上から、いくつかの道具をベルトで巻いて固定している、彼の背後の壁にはガスマスクと飛行帽が掛かっている。いずれの色も黒であり、見ようによっては怪物にも、喪を服しているようにも見えた。


 彼らの間には大量の書類と、ひとつの大きなゴミ袋があった。その中はチョコレートなどの甘い菓子の包装紙と、コーヒーを主にしたカフェイン類の空き缶だらけだ。


 アトリエから県をいくつも跨いできた小望月たちは、鳴金なるかねという男の家に侵入しようとしていた。その男はベンチャー企業の若き社長であり、その拘りからか、住宅街とは離れた場所の海沿いに自宅を構えていた。


 小望月たちが居るパーキングから、雪景色とともにそのやたらと開放的な家が見て取れる。三階建て、白を基調にした清潔感のある小洒落た家で、半分ガラス張りなので中の様子が分かってしまう。小望月たちからは死角になっているが、海の方角は全面がガラス張りになっているらしい。


 そのため、双眼鏡で覗けば明かりや影といった情報から、鳴金が大体どの位置にいるのかが分かった。その点では、およそセキュリティに優れているとは言い難い。


「……これで、全てだな」


 書類のひとつひとつに目を通した小望月が、書類から日暈へ目線を上げた。目が合うなり彼女は頷きをひとつだけを返す。


「集められるのは、これで全部。あとは現場で臨機応変に動くしかないです」


「そうだな。計画を確認しよう」


 今日は絵画の寿命の日。盗まれた絵画を処刑するため、はるばる車でやってきた小望月たちだった。


 書類が散らかりすぎてカーペットが敷かれたようになった小さなテーブルの、不安定な位置に置かれたメモ用紙を手に取る。それには手順化された行動がびっしりと記され、それに対する注意点などが僅かな隙間さえも埋めていた。


「まずは侵入。鍵は番号式デジタルキーで、解除コードは判明している」


 鳴金の家は零から九までの数字を四から八桁組み合わせるタイプの番号キーで、それを知る術があれば誰でも入れてしまう。数字だけ分かれば、あとは組み合わせの問題だ。解錠を始めてから解にたどり着くまでに時間がかかるだろうという事だけが課題だった。


 そして、日暈が数日の密着取材と偽って接触し、キーの指紋を採集してどのキーが押されているかを調べたのだが……。


「はい。七を四回から八回、です」


 七のキーしか押されていないのだった。当時、番号を盗み出そうという緊張にあった日暈も、これには思わず呆れ顔をした。


「分かった。次は火災報知器の対応だ」


「三階の寝室とすぐ近くの階段の二つです。対応するのは階段の一つのみですね」


「長居はしないので、階段のものの電池だけ抜けば十分……と」


 小望月がひとまずメモを下ろすと、日暈も肩の力を抜いて一息ついた。お互いに僅かな休憩の時間だと示し会わせたはずが、二人とも頭の中で確認作業を始めた。


 ふと小望月の考えが、まるで一時停止でもされたかのように止まった。


 ひどく胸が締め付けられて、行動を起こしそうになる。それを制御するかのように、意識を目の前の計画へ向けようとするが、すぐに割り込まれる。


 希死念慮が。


 自殺の願望の手が。


 小望月の背を死の淵へと押していた。


 例えば首横へハサミの刃を当てて、滑らせる。それで動脈が切れ、終わる。


 だが、まだ終わるわけにはいかない。左手首と肘の間を掴み、服の下に潜んだ傷に圧をかけた。血のように溢れる死への望みを、痛みの応急処置で止めた。


「――こんなことを言ってはいけないって、分かっているんですけれど」


 日暈の声が、小望月を繋ぎ止めた。


「やっぱり不安です。居るときに侵入するなんて」


 一拍遅れて顔を上げる。自分が危うい想像をしていたことは、気付いていないようだった。


「不在のうちに入りたいとも思うが、彼がテレワークばかりで出かける時期も不安定である以上は、在宅時に押し掛けた方がいい。帰り際に外から見つかって警察に通報されるというリスクが低くなる」


「ええ。確実に分かるお出かけがあれば良かったんですが、調査期間が短すぎて……」


「むしろこの短期間で、よく頑張ってくれた。晦との約束を守れるのは、あなたのお陰だ」


 疲れた顔の彼女が、僅かにだけ微笑んだ。情報収集は二人でしていたのだが、記者という立場が利用しやすく、調査ではどうしても日暈の仕事の量が多くなってしまっていた。


「ありがとうございます……。小望月さんも、頑張ってくださいね」


「ああ」


 小望月が持ち上たメモを前に、また二人が背筋を伸ばす。


「次に経路だ。三階まである家のうち、一階の奥なら確実に不意を突けるんだな」


「一階のキッチンにコーヒーメーカーがあって、頻繁にコーヒーを入れに行くみたいです。そのタイミングで侵入できれば、階段も他の出口も電話もない状態で、速攻で拘束できます。合図は私からの電話です」


「合図で拘束して、一階に置いておく。そして二階を探す」


 見取り図の二階。ある一点を指した。広い部屋の奥の壁だ。


「仕事の後は、このメモの通りだな。侵入後の緊急通知も電話で頼む」


「それで大丈夫です。…………では、早速取りかかってください。時間がありませんから」


 晦の願いのために残された時間は残り、二十四時間。小望月は準備を始める。


 バンの端には空の骨壺がクッション材で大切に保護され、固定されていた。そしてもうひとつ、異様なものが立て掛けられている。


 手製の火炎放射器だった。引き金が燃料噴射装置インジェクターと圧電素子に連携されており、銃身の後ろから燃料タンクまでホースで接続されている。背負うタイプの燃料タンクには酸素缶がくっついていて、タンクに手を伸ばせば噴射に必要なタンク内圧をコントロールできるようになっていた。内圧が大きくなりすぎないようにするための排気弁までついている。小望月はこれをわずか一週間で学び、揃え、作り上げた。


 スリングベルトに頭をくぐらせて右の肩にかけ、小機関銃のように身体の前で斜めにぶら下げた。そしてガスマスクと飛行帽も装備し、いよいよ黒に包まれた。骨壺を梱包材から出す。まるで人ではないように見える異様な姿が、バンから降りた。


「すぐに済ませてくる。異常があればすぐに教えてくれ」


「了解です。よろしくお願いします」


 日暈は双眼鏡を手に、内側からバンの扉を閉めた。小望月は目的地へと歩を進めていく。


 闇の中でも真っ白な雪の上で、火炎放射器を右手で保持しつつ、唯一白い骨壺を左手に抱えて歩く闇以上に黒い人影。


 ――――正に、異質の存在だった。


 道路を横断し、坂をわずかに下り、玄関へと回り込んだ。


 暗証番号キーは扉に直接取り付けられているタイプだった。カバーを開けると、テンキーとエンターキー、オプションキーがある。数字を押してからエンターキーで決定し、鍵を開けるタイプだ。


 小望月は七に指を置く。それを四回から八回まで順に試せば話は早いが、迷わず七回押した。調査結果から浮き出る鳴金という人の浅さを考えると、これしかないように思う。


 エンターキーに指をかけ、波の音や、潮の臭いや、凍えそうな風を背にしてじっと待ち続ける。


 何度か目の風が止んだとき、ベルトで腰の右に巻き付けたスマートフォンが振動を始めた。それと同時にキーを押す。解錠の音。鍵が空いた瞬間に体当たりするように扉を開け、スリングベルトと右手だけで火炎放射器を構えながら侵入する。


 奥のキッチンに、洒落た襟のワイシャツとチノパンツで、髪までセットした男がいた。目を見開き、壁に引っ付いて、すり抜けられもしないのに壁の向こうへ後ずさろうとしていた。


 彼の目に映るのは、銃を持った真っ黒な怪物だった。怪物と男が、独立したキッチンキャビネットを挟んで向かい合う。


 小望月は、皿が乗ったラックへ火を放った。ほとんど透明に近い青が静かに生まれたと思えば、一瞬で皿を砕いてしまった。そうしてやっと火の存在に気付いた男が悲鳴をあげた。


「ま、待ってくれ! なん……なんなんだお前は!?」


 小望月は無言で骨壺をキャビネットへ置き、右腕のベルトに挟んでいた結束バンドを二本抜き取って、鳴金の足元へと投げる。


「…………こ、これは……その……。自分で自分を……?」


「逆らえば焼けて死ぬ。どうするかはお前次第だ」


 怯えた目が小刻みに頷きながら、両足と、両腕は歯も活用しながらどうにか縛り上げた。膝を畳んで座り、小望月を見上げた。


「お……お願いだ……どうしてこんな……」


 突然に降りかかった理不尽に、鳴金は言葉を見つけることもできないほど混乱していた。


「お前が買った絵。誰の絵だか分かるか」


「それは……」


「知らないだろうな。あれは盗まれたものだ」


「そ、そうなのか。でも、そう言われても、盗まれた物かどうかなんて……」


「あの絵が何なのか。知っているか」


 小望月が鳴金の言葉を遮った。


 鳴金は小さく、首を横に振った。


「お前は何も知らないし、何も気にしちゃいない。それでいい」


「……いい?」


「お前はただ、運が悪かったんだ」


 怪物は何も答えず、火炎放射器を向けた。


「あっ……や、止めろぉッ!」


「約束しろ。助けを呼ぶな。警察が来るまでにかかる時間は少なくとも五分以上。それが来るより先にお前を殺せる。焼ける痛みが、どんなものか知りたいか」


「分かった分かった! 助けは呼ばない。約束だ。絶対に守るッ」


 必死の懇願に、小望月は銃口を下ろした。鳴金もすっかり力が抜けて、息切れしながら項垂れた。男のズボンのポケットを調べてスマホが無いことを確認し、固定電話へ向かった。太もものベルトに挟んであるナイフを取り出し、電話線を切った。


「それでいい。俺を怒らせるのはスマートじゃない」


 小望月は骨壺を抱え、男を放置し、一階を少し見て回る。床は土足を前提にした石タイル貼りで、階段の手すりは白く塗られた金属だ。木材がほとんど使われていないこの家は、日本式というよりは、アメリカなどの海外式のようだった。


 一階に他の人間が潜んでいないことを確認し、入口のすぐ横の階段を上がる。二階の踊場から対角の壁に向かった右手側には、仕事場と思わしき空間がある。重厚そうなデスクの上にパソコンや複数のモニターなどが配置され、その向こうには本棚があり、経済紙やいくつかの専門書や、大量の自己啓発本で埋め尽くされていた。それに対して反対の左手側には、休憩スペースがあった。赤いソファとテーブルがあり、更に向こうには巨大なコンポーネントステレオが鎮座している。


 そして、その後ろの壁に、目的のキャンバスはあった。


 描かれたのは、黄昏の闇に沈んだアトリエ。暗さのあまりに画材や高椅子といった物たちに色はなく、その形しか分からない。そして絵の中心には形しか分からない小さな人影が高椅子に座っていて、じっとキャンバスと向かい合っていた。次にどうするかを考えているようにも、描き上げたものをじっと眺めているようにも見えた。どちら道、そこにあるのはいつもの背中だった。


 こんなにも暗い絵画の中に描かれた、絵の色彩だけがあまりにも明るく、あまりにも鮮やかで、絵画から光が溢れてしまうような錯覚を覚えるほどだった。


 何度も見たはずなのに、今になってひどく胸が痛くなった。


 絵を描く晦を、燃焼せねばならない。


 この風景を、灰にせねばならない。


 ――――喪いたくない。


 晦は、絵画に自分には燃やせないものを預けた。そういう活動だったはずだ。だがこの絵画は違う。想像の産物を燃やそうとしたのではない。晦にとって最も燃やしたくないものを燃やそうとした。


 この絵は――――晦自身なんだ。


 頭を振り、成し遂げるべき仕事に集中する。これが燃え尽きるまでの時間、誰も来ないよう持ちこたえなければならない。


 その絵は外からでも容易に見られる場所にあった。目の前の窓はほとんど壁一面に広がっていて、階下の雪が一階の明かりを乱反射して真っ白に光っていた。窓に写った自分の黒い影の向こうが、ちょうど日暈のいる駐車場だ。いま彼女には小望月の姿が見えているはずだ。


 どうやらこの窓には電動カーテンを使っているようで、窓の端にあるスイッチを押すと、モーターの音と共にゆっくりとカーテンが閉まっていった。


 デスクに骨壺を置いておき、また階段を上がって三階へ。上ってすぐが廊下で、右左に部屋がひとつずつ。片方が風呂で、片方が寝室だろう。階段から数歩の天井では火災報知器がランプを明滅させていた。


 寝室は左のドアだった。ベッドやクローゼット、腹筋台やダンベルなどがある。この部屋の天井でも、火災報知器のランプが明滅していた。中から腹筋台と布団を引きずり出して扉を閉め、布団を寝室ドアの下に詰め込むように置いて隙間を埋めた。これで煙を寝室へ入れにくくする。


 次に腹筋台に立ち、天井の火災報知器に手をかける。背中のタンクとスリングベルト越しの火炎放射器の重さでバランスを崩しそうになりながら、警報器のカバーを取って電池を抜いた。これで準備はよし。階段を降りて絵画の前へ立つ。


 気づかぬ間に、スマホが振動していた。緊急通知か。いつから鳴っていた?


 手早くスマホを引き抜いて電話に出ると同時に部屋の明かりが落ちて暗くなる。かろうじて歩くことはできる程度に明るさはあった。


《――――逃げてッ!》


 スマホから叫び声が聞こえるか否か。背後から走ってくる音。小望月は素早く横へ飛びながら振り向いた。自分が居た場所を包丁がかすめていく。


 鳴金の影は一瞬だけ固まり、また小望月へと突っ込んでくる。


「く……うわぁああっ!」


 殺し損ねてパニックになった鳴金が包丁を振り回すのを、冷静に銃身で受け止めつつ後退していく。闇の中で金属音が何度も鳴り響く。


 腰がデスクに当たった。もう下がる後ろがない。


 小望月は――あえて銃身を下げた。


 暗くとも分かるほどぎらついた目が、餌に食いついた。


「はぁ……はぁ……! 死ねぇえッ!」


 鳴金が包丁を振り上げる瞬間。小望月はデスクに腰を乗り上げさせて両足を上げ、隙だらけの腹へと叩きこんだ。


 鳴金は声にならない声を漏らしながら飛ぶように後ろへ転ける。取り落とされた包丁は音を鳴らして闇のどこかへと吸い込まれていった。


 腰が抜けたのか鳴金は立ち上がりもせず、ただ化け物を見ている。


「…………お願いだ……や……やめ……」


 小望月は何も言わず、悲鳴を上げながら小さく丸まった男の横を通りすぎた。


「……殺しはしない」


「…………え?」


 鳴金は思ってもなかった返事に、腕で身を起こす。


「助けを呼んだのなら、とっくに逃げているはずだ。そうしなかったのは、助けが間に合わないと諦めたからか、パニックになったからか。何にせよ、結果的に助けは呼ばなかった」


 真っ黒な影が立ち止まる。鳴金へ背を向け、火炎放射器も構えず、ただ堂々と立っていた。倒れた鳴金にはそれがどこまでも、巨大に見えた。


「今のは……まあ。俺を殺しに来るなと約束させなかった俺の落ち度だ」


「…………」


 生き残れるかもしれないという希望と、目の前の黒い怪物が何を考えているのか分からないという混乱の最中で、鳴金は声も出せないでいた。


 小望月はただ、ゆっくりと振り返った。


「だから、改めて約束しろ。俺に危害を加えようとするな。俺の邪魔を、するな。そうすれば助かる」


「…………わ……分かった……。約束する……」


 その返事はか弱かったが、十分だった。彼は心が折れた。もう襲っては来ないだろう。


 悲鳴みたいな呼び声が聞こえるスマホを拾って、耳に当てた。


《――さんっ。小望月さぁん!》


「無事だ」


《あっ! 大丈夫でしたか!? よ、よかった……》


「お陰で助かった。すまないな。これから仕事を終える」


 通話を切って、また鳴金へ向き合った。


「死が、どんなものかを考えたことはあるか」


 突然の小望月の問い掛けに、鳴金はまた恐怖に全身を支配される。


「そ、それは……、その……無いが……」


「普通はそうだろうな。死は縁の遠いものであって、来るべき時に、来るべき形で来るはずだと。……そこまで考えてさえいないか」


 小望月は絵画の方へ歩き出す。


「俺にとって死は、ただの理不尽だった。誰もが惜しむ者が死んで、この俺がのうのうと日向を歩いているこの世の中だ。少なくとも俺は、納得できない」


 絵画の前にたどり着く。


「それだけじゃない。なにもかもが途中で終わるんだ。残すべきでないことも終わらせることはできず、ありとあらゆる願いは叶わない。すっかりと片付いた状態で迎えられる。そんな死はそう多くはないだろう。――――全てを終らせるもの。それが死だ」


「…………そう……だな。確かに。そんなこと、考えたこともなかった。でも、今は違うのか……?」


「ああ。今は――」


 小望月は言葉を切った。今の自分にとっての死の意味を、上手く形にすることができない。


 そのおぼろ気な姿を捉えることができず、話を戻した。


「……とにかく、死に、価値を付けようとした男がいた。この絵画の作者だ」


 小望月が顔だけで振り返った。闇とガスマスクに隠され、表情は見えない。


「それは美しいものであるべきであり、誰もがその美しさを知るべきであり、誰一人として無価値に終わるべきではないと」


 火炎放射器を構えた。


 銃口が震える。しっかりと両手で持ち、深い呼吸で誤魔化した。


 この手で殺す。それが晦との約束だ。


「――――その美しさを、お前にも見せてやる」


 引き金を引くと、闇の中に青く透明な炎が放物線を描き出す。それが絵画にぶつかると、透明に近い青が、ぱっと濃い青へと変身した。


 その炎が一瞬でキャンバスを包み込んで、闇の中に沈んだ部屋の全てを一色に染め上げる。


 世界を照らす光は揺らぎ、影を踊らせる。それは死の間際、今まで頭を過りさえしなかった思い出が照らし出されるような光景だった。


 闇も、晦も、世界も、全てが輝いて、鈍く黒く焦げていく。


 小望月はその炎に、その燃焼に焦がれていく。


 鳴金もまた、その光景に、混乱も恐怖も、生まれる感情の全てをも焼き付くされる。何かを想うことすらできず、その燃焼を見るだけが精一杯だった。


 炎はやがて衰え、絵画の四隅へと追いやられ、静かに終わりを迎えた。そのときの静寂は、限りなく無に近いものだった。


「…………明かりを付けてもらっても、いいか」


「……あ、ああ…………」


 鳴金は言われた通り、この部屋の明かりを着けた。そうして小望月は左の腰にベルトで固定していた小さな箒と塵取りを持って、灰を集める。


「……灰を集めて、どうするんだ?」


「あるべきところへ、納める」


 戻ってきた鳴金が尋ねると、小望月は骨壺のあるデスクへ向かいながら答えた。塵取りから壺へ、さらさらと灰を流し込み、蓋をする。


「…………あの絵は、誰が描いたんだ」


「晦という芸術家だ。歳は十六」


「そ、そんな少年があの絵を……?」


 鳴金には信じられなかったが、そんな疑惑もどうでも良くなっていた。彼の心にはまだ、あの炎が揺らめいている。


「知り合いか」


「ああ」


「……だったら、連絡先を教えてくれ。きちんと晦君にお金を払う」


 小望月はその言葉を無視し、骨壺を持って階段へ向かう。


「ほ、本気だぞ! あの絵の本当の価値を知らなかった。こんなに……殺されかけたのに、こんなに心を動かされたのが信じられないんだ。晦君が付けた値を教えてくれ!」


 小望月は階段の前で、鳴金を一瞥した。


「…………死んだよ」


 鳴金は、声を失った。


 階段を下りていく黒装束の男を、ただただ黙って見送ることしかできなかった。


 喪服は家を出て、地面ばかりが明るい闇の中を引き返していく。バンへ戻ると、雪よりも眩しい笑顔が迎えた。その目の縁は赤い。泣いていたのだろうか。


 彼女もあの絵を喪うのが悲しかったのだろうか。それとも、俺が死ぬのが怖かったのだろうか。いつだったか、俺が死んでも悲しいなどと言っていたな。


 こんな俺が死んで、何が悲しいんだろう。小望月にはどうしても分からなかった。


「お帰りなさい! やりましたねっ!」


「鳴金は無事で、きっと通報もしない」


 小望月は後ろを振り返る。あの家の二階、開放的な窓に人影があった。こっちをじっと見ているようだ。


「ここからでも火が見えましたよ。すごく、綺麗な色でした」


「……だったら、急がないとな」


 小望月は骨壺を梱包材に戻し、固定した。


 手早く火炎放射器と装備を下ろし、防火服のまま運転席へ回る。


「え。小望月さん? 流石に少し休んだ方が……」


「この闇の中だ。ここからカーテン越しでも火が見えていたなら、かなり遠くからでも見える」


 エンジンを掛けて発車する。パーキングを出て道路を走っていると、パトカーや消防車とすれ違った。


 しばらく走っていても、それが追ってくることはなかった。




 ふっと、目が覚めた。小望月を起こしたのは、エンジンが切れた瞬間の静寂と、鍵を引き抜く音と、何かのビープ音だった。この中古のバンは買った時から、エンジンを切ると何の警告音かも分からない電子音がなるのだった。


 バンの後ろで小望月は、すっかりと眠ってしまっていた。窓から見上げた景色では、明るく真っ白な冬の曇り空を、アトリエの側に立つ木の枝が分割していた。


 ばっと起き上がる。最後に交代したのは高速道路に入る直前だったはずだ。ならば日暈は少なくとも六時間以上は運転していたことになる。


「……日暈さん」


 声をかけると、運転席から疲れきった笑顔が顔を覗かせた。


「着きましたよー。お疲れさまです……」


 日暈は一旦降りて運転席から回り、バックドアを開けた。傍から見ても分かるほどふらついている上、しきりに自分を抱くように手で腕を擦っていた。疲れのせいか一層に冬の寒さが染みるのだろう。


「その言葉はそのまま返す。ゆっくり寝てくれ。次の出発は夕方だ。確認作業なら、自分でやる」


「そうですね……ふぁーぁ……。お言葉に甘えます」


 小望月が脱いだ防火服をひったくり、布団がわりにしてバンの奥へ身を詰め込んだ。


「それでいいのか。毛布を取ってくるが」


「いいのです……。小望月さんが着てたので……ぬくぬくですよぉ……」


 あまりの疲れに、日暈は言葉の途中で睡眠に入り始めていた。彼女の疲労はとっくに限界を迎えていた。この状態でよく事故を起こさなかったものだ。


「……分かった。おやすみ」


「おやすみなさー……い……」


 小望月は骨壺を梱包材ごと持ち、バンの扉を閉めた。そのまま目の前のアトリエへ。冷たい風に背を押されながら、両開きの扉を抜けた。


 あるのは画材と、主を失った背の高い丸椅子だった。


 小望月はその慣れない風景を横切り、火葬場を抜け、納灰堂の扉へたどり着いた。


 古い木製の扉が蝶番を鳴らしながら開くと、中は薄暗く、狭く、長細い部屋で、左右に棚が一つずつ向かい合っていた。そこにはいくつかの骨壺が並んでいる。持ってきた壺を、棚の空いた場所へ置く。


 そこには、『世界』の名札があった。その隣に置かれた空の骨壺を取る。名札は無く、ここに納まるべき絵画の名は分からない。


 絵画は、二枚盗まれていたのだった。


「……ちゃんと終わらせる」


 棚の空きを眺めながら、ひとり呟いた。納灰堂から出て、火葬場を引き返し、アトリエへと戻る。


 キャンバススタンドと、高椅子。椅子の高さに合わせた狭く高い机と、乾いた絵の具がひび割れている木製のパレット。その隣に、小望月の血のついたペインティングナイフだけが、異物として存在していた。薄い埃が色彩をくすませた、死んだ風景だった。


 それを前に、立ちすくんだまま動くこともできないでいる。あの絵に描かれていた有るはずの物と、居るはずの人が足りない。


 死は理不尽である。自分の言葉を思い出す。晦にはもっと描きたい、もっと伝えたい世界があった。俺が死に、晦が生きることの方がよほど合理的だったはずだ。


 現実という世界に意思はなく、生きるべきも死ぬべきも選ばない。合理性など人の持つ欲求に過ぎない。そうと分かっていても――。


 ――納得など、できるものか。


 小望月はエタノールが入った未開封のボトルを数本と毛布を持ち、バンへと戻った。


 後ろから乗り込んで適当な場所へボトルを置き、日暈へ防火服の上から大きな毛布を被せる。小さく、ありがとうざいますと聞こえた。


 運転席へ回り、手早くエンジンをかけ、出発する。


「…………もう出るんですかぁ……?」


 ふにゃふにゃの言葉が後ろから聞こえた。


「現場の近くまで行っておこうと思っただけだ。気にせず、ゆっくりと寝てくれ」


「…………はぁい……」


 か細い返事のあとに、日暈はまた深い眠りについた。


 小望月の言葉とは裏腹に、バンは高速道路に乗らず道を逸れていった。


 しばらく走り、ある駐車場へたどり着いた。ビープ音が鳴る。日暈は一時間も寝ていないというのに、その音で目を覚ました。


「…………あれ。どうしたんですか……」


 目覚めてまず見上げた、真っ白な昼の空を見て浮かんだ疑問だったが、小望月は何も答えない。


 日暈は首を傾げ、フロントガラスの向こうの景色を見て絶句した。全ての眠気が一挙に消える。


 警察署の、目の前だった。


「……小望月さん?」


「お前を殺す」


 小望月が振り返った。


 その顔に、表情はない。


「殺してお前の温かさを愉しむ。あのときの茶番は演技じゃあなかったんだ。前々から思っていたが、良い身体をしているな」


「……なあんだ。無駄ですよ。ふぁー……」


 日暈は心底ほっとしたというように、遠慮の無い大きなあくびをした。


「疲れて眠くたって、それが演技ってことぐらい分かります。性欲が強い人の目線がどこを向くか知らないんですか? 真っ先に胸とかお尻とか見てきますよ。しかもバレてないつもりで、チラチラっていやな感じで見てくるんですよね」


 小望月はため息をつき、前を向く。あまりにもあっさり見抜かれていた。


「それに、警察署の前にわざわざ来て言うことじゃないでしょう。本当、気を遣うのが下手ですよね」


 日暈は思い切り伸びをした。


「っていうか嘘も下手すぎです。ものすごい棒読みでしたよ? さっきはあんなに迫真の演技だったのに」


「分かるか」


「本気でする気だったなら、さっき私が寝てるときに襲ってきたでしょ。そもそも小望月さんって、そういうことする人じゃないですし」


「…………そうか」


「もう。本当にビックリしました。一緒に自白しようなんて言うんじゃないかって」

 彼女はわしゃわしゃと後頭部を掻いて、暴れた髪を手ぐしでとかした。


「これ以上協力が長引けば、日暈さんが共犯として裁かれる可能性が高くなる。逮捕されるのは俺だけでいい。いま俺から逃げたと言えば、引き返せる可能性は高くなる」


「その件はもう、お話し合いしたじゃないですか。小望月さんが全部背負ってくれるけど、一緒に捕まってらその時はその時だって。それに、生き残ろうとするばかりが正解じゃないって言ったの、小望月さんですよ。初めてちゃんとお話ししたときに」


 日暈はバンの後ろから、「よいしょ」と助手席に座った。


「全部、私のせいなんです。だから命を張ってでもお手伝いします」


「一時的な感情に任せて行動すると、後悔することになる」


「私もそう思います。感情に任せて行動するとろくなことにならないって、晦さんの取材に行く度に思ってましたもん」


 彼女は困ったように笑いながら頬を掻いた。


「……回りくどく言うのは止める。お前は足手まといだ」


「足手まといでも、です。って、また棒読み。いくらなんでも嘘が下手すぎません?」


 日暈はアハハと笑った。小望月はまた、ため息をついた。


「小望月さんが自首したいならそうしてもいいです。私から逃げたって言えば、刑は軽くなると思います」


「分かった。俺の負けだ」


 日暈は身体を捻り、シートに寝そべるようにして、諦めた顔の小望月へ微笑んだ。


「晦さまの希望のためです。使えるものは私でも何でも使いましょう。成功の確率が上がって悪いことはないですし、私だって小望月さんのこと利用しているみたいなものですし」


「そうだな。……悪かった」


「そ、れ、よ、り。私との約束。忘れないでくださいね?」


 日暈が上着の前を開け、内ポケットから録音機を取り出す。スイッチも入れずに小望月へ向け、インタビューでもするような仕草をした。


「この件で、いっ……ぱい取材させてください。刑務所にたくさん通って、友だちとしてじゃなく、記者として公平な立場から記事を書きますから」


 小望月が「分かった」と言って、少し口角を上げた。


「俺への取材でも良いが、被害者としての記者レポートでも書いたらどうだ」


「あっ。ひょっとして今……笑いました? できたんですね、笑顔」


「やかましい」


「えー。素敵な笑顔でしたよ? もっと笑えばいいのに」


 小望月は仏頂面に戻ったが、日暈は笑顔のままでその横顔を見た。


「……じゃ、今度こそ現場に向かうか、休憩するかしてくださいね。私は夢の続きでも見ますから」


 小望月の返事も待たず、バンの後ろへ戻り、防火服と毛布を重ねて被った。


「おやすみなさい。高速に入ったら、すぐサービスエリアで交代ですよ」


「ああ。途中で交代だ。忘れるな」


 小望月は途中でちゃんと交代して休めと言う意味で言ったが、日暈にはその意味で届かずに「はい」と返事をして眠りについた。


 バンが発車し、今度は迷いもなく真っ直ぐに高速道路へ向かう。何とは無しに付けたラジオでは、午前のニュースをやっていた。


 昨日の晩に、あの地で真冬の怪光があったという。名が出ていなくとも、鳴金のことだと分かった。


 ――――自宅の絵画に自分で火を付けたと供述している。盗まれた絵画を所有していた可能性があり、現在は黙秘しているが――――。


 そんなニュースだった。


 心を動かされたというのは本当だったらしい。もうしばらくは黙秘していてくれ。そんなことを考えながら高速道路に乗った。


 凍るような風を切るバンの中。小望月の中でまた、希望の顔をした死が覗いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る