大暑

 意味が分からないほどに夏。その強烈すぎる猛暑によって蝉の声すらなく、いやに静かな昼間だった。


 七月の中旬で前の年の最高気温である三十六度を越え、今週だけで四十度代が何度も顔を出していた。そんな燃えるほどの暑さ。肺まで熱されて、死を肌で感じるような猛暑日に小望月こもちづきは、顔料の素材を運んでいたのだった。


 借りた車の荷台から買った物を下ろし、駐車場とアトリエ内を往復するだけだが、普段から運動をしない彼からすれば重労働だった。中にはたっぷりのエタノールや金属の類いまであって、とにかく重い。


 最後の金属粉を持って両開きの扉をくぐり、アトリエの一角に聳える画材の山の一部にする。室内に冷房は無く、中でも暑いことに変わりはない。


「ごくろう。休憩は適当にしろ」


 小望月の雇い主でありアトリエの主であるつごもりが、キャンバスから幼い顔を覗かせて言う。雇うと言ってもろくな公的手続きも踏まないアルバイトとしてだった。


 フリーターの小望月と芸術家の晦は倍ほども年が離れている。晦の成長が遅いせいで、身長も頭ふたつ分はある。少年はその小さな身体で高椅子に座り、その全身をまるごと隠せるほど巨大なキャンバスに向かっていた。


「分かった」


 小望月は入り口横にあるテーブルについた。あそこが彼の定位置だった。それを認めて晦はキャンバスへ顔を向け直す。半分程度だけ完成した絵画を見つめるばかりで、筆は一向に進んでいない。


「調子が悪いなら、休め」


 キャンバスは、描かれているものがテーブルから見えない角度で置かれている。それでも、晦が微動だにしないことは分かるらしい。


「……はあ。うるさいぞ、いちいち」


 少年は不機嫌そうに椅子の上で足を組んでその上に頬杖をした。やたらと背の高く足の細い丸椅子に座っているので、少し身を傾けただけでバランスを崩しそうだ。


 下書きはできているのだからキャンバスを倒して書けばいい、以前に小望月にそう言われたとき、晦はバランスが崩れたら気付けないだろと応じなかった。


「不調を指摘されるとストレスになる。ストレスが不調を招くんだぞ」


「落ちる」


「ただでさえ後先が短いんだ。なーにが惜しいもんか。せっかくだから命を落とす練習でもするか」


 趣味の悪い皮肉交じりに言った。


 晦の命が尽きるまで、あと五ヶ月程度だった。治せはしないが進行をかなり遅らせることができる病で、入院し、適切な治療を受けながらリハビリをこなせば、ずっと長く生きられる。しかし彼の価値観がそれを許さなかった。


 延命は、命に対する侮辱である。


 そう小望月へ言ったとき、「そうか」という返事だけあって、治療は勧められなかった。晦は小望月のそういった口うるさく言わない態度が好きだった。


「右腕は惜しいはずだ。俺は雇い主の無事が惜しい」


 晦は呆れ顔でため息をついて「まあな」と足を戻した。だが椅子からは降りなかった。


「……はあ。うまく頭が回らない。こういうときほど、どうしてか他の題材に手を出したくなるんだよな」


「手を出せばいい」


「収集がつかなくなるだろ」


「収集ならつく。描くのはそれを抜けば、あと四枚だ」


「問題はその四枚の、最後の一枚だ。相応しい題材が全く思い浮かばん」


 小望月は晦の顔を見てから、キャンバスの前に立った。きっと自分が倒れても大丈夫なようにだろう。よほど疲れた顔をしていたのだろうか。晦は、描きかけの絵をじっと見つめた。


「この絵も然り、だ。どうにか……何かができそうな気がするんだ。でも、それを思い付けない。思い付いたところで、余計な一手になるかもしれないしなぁ」


「いつも、何を描いてるんだ」


 芸術家に対する質問としてはよくある部類だったが、晦は顔をしかめた。


「興味ないと言ったから雇ったんだぞ。何度でも言ってやるが、感想など聞くに堪えない」


「分かっている。興味が出たから聞いた。それだけだ」


 お前が物事に興味を持つとは思えないんだがな。そう晦は心で毒づいた。


 出会ったときから、小望月は無気力なフリーターだった。生きる目的はなく、死ぬ気力もなく、わずかな収入で食いつなぎ続けているだけの、生きているとも死んでいるとも言えない男だ。


 ある日、体力が落ちていることを実感し始めた晦は雑用係が欲しくなり、アトリエの助手を募集した。そこに、直前のアルバイトをクビになった小望月が『通勤が楽』という動機で応募してきた。面接に大人数が集ってきて参っていた所だったので、ファンを雇うくらいならと試しに醒めた目の彼を雇ってみた。


 その勘は大当たりだった。小望月の熱の無さは凄まじいもので、半年は雇っているが業務以外のことを質問されたことがない。それに、笑顔を見たことがなかった。余命を知らせたときでさえ、やはりと言うべきか「そうか」と返事をしただけだった。ミステリアスとも大人びているとも取れるがその実、ただ元気と興味がないだけだ。


 案外、大人になるというのはそういうことなのかもなと、晦はそう思った。


「ふぅん。目の前で表現しているのにわざわざ聞くとはな。侮辱だとは思わなかったか?」


「まあ、侮辱というなら侮辱か」


 晦が小突くが、小望月は表情を変えなかった。


「会話するとやりにくいな」


 また頬杖の姿勢になる。小望月は少年がいつ倒れてもいいよう、触れられるほどのすぐ側まで寄った。


「そうだな。話せば整理されることもあると聞いたから気を遣った」


「そうかよ」


 嘘かどうかも分からない言葉を受け流し、少年はふうんと鼻から息を抜いた。


「例えば、数えきれないほどの喜怒哀楽、感情。例えば忘れられないほどの絶景や出来事、思い出。例えば――――」


 言おうとして、結局その言葉が出てくる前に話が進めた。まあ、どうせ気にしないだろう。話に割り込むのが面倒で黙っているような奴だ。


「そういうものが、生を全うするきわに、甦っては消える」


「走馬灯か」


「半分正解だ。あれは死の瞬間だが、僕が言いたいのはそれよりもずっと長いもの。――老いだ」


 晦はキャンバスを見据えたまま、深く頷いた。


「感情を虚しさが侵食し、思い出の地を忘れ、愛したものさえ思い出せなくなる。できた事ができなくなっていき、確かに有った自分というものが次々に喪われていく。つまり老いとは進行する死であり、進行していく死は燃焼とも言い換えられるはずだ」


「生きてきた人生が燃料、というわけだ」


「そうだ。そして人生というものを表現するのに、最後に必要となるのは『死という炎』なんだ。原型さえ残さず僅かな灰のみしか遺さない、その美しさだ」


「ああ。あの火は綺麗だった」


 小望月が脳裏に浮かべたのは、過去三ヶ月で燃やした三枚の絵画の炎だった。その色は赤橙色と、黄色、そして白色。自然な発色ではなく、意図的に着色された炎だ。


 絵画の顔料は、普通の顔料に金属とロウとエタノールを混ぜ合わせて作った燃料でもあって、エタノールとロウにより強く長く燃え、金属の炎色反応によって色付いた炎となるように成分を調整してある。


 即ち、燃やすための絵画だった。


 晦の絵画には、ひと月の寿命がある。新月の次の日から書き始め、満月で完成する。そして次の新月で焼く。燃焼に至るまでのその一連が、晦の最期の芸術だった。


「お前は、燃焼できないんだな」


「……まあな」


 小望月の配慮の無い言葉に、少年は切なさを感じる。しかし小望月は調子を変えない。


「ならせめて、後から燃やすのでもいいか」


 晦は思ってもなかった言葉に、無気力な顔を見た。その表情は相変わらずの無表情で、何を考えているのかが読み取れない。


「燃やすって……火葬か? ただの火葬じゃあ、駄目だ。誰の目にも触れず、小さな引き出しの中で燃えるだけだろ。その炎こそが――」


「いつもの場所で燃やす」


 小望月の言葉に、晦は思わず口を閉じた。彼は、本気で言っているのだろうか。しばらく見つめあって、やっと言葉が出てきた。


「……犯罪だぞ」


 少年は椅子から飛び降りて、今度は椅子に肘をついて寄りかかった。その顔にいつもの調子はない。


「今さら犯罪者になって、困ることはない。こういうのはネットじゃ、無敵の人というらしいな」


 そう言いながら彼はアトリエの奥の本棚から基礎科学の本を取ってきて、奥付のカラーページにある炎色反応の一覧を見せてきた。


「どの色で燃えたいんだ」


 小望月が、ほんの僅かにだが、笑った。晦は初めて見る彼の微笑みに、不思議とぞっとしてしまった。


「……お前、最後に笑ったのはいつだ」


「今だ」


「そういうことじゃない。最後の思い出はなんだ。印象に残った出来事は?」


 詰め寄るように投げ掛けられた質問だったが、小望月はその質問自体ではなく、晦が本当に聞きたい質問に答えた。


「言いたいことは分かる。俺にも燃料がない。大切にするような記憶も、お前ほど表現したいこともない」


「僕の倍以上も生きてか」


 小望月は、肩を竦めた。


「三倍でも、四倍でも、同じ答えだっただろう。だから今すぐ死んでも大差ないが……、なんと言うかな」


 一呼吸と僅かな間があって、続きを口にする。


「死なないのは『いつも通りのことしかできない』からだ。自殺は、習慣に無い。準備するのも面倒くさい。誰かと約束したならするが……今のところ自殺の約束はしたことがないな」


「そんな理由で生きていたのか。お前」


「だからずっと、理不尽だと思ってたんだ。生きる理由も、それを探す気も無い。それでも俺はこうして生き続けている」


 晦はむすりとして、顔をぷいとそむけた。その言葉の意味は考えずとも分かった。


「そういうもんだろ」


「そうだな。で、どの色がいい?」


「教えたところで、お前に顔料が作れるのか」


「色つきの顔料は無理だが、炎に色を付けるだけなら。金属粉を混ぜた蝋の粒を作り、エタノールを固形化させるときに混ぜることで、燃料粒ができる。蝋の粒表面の金属粉とエタノールが反応することを想定し、粒は大きめに作る。だから完成した絵画はざらざらとしている」


「へえ。そこまで分かるのか。見てただけで」


 本当に意外だった。空っぽは空っぽでも、教養はあるらしい。あるいはそれだけしかないのか。


 勉強が得意で、生きることが苦手だった。きっとそういう男なのだろう。


「……普通なら、身内を犯罪者にさせないように立ち回るんだろうな。だが生憎、僕は普通じゃないし、いい子でいようとも思わない」


 晦は笑って、差し出された一覧を指で突いた。


 それは赤い炎。リチウムの炎色反応だった。


「やるなら、ちゃんとやれ。僕の炎をきっちりと記憶に、魂に刻み込め」


「すると言っただろう。それこそ、約束だ」


 真っ直ぐに見つめる目はいつも通りで、その口調もいつも通りだった。


 晦はにやりとして、無表情を見つめ返す。


「お前はどの色が好きだ。僕より先に老衰したときのために聞いておいてやるよ」


 小望月はすぐに一つの炎を指さした。


 それは紫色の炎。ルビジウムの炎色反応だった。




「準備はいいか」


 小望月が確認すると、パソコンの前でマッチ箱を鳴らして、やや緊張した面持ちの晦が頷く。


 アトリエの奥の部屋。その奥の壁際には上下左右がコンクリートの打ちっぱなしと

いう空間があり、完成した絵画がスチールのスタンドで立てられていた。


 八月の初旬。新月の日。ここは絵画の火葬場だった。


 絵画の前にはカメラがあった。ノートパソコンに繋げられ、いつでもネットで生配信が開始される状態になっている。配信サイトでは、夜の十時という時間帯もあって、開始はまだかまだかと言う多くのチャットで溢れていた。


 晦がインターネットで配信をしようと思ったのは、小望月の提案からだった。


 ある日の会話の中で「芸術は受けとり手がいて初めて成り立つものであって、誰にも届かないものは表現という」という小望月の話に対して「だが受け取り手の感想など聞きたくはないのだよなぁ。それなら表現者である方が遥かにマシだ」と晦が悩んだことがあった。


 ただ感想嫌いなだけではない。彼のファンを名乗る者は彼の若さや儚さばかりに目を向け、作品を単独で見ていないので、感想もそうしたものになるのだ。それが特に嫌いだった。


 そこで小望月が「配信ならばどこにいる者にも届けられる。その感想も、読まなければ良い」と返した。始めこそ嫌な顔をした晦だったが、「母数が多い方が本当に理解できる人の元へ届く」という畳み掛けの言葉で、それもそうかとあっさり納得したのだった。


 芸術はどうせ、断絶したコミュニケーションなのだ。インターネットという壁一枚あるならばやってもいいかと、今はそう納得している。


「なら、始めるぞ」


 小望月は指でカウントダウンを始める。


 指を全て折り曲げたとき、もの静かな配信が始まった。画面に映るのは完成した絵画のみだ。しかし題名は無く、言葉で説明すらしない。


 大きな縦長のキャンバスに描かれているのは――空と海中と、断崖。


 水面の境界が絵を上下に分断しており、上部には日に照らされて明るく輝く岩場と青々しく伸びる草、そして真っ青な空に輝く雲があった。下部は水中、透明度は高いが緑がかって薄暗い。断崖はどこまでも下に伸び、深海の闇へと飲み込まれていく。


 その途中に、暗い岩場からこちらを覗く巨大な何かが居た。光のコントラストもあって、ひどく不気味な絵だった。


 それがしばらく写された後、画面の端から少年が現れ、絵画の前に立つ。その間に小望月がカメラの露出補正を弄り、画面がぐっと暗くなった。


 そして晦はマッチを摩り、生まれたごく小さな火を絵画の中央下へ当てた。


 すぐに火が移り、暗い画面に緑色の火が生まれて、早回しのように一気に成長していった。芸術家はすぐに離れて画面から消える。


 絵画の一面が火で包まれた。激しく巨大で強烈な緑の光は、照明以上に明るく、周囲を一色に染め上げた。


 そうして描かれた風景が鈍い黒に侵食されていき、死んでいく。晦も小望月も、その光景をじっと、その美しさをしっかりと見詰めていた。


 噴き出された炎が狂うように躍り続け、ゆっくりとその勢いを衰えさせ、後にはフレームのみが遺された。


 画面が明るくなり、晦が箒と塵取りで灰を集め、小望月が持ってきた小さな骨壺へと納めて、壺を抱えてカメラへと向いた。そして小望月がパソコンへと戻り、配信が終了された。


 晦はアトリエの最奥、絵画の納灰堂へ向かった。堂と言っても仰々しく広いものでなく、倉庫を開けて棚を置いただけの空間であった。暗く、静かなここには今までに焼いた絵画の灰が並べられていた。


 その一つ一つに名札があった。晦が新たに置いた場所には、『恐怖』の名札があった。


 戻ると、小望月がチャットのログを確認し終えて、セットを片付けた所だった。チャットはやはり、「晦くんの儚さが良い」や「彼がやるからこそだ」というものから、「何で燃やすの」や「売れば良いのに」など、そうしたものばかりだった。今回は英語のチャットも多かったが、内容は日本語のものと大差がない。


 相変わらず晦には見せられない様相だな。と小望月は思っていた。


「これで、また一つ」


 晦は満足げな顔をした。


 小望月も、笑顔こそないものの満足げだった。あるいは晦の目にそう見えただけかもしれない。


「俺は帰る。今日はいつもより長いシフトだ」


「はいはい。生きるのに頓着しないくせ、金にはがめついんだからな」


「金は問題じゃない」


 小望月はすこし食い気味で、晦は圧された。


「約束だからだ」


 小望月は約束というものに執着していた。どんなに些細なものでも破ることは許さない。それは厳しいを通り越し、異常と呼べる域に入っていた。


 そしてそれが、数々の仕事やアルバイトをクビになる原因だった。一つ前のコンビニではシフトの約束を忘れていた店長を無視して一週間ぶっ通しのワンマン勤務をさせ、二つ前の本屋では予約を取ったのに受け取らない客に無理やりに買わせた。


 それは交友関係にまで影響していて、普通なら忘れてしまうほどちょっとした約束でさえ、破れば縁を切った。そうしていくうちに――当然のことながら――友人としての縁は一つも残らなかった。


「わ、悪かったよ、適当に言って」


「……構わない」


「どうして、そんなに約束を大事にするんだ」


「大事にしているわけじゃない。ただ約束を――」


 小望月が答えようとした時だった。アトリエの入り口からノックの音が響いてきたのは。


 二人して顔を見合わせる。


「そういえば、今日だったか……」


 晦が呟いた。とある、いつものマスコミだ。


 この活動以降、彼の熱烈なファンは多くなり、彼についての記事は価値が高くなった。デビュー後のとある出来事からインタビューを全く受けなくなったので、自然とその価値は跳ね上がる。


 ファンかつ記者であるなら、取材という行為自体が常識すら忘れるほどの熱狂となるだろう。入り口でそわそわとして待つ彼女――|日暈《ひがさ》は、その熱狂の最中に居た。


「追い返して来る」


 小望月が行こうとしたが、それよりも早く日暈が侵入してきていた。晦が驚いてのけ反る。


「うわっ。おい、入って良いなんて言ってないぞ」


「すみませんっ! いえ、配信を拝見いたしまして、居ても立っても――そう! 今回の作品も素晴らしかったですよ! それでですね、今日こそアポを……あっ、諸星もろほし新聞の日暈です!」


 興奮を抑えきれないまま整理されていない言葉が溢れ出していた。晦は聞くに耐えないと呆れ、小望月が彼女と対峙する。


「不法侵入だ。出ていかないと不退去も上乗せされる」


「あ、すみません。やっぱりこんな時間では……。お昼に来て邪魔してはいけないと思って。明日、また来ます!」


「そういう問題じゃない」


「しかしですね? 晦さまの素晴らしい芸術は最近、世界でも注目され始めていましてですね。晦様のことをもっと知りたいという熱望が国民だけのものではなくなっていっているんですっ!」


「相変わらず狂っているな」


「はい! 狂ってます!」


 彼女は激しく燃える熱意のせいで、文字通りに狂っていた。その激しい熱で小望月の言葉がろくに通じていない。


「晦さま! 私は知ったかぶり記事なんて書きません。ただ貴方の素晴らしい表現だけじゃなくて、人格や私生活を知りたい方は大勢いるんです。将来、教科書に載る偉人に迫るドキュメンタリーなのです!」


 当の晦は嫌悪感を丸出しにした顔で日暈を睨み付けた。


「そういうのは大抵、死後にするものだろ。そもそも、何かをしたからってなんでそいつの人格まで世の中に出されなきゃいけないんだ。僕の私生活なんか知ってどうするんだよ変態。そいつより付き合いが長いくせに、何も分かっちゃいないな」


 晦が芸術家としてデビューしたのは三年前。小学5年生になるのと同時だった。その若さに全く釣り合わないほどの絵心を持ち、プロ並みの技量から一時期話題になっていた。


 時の人となり、殺到してきた取材陣の中にいたのが、日暈だった。


 流行りが過ぎ誰も振り向かなくなって、晦が取材嫌いになったあとも、日暈だけは定期的にアトリエに通って取材を申し込もうとしていたのだった。休日を返上して無給での活動だ。


 とはいえ長い付き合いのせいか、晦は何だかんだで出入り禁止にすることはなかった。


「当然っ、作品も見てますよぉ! たった三年で様々なスタイルへの挑戦をしながら、どの時期どの作品もそれぞれ違った良さがですね?」


「あーもう。小望月、摘まみ出せ」


「分かった。ついでに俺も帰る」


「ああ。お疲れ」


 小望月がスーツの襟を掴んで、日暈を後ろ向きに引っ張っていく。


「あっ、あー! 晦さまぁ! 明日は十四時三十分にぃ~……」


「来るな。電柱に取材でもしてろ」


 晦が言い捨てるのを聞きながら、二人でアトリエを出た。




 真っ暗な夜道。外灯はあるにはあるが、間隔が開きすぎている。ぽつりぽつりと照らす光を点在させるばかりで道にも成らず、闇を照らすには心もとない。


「帰りは車じゃないのか」


 小望月が言うと、日暈がしょんぼりとノートをしまいながら呟くような返事をした。


「電車ですけれど……」


「なら、駅まで同行する」


 夜道で何かあったら自分や晦が疑われると判断してのことだったが、日暈には意外だったようで「ありがとうございます」と一礼した。


 アトリエに来ては追い返される記者と、追い出す方のフリーターが初めてふたりきりになり、夜道を駅へ向かって歩く。不意に、日暈がノートに手をかけた。


「あの、もしよろしければですが――」


「取材には応じない。知っているとは思うが、雇い主の意思だ。悪く思うな」


「……そうですか。重ね重ね、失礼いたしました」


 すっかり熱も冷めたようで、口調は落ち着き、おしとやかとさえ呼べる声色になっている。その豹変ぶりに、普段から全く驚かない小望月でさえ思わず彼女を見た。


「それが普段のお前か」


「はい。ですが、晦さまの取材のときは頭が真っ白になってしまうといいますか、ファンとしての自分を抑えられなくなってしまって。私は本当に、晦さまも、晦さまの作品も大好きで……。いえ。言い訳ですね」


 彼女は立ち止まり、深く頭を下げた。


「本日もご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」


「……晦には、伝えるだけ伝えておく」


 日暈は頭を上げ、にっこりと微笑んだ。


「ありがとうございます。夜道のお供もしてくださって、小望月さんはとても優しいんですね」


「ひとりで帰して何かあったら、俺たちが容疑者になるからだ。晦に事情聴取を受けている時間などない」


「そうなんですか? でしたら心配はご無用です。女性記者として、少しくらいは護身術に覚えがあるんですよ?」


 それからふたり歩き始め、間があって、また彼女から口を開いた。


「今日も、何も分からなかったです」


「それが普通だ。プライバシーは保護される」


「そうですね。プライバシーは保護されるべきものです。ですけど記者としては、そういうものにも手を出さなきゃいけないんです。倫理を遵守したら、読者は遵守しない方に流れていってお金にならない。私も、こんなことのために記者になったんじゃないんですけれどね」


 その声は少し震えている。小望月はそれに気付いていたが、無視した。


 正しいものほど回りくどくて分かりにくく、面白くないのだから読者が増えないのも道理だろうな。そんなことを考えている。


「こんなことのために、か。そうと分かって晦に取材するのはどういう理屈だ」


「私がやらなきゃ、他の記者がやります。作品のことも分からない人が振り当てられるかもしれない。私が半端に取材しても、途中で交代です。それは絶対に許せなかったんですよ。理想より先に、まずは生き残らないと。じゃないと何も守れませんから…………」


 声の震えに、溢れた切なさが混じって、闇へと溶けていった。


「生き残ろうとすることだけが、正解ではない」


「……でも、それですと」


「そうだ。生に矛盾を感じて苦しいのなら、死んで解決すればいい」


 日暈は絶句し、立ち止まる。しかし記者という職の話をしているのだと思い出し、安心したように笑った。


「び、びっくりしちゃいました。本当の意味で死ねって言ってるのかと……」


「違うが、本当の意味でも構わない。捨てたい命なら、捨てればいい」


「……え?」


 日暈は暗闇の中で、感覚を小望月に集中させた。言い得ぬ恐怖があった。まるで、サイコホラーの導入みたいだ。そんなことを思っている。


「そんなに驚くようなことでもない。趣味でも、仕事でも、人生でも、終わらせたいときに終わらせればいい。何も悪いことはない」


「い、いえ。でもいけませんよ。自殺なんて」


「自殺は悪なのか」


「悪いことだと思います」


「死にたいときに死ねることは幸福だと思うが、それでもか」


「それは――」


 違う。日暈はそう言おうとしたが、言葉に詰まってしまった。死にたいときに死ねるというのは、まさに晦の芸術が目指す所なのだ。


「でも、自分で死んでしまうことと、仕方なく死んでしまうことは違うことです」


「そうだな。だが、どちらも悪ではないはずだ」


 死ぬのはなぜいけないか。日暈はそんなことを考えたことなどなかった。誰かが自殺者の記事を書く時にも、ほとんど条件反射的に『いけないこと』だと考えるばかりだった。


 咄嗟に出たのは、取材で勉強した学術的な考え方であった。


「……例えば生物学的に言って、自ら死を選ぶのは間違いではないでしょうか。種の個体数を無闇に減らすのは種に対する損害になるはずです」


 小望月と日暈が、同時に立ち止まってお互いを向いた。


「かなり根本的な話、生き物は生きるために生きているんです。健康なのに死んでしまうのはそれと矛盾しませんか」


「生物学というより、進化論だな。種の保存という意味では肉体的健康が保証された個体が生き残るべきである。病に伏す者が苦痛から逃れ自殺をするのは、その遺伝子を遺そうとしないためであると考えられる。だがそれには、肉体的健康だけではなくて精神的な健康も含まれるとは考えられないか。肉体的に健康でも精神が弱いものが死ぬ。それは種としては悪ではなく善行とも言えるはずだ」


「それは。……心が遺伝するという前提のお話だと思います。生物淘汰って言っても、遺伝しないものを排除しようとはしないでしょう? 確かに行動遺伝学において知能の――種類によってばらつきは勿論ありますけど――おおよそ半分が遺伝であるとは言います。でもそれがいわゆる人格や心の弱さの遺伝であるという結論には至っていないのでは?」


「それもそうだな。撤回しよう」


 日暈の反論をあまりにもあっさりと受けたので、むしろ彼女のほうが面食らってしまった。


 この人はもしかして、相手を言い負かせたくてあれこれと言っているんじゃないんだな。ひょっとしたら、本気で答えを探そうとしているのだろうか。


「現代という状況に焦点を当ててみよう。生物にとって、生き続けることが目的であるというのは、生物淘汰が存在した時代の話だ。技術であらゆる環境に適応し、大抵の災害で絶滅に追いやられなくなった今の人間に、その理屈は必要か」


「必要です。現代の倫理感で言えば、仕方の無い理由ならまだしも、生きれるはずなのにそれを諦めるなんて間違ってます。世の中には生きたくても生きられない人だっています」


「それはゲーム理論の考え方だ。自分が損をしていなくても、自分以外が得をするかもしれないという事実が嫉妬となり、損となる。生きたいという望みの主語は自分であり、生きたくても生きられない人以外の人間が死のうが、当事者の死が近い事実は変わらない」


「それは……、そうですね」


 受け入れ難い小望月の理論を、日暈は一旦飲み込んだ。彼女はまず受け止めてから、受け入れるかを精査するタイプだった。それは記者としての能力というよりは、理性的な彼女の考え方だった。


「悪であるとはいうが、多くの場合自殺者は社会の外側にある。社会の中にいても、適応できない場合もある。そういうあぶれた者が、社会の損失を考えないだろう。ならば命をどう扱うかは、当人の問題になる。つまり――」


 ――満足できるまで生きて、満足できなければ死ぬ。


 日暈はうなずき、静かに論を組み、小望月を見据えた。


「理屈は分かりました。私見を述べさせて頂きますと、やはり私は自殺は悪だと思います」


 小望月は黙って彼女の言葉を待った。日暈はその沈黙を見て話を続ける。


「善悪としてひとつの指標を用いるんです。例えば法律を。死が自由化されることになれば、きっと自殺者は指数関数的に増加します。しかし国としては自殺率を少しでも減らしたいはずで、実際に法の整備はされています」


「法の整備……。確か自殺関与、同意殺人罪だったか。本人にではなく、手伝った者への刑罰が下る」


「それです。働ける国民が国の生産性を補っているんですから。もし自殺率が看過できないほど増加したなら、自殺自体が法で禁止されるか、制限されて許可制のものとなる。あるいは――残酷ですが、裁きが遺族に向かうような、罪悪感を利用した仕組みになると思うんです」


「なるほど。人間の大きなくくりである国家が悪と定めたから、という考え方だな」


「はい。でも、国の事情を抜きにしても、悪いことだって言える理由があります」


「というと?」


「当事者外のワガママです。親しい人に死んでほしくないという、願いですよ」


 日暈はまた帰りの方角へ歩き始める。小望月もそれに続いた。少し遠くには駅が見えている。


 話に熱中してしまって、小望月に恐怖心を抱いたことをすっかり忘れていた。


 よかった、殺人鬼とかじゃなくて。というか話、すっごいズレちゃってるし。なんてことを考えて、日暈は自然と微笑んだのだった。


「晦さまや小望月さんが死んでしまったら、ショックで私、お仕事できなくなっちゃいますよ」


「俺もか」


「はい。悲しむ人が出るなら、それは社会的な損害です。それは悪だって、言えませんか?」


「……それもそうだな」


 シンプルながら、筋が通っている。反論するところはないだろう。そう小望月は頷いた。


「なので、自殺とかしないでくださいね?」


「する予定はない」


「よかった。こうしてお話しできて、すごく楽しかったです。取材じゃなくて、またお話を聞かせてくださいね」


 日暈は顔に、太陽のような笑顔を浮かべた。


「そうか。帰り道には十分に気を付けろ」


「もう。私には護身術がありますって」


「相手を殺すなって意味だ」


「あははっ!」


 小望月なりの冗談に日暈はのけ反って笑った。それも収まらないうちに、彼女は振り返って後ろ向きに歩き、小望月へ手を振った。


「ではおやすみなさい。小望月さんも気を付けてくださいね」


「どうも」


 フリーターは記者の背を見守り、明るいところへ出るのを認めて踵を返した。


 なぜ晦は彼女を出入り禁止にしないのか。その理由が少し分かった気がした。


 そんなことを思いながら、星だけが照らす闇へと消えていった。

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