後編
昼休み、後輩の山本と佐々木に誘われて近くのイタリアンレストランへ行くことになった。聡子も一緒だ。ランチメンバーとしてこの四人が顔を突き合わせるのは初めてのことである。
そもそも彼女たちは、聡子から手痛い洗礼を受けたことのある経歴の持ち主で、以来、聡子を敬遠してきた節がある。特に三年目社員の山本にいたっては作った資料を目の前で破られたという結構悲惨なエピソードまであった。
そんな彼女たちがあえて聡子を誘ったのには、裏があるに違いなかった。聡子が最近おだやかになったこともあるだろうが、間違いなく、橋本のことだろう。大方、聡子の恋バナを面白おかしく聞き出す、といったところだろうか。まったく、趣味が悪い。
なのに、それがわかっていながら、ランチの誘いを断りきれなかったのは、ひとえにその店の看板メニューであるボンゴレ・ビアンコのせいである。睦美の好物で、食べたい一心でつい誘いに乗ってしまったのだった。
冬の穏やかな日差しが差し込む気持ちの良い窓際の席。外のテラスでは、シェフ自ら栽培しているハーブが葉を揺らしている。もちろん、どれも店の料理に使われるものだ。
睦美は前菜の生ハムとルッコラのサラダをゆっくりと味わっていた。この店特製のドレッシングもとてもおいしい。手間暇かけなければ、なかなか出せない味だ。山本と佐々木は先ほどから「おいしー」ときゃあきゃあ騒いでいる。
「本当においしいわ。こんなレストランがあるなんて知らなかった。山本さんも佐々木さんも今日は誘ってくれて、ありがとう」
聡子が、後輩たちに礼を言った。聡子らしからぬふるまいだが、これが今の彼女なのだから仕方がない。
「よかった。喜んでもらえて安心しました。わたし、じつは前から西川さんとはランチご一緒したかったんですよ」
山本は心にもないであろうことをさらりと口にする。
メインのパスタが運ばれてきた。もちろん、ボンゴレ・ビアンコだ。睦美は待ってましたとばかりに、早速口を付ける。
「それに、今日はちょっと西川さんにお聞きしたいことがありまして」
「なにかしら? 私でよければ、なんでも聞いて」
ほらきた、と思った睦美とは違い、聡子はこれからされるであろう質問については、まったく予測していないようだった。純粋に後輩からの質問に答える気満々だ。
山本が佐々木に目配せし、それに応えるように佐々木が小さく頷いたのを睦美は見逃さなかった。
「ずばり、橋本さんのことです。橋本さん、素敵な
山本からバトンタッチされた佐々木が口を開いた。
「え、ええ。まあ、そうね」
聡子の声が裏返る。それから、慌てて付け加えた。
「だけどちょっと待って。私には仲をとりもってあげることなんてできないわよ」
聡子なりに嫌な予感を察知したらしかった。
山本と佐々木は互いに顔を見合わせてから、笑い始めた。悪戯なチェシャ猫のような笑い方だ。
「いやだ、西川さんてば。そんな図々しいお願いなんてしませんから、安心してください」
「そうですよお。そうじゃなくて、ただ、西川さんは橋本さんのことどう思ってるのかなって」
「え……?」
さりげなく本題へ切り込んだのは、佐々木のほうだった。やはり若さというのは、こわい。睦美は心の中でくわばらくわばらと唱える。聡子はといえば、顔をこわばらせたまま、食事の手がぱたりと止まってしまった。
「なにを急に。どうもこうも私は別に……」
「えー、だって。西川さん、橋本さんのこと絶対気になってますよね。ぶっちゃけ好きなんですよね?」
佐々木が聡子ににじり寄る。
いくらなんでもぶっちゃけすぎではないかと、睦美はひやひやしながら、なりゆきを見守る。やはりくるべきではなかったのだ。パスタはおいしくて、フォークは止まらないけれど。
「何を言ってるの、あなたたち。橋本くんはただの同僚、ううん後輩よ。歳だって離れているし」
パスタをフォークに絡めながら聡子は否定を口にするが、残念ながら彼女の狼狽は隠しきれていなかった。早口すぎるし、ところどころ噛んでいる。パスタもうまくフォークに巻き付けられていない。
睦美すらごまかせていないのに、普段から噂話や他人の恋愛模様に目がない彼女たちをごまかせるわけがなかった。
「またまたあ、センパイってば。隠し事はナシですよ」
佐々木が聡子に肩をすり寄せる。
「そうですよお。ねえ、狭山さん?」
「え、なに?」
山本に突然話を振られた睦美は、思わず間の抜けた声を出してしまった。この手の話は得意ではないし、傍観者を決め込んでいたので、まさか矛先がこちらを向くとは思っていなかったのだ。
「なに? じゃないですよ。もう。西川さんは絶対橋本さんのことが好きですよね、って話です」
山本は不満あらわに語調を強め、話の概略を説明している。
ああ、面倒くさい。睦美は眉間のしわに注意しながら、なるべく平たんに対応しようと心がける。いつ聡子がもとに戻るかもわからないのに、適当な相槌を打ったばかりに割を食うような事態は真っ平だった。
「さあ。私にはわからないわ。それに、それはあなたたちの勝手な憶測でしょう?」
「やだなあ、狭山さんってば。確かにそうですけど、西川さん、熱っぽく橋本さん見つめてるんですよー。これって絶対に恋じゃないですか」
佐々木が横やりを入れてきた。右手で拳を作って、恋を連呼している。
「ふうん」
睦美が気のない返事をすると、二人とも諦めたらしく、視線を聡子へと戻した。
「さあさあ、西川さん! 白状しちゃってくださいよ。恋に年齢なんて関係ないんですから」
「……そういわれても」
「結構ガード固いですね。じゃあ、好きかどうかは答えなくていいです。でも橋本さん素敵な人だし、きっとお似合いですよお。放っておくなんてもったいない!」
佐々木の訪問販売員のような口調に睦美は思わず吹き出しそうになった。けれど聞いていて決して心楽しいわけではない。むしろ不愉快だった。
若い女というのは、時に自分勝手で残酷なものだ。何を根拠にお似合いとか、人に期待を持たせることを言うのだろうか。
百歩譲って、聡子と橋本の両方の気持ちを知っていて、仲を取り持つというのであれば、わかる。それは彼ら両人のためだからだ。
だけど今は、自分たちの好奇心を満たすために、無責任なことを勝手に言っているにすぎない。どうせ、聡子をけしかけて、様子をうかがうつもりなのだろう。あるいは笑いものにでもするつもりか。
彼女たちが橋本を狙っていることは、睦美は知っている。普通ならライバルをけしかける真似なんてできやしない。
結局、彼女たちは聡子に勝ち目はないと、若い自分たちのほうが有利であると決め付けているのだ。そんな傲慢さが睦美には気に食わない。若いことがそんなにすごくて、偉いことなのかと思う。いくら若くたって、磨かなければペラペラの薄っぺらな人間でしかないのに、彼女たちはそれに気付かない。
困惑した様子で食事を続ける聡子に、二人はなおも「早くしないと誰かに獲られちゃいますよお」と囁き続けている。
「ちょっと。もう昼休み終わるわよ」
いい加減、神経に障った睦美は、佐々木と山本に腕時計を見せ付けた。ふたりとも「うそお」と言いながら、慌てて冷めかけのパスタをほお張り始める。温かいものは温かいうちに食べたほうが美味しいのに、彼女たちは喋るのに夢中で全然フォークが進んでいなかったのだ。
聡子はどこかほっとしたように眉尻を下げ、睦美に目配せした。どうやら感謝されているようだった。
聡子が失恋したのは、それから数日後のことだった。
それも告白して玉砕するのではなく、橋本に婚約者がいることが発覚するという、なんとも苦い結末となった。
睦美たちは橋本の口から直接婚約を聞いたわけではなかったが、営業二課の社員たちが彼の結婚祝いの相談をしていることから、信憑性はきわめて高い。噂によると、橋本の大切な女性は彼の大学の同窓生だそうだ。
橋本に恋人がいる可能性はもちろんあったが、彼に一筋の希望を見出していた女性社員たちの落胆ぶりは絵に描いたようだった。
山本と佐々木も、魂が抜けたように、仕事に身が入っていない。といっても、彼女たちの場合、いつもそんな具合だから、あまり気にはならなかった。それに、きっと彼女たちはこの程度では心折れたりしない。たくましくも、すぐに次を探すだろう。
心配なのは、聡子のほうだった。
他の女性社員とは逆に、聡子は至って普通だった。あまりに普通すぎて、無理をしているのではないかとつい勘繰ってしまう。仕事の合間にこっそり聡子の様子を伺うが、落ち込んでいる様子もない。
むしろ、聡子は本来の調子を取り戻しつつあるように見えた。
「佐々木さん、ちょっと」
目の前では、書類を渡しにきた佐々木が聡子に呼び止められている。
「なんですかあ?」
「あなたねえ、ここの計算間違ってるじゃない。それに日付も去年になってる。これ、ちゃんと確認したの?」
「はあい。すみませーん」
「はあい、じゃないでしょう。きちんと反省なさい」
聡子が真顔でぴしゃりと言い放つと、佐々木は急に青ざめ、動揺し始めた。まるで聡子の恐さを今、知ったかのように。
睦美から見れば、聡子の言い分が正しく、理にかなった叱責だと思う。だから別に恐いこともない。以前の彼女なら、もっとヒステリックにねちねちと怒ったものだが、ずいぶん変わったものだ。
お局にはもう戻らないだろう。睦美は直感する。叶わなかったとはいえ、彼女の恋は良い方向へと彼女を導いたのかもしれない。
向こうでは佐々木が山本に何か――多分愚痴だ――をこそこそ話している姿が見えた。穏やかな聡子に甘える形で順応してしまった彼女たちには何が起きたのかきっとわからないだろう。
「ねえ、狭山さん」
聡子が話しかけてきて、睦美は仕事の手を止めた。
「一服、付き合わない?」
そう言って指で煙草を吸うしぐさをした。睦美は普段は煙草はやらないが、まったく吸えないわけではない。前に何度か聡子と喫煙室で顔を合わせたこともあった。
「いいですけど、今日手持ちがないんです」
「私のでよければあげるわ」
睦美は聡子とともに席を立ち、ガラス張りの喫煙ルームに入った。
狭いスペースに立ち込めた煙の匂いにむせそうになるのをこらえ、もらった煙草に火をつける。聡子が美味しそうにふーっと長く白い煙を吐き出した。
「狭山さん、最近吸ってないの?」
「はい。値上がりしてからはごくたまにしか」
「そうなの。私はダメね。ヘビースモーカーじゃないけど、一日に数本は吸いたくなるの。禁煙しようと思ったこともあるけど、美味しくてね。やめられないわ」
聡子は軽く自嘲するように唇を歪ませ、窓の外へ目を向けた。睦美もそれにならう。灰色の分厚い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうだ。遠くのほうにはやや霞んだ東京スカイツリーが小さく見える。
「私のこと、馬鹿だと思ってるでしょう?」
突然放たれた衝撃的な一言に、思わず睦美はむせた。
「な、なんですか? 急に」
「狭山さんも気付いていたんでしょう?」
彼女は今にも落ちてきそうなほど低く垂れ込めた空へ視線をやったまま、また大きく煙を吐き出した。
「私、失恋しちゃったみたい、なのよね」
聡子はおかしそうに鼻をふんと鳴らした。睦美は何と言っていいか分からず、黙っていた。
「別にね、失恋したことはどうってことないのよ。そりゃあ、昔だったら傷付いたかもしれないけど。さすがに今はね。でも我ながら馬鹿みたいだったなあって」
彼女がどうして急にそんな話を始めたのかはわからない。
しかし、睦美は彼女の問いを反芻し、考えた。彼女が言うように、果たして『馬鹿みたい』なことだったのかと。
確かに恋する女に変貌した彼女にいささか抵抗を感じたことは確かだ。だけど、本人はとても幸せそうに微笑んでいた。色々な意味で自分自身を良い方向へと変えていった。それは決して馬鹿なことではないはずだ。
本人にとっては叶わぬ恋に踊らされたと感じているのかもしれないが、睦美から見ればただそれだけではない。彼女にはそこで得たものがあるのだから。
「私は、西川さんを馬鹿みたいなんて思ったことありませんよ」
心のままに答えると、聡子がゆっくりと睦美に顔を向けた。
「嘘つき。って言いたいところだけど、狭山さんはそんな嘘をつくような人じゃないわね」
そう言って聡子が笑うと、目尻と下まぶたに小さなシワが刻まれた。年齢に応じたものだろうが、味のある、どこか優しげなシワだった。きっと彼女の人生、そして彼女の恋が刻んできたものなのだろう。不思議とそんな風に思えた。
彼女の恋は彼女自身を変えた。そして今もなお、思い出をその
睦美は自分の貌に何を刻んでいくのだろう。何を刻むことができるのだろう。考えると、息苦しいほどの不安が胸に迫る。
睦美には恋愛で自分を変えることなんてできない。変えるくらいなら、一人のほうがマシだ。恋愛で得るものなんてなにもない。最後に恋したのがいつだったかさえ思いだせない。
それを、出会いがないとか、マシな男がいないとか、ずっと何かのせいにしてきた。そんな自分と比べれば、聡子は馬鹿なんかじゃなく、自分に素直で勇気のある人だ。それがほんの少し羨ましく思える。
聡子のくしゃみが狭い喫煙ルームに響いた。
少し懐かしい、豪快なくしゃみだった。だが、その手にはちゃんと白いハンカチが握られている。
睦美は白い息を吐いた。これからのことはわからない。だけど、恋をすることも、変わることもそう悪いことではないのかもしれない。
お局・聡子の恋は、睦美の心を春のそよ風のように吹き抜けていった。
向かい席の彼女の恋 yue @y_kotonoha
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