向かい席の彼女の恋
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前編
――またか……。
以前、社内で集団インフルエンザが発生したのをきっかけに、咳やくしゃみをするときはハンカチで口を押さえる、ひどいときにはマスクを着用するといった『咳エチケット』が推奨されるようになったが、彼女の辞書にそんなものはない。
それどころか、むしろ豪快に、周囲に撒き散らすかのように聡子は咳き込み、くしゃみを連発する。それも一冬中だ。今年もまた、その季節がやってきたことを思い知り、睦美は気が重くなった。
気の毒だとは思うし、アレルギーか何かなのかもしれないが、周囲の人間にとってはたまったものではない。モニターを飛び越えて、睦美の顔に冷たいものが飛んでくるときなんて、冗談抜きにぞっとしてしまう。
聡子のデスクに社員食堂に貼ってある咳エチケットの啓蒙ポスターを貼ってやりたいくらいだ。
さりげなく上司に相談をもちかけたこともあったが、それも意味をなさなかった。
彼女にうっかり注意なんかしたら、百倍返しものであることを上司も知っているからだ。百倍というのはやや大げさだが、ヒステリックな金切り声で、真っ向から反論されるのは目に見えている。下手したら、会社相手に訴訟をおこしかねない。
「まあまあ、狭山さんも大目に見てあげてよ。西川さんは先輩なんだし」
上司は、へらへらとした顔で睦美をなだめただけだった。
先輩――たしかにそうだ。
睦美も入社して十年の中堅だが、聡子はその比ではない。世間で言うところのお
むろん社歴や年齢でお局様と決め付けられるわけではないし、実際お局化していない彼女と同世代の女性社員だって働いている。前に聡子と同期だという女性と一緒に仕事をしたこともあるが、頼りになる素敵な先輩だった。
要は個人の資質の問題なのである。
だが、誰も注意できないからといって睦美はあきらめきれなかった。
一日の三分の一以上を過ごす職場環境のことなのだ。そう簡単にはあきらめられない。それに一番被害を被っているのは目の前に座る睦美なのだ。
悩んだ挙句、態度で示し、本人に気付いてもらう作戦に出た。
聡子が咳やくしゃみをしたときに、睦美のほうがとっさにハンカチで鼻と口を覆うのだ。我ながらちょっといやらしい作戦だとは思うが、背に腹はかえられない。
しかし、聡子はその行為に含まれるメッセージにはとんと気付かず、あろうことか「あら、狭山さん。つわり?」などとまったく笑えない冗談を吹っかけてきたのだった。
これには睦美も返す言葉もなく、開いた口がふさがらなかった。
聡子にまつわる問題は、何も咳エチケットに限った話ではない。
たとえば、まわりがあっと驚くような服装で出勤してきたりする。ゼブラ柄の超ミニスカートに生足だったときには、さすがに皆ドン引きしていた。いくら内勤とはいえ、あんまりだった。彼女の辞書には『咳エチケット』だけでなく、『ドレスコード』という文字もないのだ。
また、お局と呼ばれる人のほとんどがそうであるように、聡子もまた自分に甘く、他人に厳しいところがあった。特に若手社員には容赦なかった。被害を被るのはおもに、二十代の娘っ子たちだ。
彼女たちに否がないとは言い切れないが、それにしても厳しいを通り越して、恐ろしかった。さめざめと泣く女の子たちを見て、気の毒に思ったことも何度となくある。
できることなら、そんなものは見たくはないが、真向いでの出来事なだけに、自然と目に入ってきてしまうのだった。
――ゴホゴホゴホ、ゲホゲホゲホ。
睦美はメールの手を止めて、非難めいた視線を聡子に送った。またもや冷たいものが飛んできたのだ。
そこに見知らぬ男性が近づいてきた。隣には、営業二課の課長もいる。男の背は高く、なかなか精悍な顔つきをしていた。
「みなさん、お仕事中失礼します!」
彼がおもむろに声を張り上げると、とっさにその場にいた社員たちは仕事の手を止め、彼を注視した。聡子の咳も止まった。
「本日より営業二課に配属になった橋本悠一です。以前は丸の内支店にいました。早く戦力になれるよう精いっぱいがんばりますので、よろしくご指導ください」
落ち着きのある良い声だった。しかも、支店から本社への異動となれば、睦美の会社では出世コースだ。
睦美は橋本の頭のてっぺんから靴の先まで素早く眺めた。年は三十歳くらい。結婚指輪は見当たらない。スーツの上からでも引き締まった身体つきが分かるところをみると、恐らくなんらかのスポーツをやっているのだろう。
別に値踏みするつもりはないのだが、以前は営業職だったこともあり、つい相手を観察してしまう。
挨拶が終わり拍手に包まれると、女子社員のざわついた黄色い声があちこちから漏れ聞こえてきた。
無理もない。社内にいる男性社員は年齢層が高めだし、既婚者も多い。出会いのない職場だと悲観する者さえいる。そんな中、イケメンで将来有望な独身男性がきたとなれば、女性陣が寄ってたかるのも当然のことだ。別に驚くことでもない。
そう――驚くことはないはずなのだが、睦美はふと目にした光景に心底驚いていた。
あの聡子がハンカチで口元を押さえたまま、瞬きもせず橋本に熱い視線を送っていたのだ。それだけではない。こほこほとずいぶんと可愛らしい咳をしている。先ほどまでの豪快さはどこへいったのか。
橋本を見て、若手女子社員が期待に胸を膨らませて騒ぐのは、わかる。だけど、聡子の場合は話が別だ。
年齢云々を言っているのではない。仮に、聡子と同期の女性が彼と付き合ったとしても、驚きはしないだろう。
それが聡子だから、睦美は驚いているのだ。
一緒に働いて三年、聡子の傍若無人ぶりを間近で見続けてきた。彼女が自分自身を何より優先させる人であることは間違いないはずだ。
そんな聡子が他人に対して特別な好意を持つことも、ましてやその人のために自分を変えるということも、睦美には受け入れ難かった。
彼女は決して他人に振り回されたりするようなタイプではない。そんな彼女だから独身を通しているのだと、心のどこかで思っていた。
だけど今、聡子は十歳以上も年下の男にすっかり心を奪われてしまっている。少女のように頬を赤らめながら。
睦美はもぞもぞとお尻を動かして姿勢を正した。メールの続きを打とうと、再びパソコンに向き合ったが、指が動かない。思いもよらぬ光景を目の当たりにしたせいで思考が停止していた。
聡子はといえば、いまだハンカチを手放さず、口元に添えたままだ。『そういえば、ハンカチは今まで使わなかっただけで持ってはいたんだな』と、どうでもいいことを考える。
うん、まあ、一時的なものだろう。睦美は思った。二、三日もすれば、いつものお局・聡子に戻るに違いない。
そう自分に言い聞かせ、仕事を再開した。
橋本が転任してきて、一週間が過ぎた。
だが、睦美の予想に反して、聡子の様子はおかしなままだった。
レースのハンカチを口に当て、「くしゅん」とか「こんこん」とかごく控えめに咳やくしゃみをしている。おかげで冷たいものが空から降ってくることはなくなった。
しかも、それだけではない。
服装もシックな色合いのスーツや女性らしいドレープのきいたワンピースに変わった。今まで見たこともない服ばかりだから、新調したのかもしれない。
メイクは派手めのものから、落ち着いた深みのあるものへと変わった。見た目の印象というのは、ばかにできないものだ。人間に値打ちを付けられるなら、今の聡子はちょっとプレミアが付いた感じである。
あれだけ厳しく接していた若手の女子社員にもやさしくなった。教え方も、注意の仕方も、まるで別人だった。
(いったい、どうしちゃったんだろう?)
睦美はパソコンごしに聡子を観察し、首をひねらざるおえなかった。
本当にすべては恋する女ごころ――つまりは乙女ごころのなせるわざだというのだろうか?
どうにも腑に落ちない思いで、コーヒーに手を伸ばす。
乙女ごころなんて、これほど聡子に似合わない言葉はないとか、ちょっと気味が悪いとか思わぬことはないが、それは偏見だと睦美は自分を諫める。
恋する権利は年齢や性別、容姿に関係なく、誰にでもある。それが叶うかどうかは別として。
そして恋というのはどうやら理屈ではないらしいということも知っている。世間一般のカップルを見てみれば、彼らは自分に釣り合うとか、見合うとか考えて相手を選んでいるわけではないことは一目瞭然だ。
だから、聡子が十歳も年下の男相手に恋に落ちたとしても、不思議ではない。そしてその恋によって彼女が変わったとしても、それは自然のなりゆきなのだろう。
頭では理解しているのに、睦美には靴を左右履き間違えてしまったような違和感がどうしても拭えない。別の誰かが聡子の皮をかぶっているのではないかとつい勘ぐってしまう。
それは多分、恋愛で人が変わるということが睦美にはピンとこないせいだ。恋をしたことがないわけではないが、いつもそれは他人事のようだった。自分は透明のガラス瓶の中に入っていて、すべてはその外側で起こっている。そんな感じだ。自分の気持ちすら例外ではなく、恋する自分をガラス越しにじっと冷静に見ている自分がいる。当然、恋にのめり込めるはずもなかった。
ある男は、「君との距離が縮まらない」とドラマのような台詞を口にして、睦美から遠ざかっていった。
そんな睦美に、聡子の気持ちを理解しろというほうが無理な話なのだ。
恋する女として、すっかり変貌をとげた聡子だったが、その恋は一向に進展する気配を見せなかった。進展どころか、ふたりには接点という接点すらないままだ。
聡子自身、これといったアピールをするでもなく、陰から橋本を見つめているだけなのだから無理もない。遠慮しているのか、近づき方がわからず戸惑っているのか、彼女の胸中は残念ながらはかりかねる。
もっとも、橋本もわりと淡泊なのか、他の女子社員が言い寄ってもうまい具合にかわしているようだった。
一度だけ、聡子と橋本が話しているのを見かけたことがある。そのときは、コピー機の紙詰まりで困っていた彼を聡子が助けてあげているところだった。たったそれだけのことなのに、彼女の横顔があまりに嬉しそうで、睦美は何だかいたたまれない気持ちになった。
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