ノート1:【予備室】

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  【予備室】


 高校に入学してすぐ、兄に連れられ演劇部の部室に行った。私の入部はもう決定済と言わんばかりに、兄はその活動内容や現在いかに危機的状況であるかを道中滔々と説いた。

「信じられるか。おれと澤田、豊泉の三人だぞ。引退した今の三年にしても五人だったけど、その前は七人でな。二人ずつ減ってるんだよ。今年おまえだけになったらもう存続不可能だろ? 来年どうやってひとりで部員集めるんだよ。新歓どうすんだ? 一人芝居か? 嫌だろ? だから今必死にならなきゃいけないんだよ、おまえが」

 元々兄の身勝手さには慣れていた。彼は器用な男で、相手が要求を呑むギリギリのところを見据えて行動を起こしてくる。今回も、中学では特に入りたい部活がないからと興味もないのに科学部に所属していた私の無頓着ぶりをよく理解しての行動だった。演劇部といってもろくな活動をしていないらしいことも私はよく知っていた。こうして兄に引っ張られるようにして道を進んでいくことに間違いが少ないこともよく知っていた。私は兄を信頼していた。

 部室は三階の西の端にある予備室という空き部屋だった。二十ほどの机と椅子が後ろに寄せられ、うっすらと埃をかぶっている。前方部分には黒板前の空間をゆるく囲むように椅子がいくつか並んでいる。

 おかしいな、まだ来てないのかと大きな声で言いながら兄は窓際に積まれている椅子を持ち上げ、私に手伝うように言った。部活見学の初日である今日、先日の新入生歓迎会での三人の寸劇に手ごたえを感じているらしい兄は、じゃんじゃん来るだろう見学者のためにたくさんの椅子を並べた。十ずつの列を二つ作っているところで、遠慮がちな音を立ててドアが開いた。

 もう来たか、と振り向いた兄は露骨にがっかり顔をした。

「なんだ澤田か」

「悪いな、遅れた。豊泉は後から来るから」

「ふうん。クラス違うのに、よく知ってんだな」

 澤田はドアを後ろ手に閉めながら私を見た。そうして困惑の表情を隠さなかった。

「こいつ、弟」

 兄の言葉に澤田は大きくうなずいた。

「やっぱりそうか。驚いた、ほんとに似てるんだな。実は双子なんじゃなくて?」

「そうそう双子がいてたまるかよ。よく見ろ、髪の色が違うんだよ。おれはうっすら茶色がかってるだろ? こいつは真っ黒」

「そうか? 同じように見えるけど」

「違いのわからない男だな」

「いやほんとそっくりだよ、親も間違えそうなくらい。そういや豊泉も小さい頃は母親に姉と間違えられたことがあるって言ってたな」と澤田は後方の机の上にカバンを置きながら言った。

「双子って先に出たほうが弟、妹なんだっけ。あれなんで?」

「さあ。知らんよ。実質双子に兄も姉もないと思うけどな」

 兄は黒板の前に移動してチョークを手にして言った。

「今日はとりあえず活動内容の説明と今年度のスケジュールな。大会、九月か?」

「十月じゃないのか。調べないとわからんが」

 私は二列に並べた椅子の後ろの端に座った。カバンを置いた澤田が近づいてきて、すぐ後ろの机に飛び上がるように腰かけ、私に声をかけた。

「名前、なんだっけ」

「シンジです」

「そうか、シンイチにシンジか。入部したいの?」

 それは、誰の意志で私がここにいるのかということを問うているように聞こえた。

「入部するんだよ」

 私の代わりにチョークを動かしている兄が答えた。澤田はちょっとそれを見て、私の真意を確認するようにまたこちらに顔を向けた。

「本当?」

 少し小さな声だった。私はうなずいた。実際、入部してもいいと思っていた。兄のそばにいることは私にとって安全であり安心だった。

「もしそうなら、なんか名札とか、目印欲しいなあ。普通に廊下ですれ違ったら、おれどっちかわからんくてシンイチだと思って声かけちゃうかも」

「冗談だろ」

「本気だよ。豊泉もきっとそう言うと思うよ」

 兄は黙った。チョークで黒板を叩く音だけがやけに甲高く部屋に響いた。私は豊泉が来るのを待ち遠しく思っている自分に気づいた。兄が演劇部にいる同学年の女子にどうも懸想しているらしいということには、去年の夏ごろからなんとなく気づいていた。兄が好きになるタイプというのはいつも似通っていて、中学のときに家に連れて来た彼女は時期を前後して二人いたが、それぞれが陽気で明るく、そこにいるだけで空間を照らす華やかさを持っていた。そのうち後のほうのひとりは、顔の造形は美しいとは言えなかったが、その屈託のない笑顔と愛されて育てられてきただろう素直さや優しさは私にも大きな魅力として映った。だからこそ兄の悪趣味な悪ふざけに乗る気にもなったのだ。

 豊泉の名を何度も出す澤田もやはり兄と同じなのだろう、兄を牽制しているようにも見える。

 だが豊泉はなかなか来なかった。他の新入生も一向に来る気配はない。そもそも部室の場所が悪い。勧誘のビラやポスターは一枚も見かけていないが、そのあたりはどうなっているのか、おずおずと澤田に問いかけようとしたときだった。

「大会と文化祭は、今年は違う作品でやりたいと思ってるんだけど、どうかな」

 澤田はまっすぐに兄の後頭部を見つめて、やや大きな声でそう言った。

「賛成。今年は去年よりちゃんと活動しようって決めたもんな。おれの大作は大会でも十分通用すると思うぜ」

「それなんだけどさ」

 そうして澤田は一瞬間を空けてから言った。

「おまえのやつは文化祭でやるのはどう? 最近出たばかりの演劇台本集があるんだけど、なかなか面白いんだよ。それも含めて、大会用にはみんなで話し合ったうえで納得できる台本にしたほうがいいと思う」

「部長はおれだぞ」

「言い出したのは豊泉だ」

「また豊泉か。あいつがそう言ってるんなら、あいつと話す。おまえを通してるだけじゃ真意がわからないからな」

「まずおれから打診してくれって頼まれたんだよ。もうすぐ来ると思うから、そしたら部長と副部長で話し合ってくれ。おれは帰る」

「無責任だぞ」

「おまえがおれとは話さないって言ったんだろう」

「おれが部長なのが不満か?」

「いや、妥当だと思う。実際おまえには台本を書く才能がある。だけど二人になったところで才能は倍にはならないからな」

「当たり前だろ。こいつはただの頭数だ」

「奇数を偶数にしたところで分断はパターンが増えるだけだぞ。弟に頼らず、もっとまじめに勧誘したほうがいいんじゃないか。先延ばしにしてたポスター、どうなったんだ」

「あれは、これから描く」

「新歓パンフに載せる紹介も、締切忘れてたなんて嘘なんじゃないか? 豊泉があんなに頑張って書いたのに」

「忘れたのは本当だ。豊泉にも謝った」

 私は二人の激しい応酬を見ながら、自分が兄に期待されている役割に気づいた。おれは新入生という記号であり、部長としての責務のとりあえずの成果だった。兄は三人の世界を不満に思いながらもそれを壊すことに抵抗を感じているようだった。

「じゃ、また明日な」

 澤田は口だけでそう言うと、兄も私も見ずに部屋を出て行った。ドアを閉める音は意外に穏やかだった。兄は書きかけの黒板の文字をしばらく見つめてから、続きを再開した。

「あああ。嫌なとこ見せちゃったな。幻滅したか?」

 兄は黒板を向いたまま言った。

「いや、大体知ってたから」

「澤田がちょっといけ好かない奴ってのは、話してたもんな。いつもおれの上に立とうとする。指摘すれば否定するんだろうけど、見え見えなんだよ。全部な」

 そのとき、するするとドアが開いた。胸までの黒髪を垂らした少女が白い紙束を持って立っていた。それが豊泉雪子だった。

「ごめんなさい、遅れました。これ、配ってたの」

 そうして紙束の表を胸の前に掲げた。「演劇部 部員募集」と書かれていた。

「それ、ビラか」

「そう。勝手なことしてごめんね。でも人数増えれば、台本の選択肢も増えるし。キャストだけじゃなくてスタッフにも興味ある子いるだろうから、そのへんも強調しといたよ。何人か、来てくれそうだった」

 そうして笑い、紅潮した頬がきゅっと上に持ち上がった。

「ほんとか。すごいな、豊泉」

「あれ、澤田君は? ……って、ええ! あなた、弟君?」

 ドアを閉めて部屋に数歩入ってからようやく私に気づいたらしかった。

「そう。シンジ」

「えー、びっくり! ほんとそっくり! 双子じゃないの?」

「澤田にも言われたよ」

「なんか、こっちがかたなしだよ。私双子で姉いるんだけど、そんなに似てないもん」

「二卵性だからな」

「ほんとすごい。やだ、わかんない。区別つかないよ」

「やっぱ目印必要か?」

「必要必要。えっと……どの方向からでもわかるように、帽子か、ハチマキか、そういうの」

「じゃ、用意しとく」

「ていうか入部決定なの?」

「ああ、決定。な?」

 私はうなずいた。

「ほんとに? 演劇に興味あるの?」

 豊泉は澤田と同じようなことを聞いてきた。

「というか、特にこれといって興味のあるものがないから、なんでもよくて」

「中学のときは? 帰宅部?」

「いや、うち帰宅部なかったから科学部」

 兄が代わりに答えた。

「へえ、理系なんだ?」

「どっちかっていうと文系だよな。数学苦手だし」

「あ、そこが違うんだ。喜多原君理系だもんね。って、どっちも喜多原君なんだ。じゃあ、今日からは苗字じゃなくて、別の呼び方しなきゃ。よろしく、えー、部長に、シンジ君」

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