その四畳半の部屋は、以前は祖母の古い足踏みミシンだの汚れた籐椅子だのが雑多に置かれている物置に過ぎなかった。慎重に、ドアを浮かすようにして手前に引く。おもちゃのように軽いドアだ。やはりそうだ、とこのときも感じた。アパートの部屋に比べ、何もかもが一回り小さく感じるのだ。まるで箱庭だった。このドアも、取るに足らないくらい、小さい。

 雑多に置かれていたものものはいずこかに消え、畳の上に布団と、タンス代わりの衣装ケースが置かれていた。部屋の隅に、大きな旅行バッグと、その前にピンク色をしたポーチが一つ、置かれていた。それだけだった。サキは、衣装ケースと同じくらいの存在感で布団の中に体を横たえていた。静かにドアを閉めるとき、ドアノブに引っかかっている金属製のプレートに気づいた。簡易鍵だ。鍵をかけ忘れたのか、敢えてかけていないのか、おそらく後者だろうとおれは思った。サキが布団の中から目を開けてこちらを見ていることに気づいたからだ。

「ごめん」

 咄嗟に出た。女性ひとりの部屋に忍び込むという後ろ暗さには勝てなかった。

「明日、帰るから、少し話したくて」

 あくまでも忍び声で話すおれに、サキは枕の上でうなずいてみせた。

 布団のすぐ横の床に座ったおれは、サキを見下ろす形になった。サキはおれを見上げていた。暗闇の中で、白目がやたら白かった。

 サキに言いたいことは整理してきたはずだった。だがサキの白目を前に、おれは言葉が出てこなくなってしまった。顔に、髪に触れたい衝動を必死に抑えながら、言葉を絞り出した。

「君、今、幸せ?」

 サキは白目でおれを捉えたままじっとしていた。答える代わりに上半身をゆっくりと起こし、小さく息を吐いた。

「うん。そう、思う」

 そうして後頭部の髪を押さえつけるように撫でた。

「あなたは」

 言われておれは口ごもった。改めて、なんでこんなことを聞いたのだろうという後悔の念が広がってきた。

「あなたは、どうなの」

「わからない」

「私、自分が幸せかどうか、ということは、考えないようにしてきたの」

 サキはそこで一呼吸置いた。

「いまの自分にあるものを、とにかく、数えるようにして生きてきたの。ないものじゃなくて、あるものをね。そうして、何が欲しいのか、じゃなくて、何がしたいのかってことだけを、ずっと考えてきた」

「何がしたいの」

「それはまだ、わからないの」

「欲しいものは、ないの」

「それを考え始めると、止まらないの。それはつまり、ここにないもののことを考えるっていうことだから。それは、よくないことだから」

「欲しいものを追い求めるのが、生きるっていうことじゃないの」

「あなたがそう思うなら、そうすればいいと思う」

 サキのその突き放すような言葉は、おれの情動に自由を許すことになった。おれは両手でサキの顔に触れていた。両手で頬に触れ、優しくこちらを向けて、それに見入った。

 サキは一瞬、恐怖の表情と声を生んだ。その声はあくまで小さかった。手で触れる以上のことをしてこないとわかった途端、おれたちの目は結び合った。

 その小さな顔を胸に抱き、おれはサキの頭頂部の匂いを嗅いだ。懐かしい匂いだった。知らないはずなのに、安心する匂いだった。サキは何も言わなかった。おれが髪を撫でても、背中に腕を回しても、唇で軽く耳を食んでも、震えはしたが何も言わなかった。ただおれのされるがままにして、最後におれの目を見た。

 そうして、おれの頭を静かに撫でた。

「お父さんと、同じ顔。でも、全然違う」

 小さくそう言った。首をかしげる。おれを覗き込む瞳が、唇が、小さく震える。

「ここに、いてほしい」


「それ、全部あなたの妄想じゃないの。それか夢」

 ヒナはクッションを抱えたまま吐き捨てるように言った。随分な言い草だとおれは思った。

「意欲が空回りしてる新進映画監督の凡作みたいなセリフ。そのいとこって、実在するの」

「するよ」

 おれは携帯をヒナに差し出した。サキから来たメールの画面だ。

「これが妄想だって? 夢だって? 確かに実在する女だ。ずっとおれの心の中にいた、理想の女の顔をした……」

 ヒナは分厚い唇を突き出しておれを見ていた。その目にははっきりと非難の色が宿っていた。

「でも、なんでそれを彼女の私に話すの」

 そうか、とおれは気づく。サキとヒナとはまったく分類が別、ということをどうにか説明したかったが、うまくいかなかった。

「ごめん」

「鞍替えしたいと思ってるの」

「そういうんじゃないんだ。サキは、なんていうか、精神的な、存在なんだよ」

「私は肉体的な存在なの」

「そうじゃなくて」

「言い訳下手だな。わかってるよ。本当にそうなら、私に報告するはずがない。でも、そんなこと考えられないほどに惹かれちゃってるって可能性も、なくはないけど」

「そうじゃないんだ」

「そればっかり。まあいいよ。サキちゃんのことは、追々話しましょう。そうじゃなくて、今日は、感想を聞きに来たの」

 言われておれは思い出した。ヒナは、夏休み中に書き上げたという映画の脚本を、どっさりとした紙の束でおれによこしたのだった。渡されてからまだ一週間だ。

「全部は読めてないよ」

「だと思った。長いもんね。これ、実際撮るのは難しいかなって思ってる。だから、コンクールに出そうと思うの。締め切りは年末だけど、今月中にはお願いね」

 おれはバッグの中に入ったままの脚本の束を取り出した。

「ちょっと。持ち歩いてるわけ」

「だめ? 電車の中とか、時間を有効活用したくて」

「万が一紛失して、盗作されたら大変」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない。この部屋で読んでちょうだい。夜はどうせ暇でしょう」

「バイトしようと思ってた」

「年内はやめて。お金に困ったら貸してあげるから」

「借金はごめんだ」

「お願い。君しか、頼れないんだ」

 思ったことをぽんぽんと放り投げても、怒りもしないし驚きもしない。ただ受け止めて、返してくれる。ヒナはおれにとってありがたい、唯一の存在だった。

「脚本って読むの初めてだけど、小説と違って難しいね。場面をすべて想像で補わないといけない」

「描写がないからね。説明もない。場所、動作、セリフ。簡潔でしょ。それが美しいところでもある」

「まだ、最初の部分だけど。似てない双子にそっくりな兄弟って、紛らわしくない? 設定自体がストーリーの小道具になっちゃってて、相当うまくまとめないと厳しいんじゃないかな」

「最初って、どこまで読んだのよ」

「台本コンペの直前」

「まだそこなの? それで、そんな……小道具ですって? 結末を知らないくせに、そんなこと言われたくない」

「ごめん」

「とにかく急いで読んでね。私もう帰るから。今日は寝るまで読むのよ」

「もう帰るの?」

「君が読み終わるまで、私はその布団に入らない」

 ヒナはベッドを覆う水色の布団を指さして言った。

「それは命令?」

「卑怯だとは思うけど、私本気。急いでるの」

 そう言われたときは、残念ながらヒナの思っているような効果は得られまいと思ったが、いざ本当に帰られてしまうと、寂しさが沁みてきた。人が帰った後の部屋というのはどうしてこうも当然のように不足感を漂わせるのだろう。

 おれは、ヒナを表す、精神的存在の対になる言葉を考えた。触れて、抱ける、肉体的な存在。確かにそこに存在すると確かめられる存在。それは現実だ。あいまいではなく、確実にそこにあるという、現実だ。大多数の人間は、おれにとって不確かだ。名前を持った、観念的な存在でしかない。交わす視線や会話の意味は主観によって揺れ動く。なめらかで冷たい髪、雨の夜の空気を吸った重たい唇、水を含んだような腕の肉。それらはおれの触覚を通して生を得る。おれの世界の住人になる。

 サキの存在を確かめるようにその髪を撫で体に触れたことが、夢のように思い出される。ヒナもサキもそれぞれの肉体を持っている。それぞれに惹かれている。だが同列に考えることができずにヒナにサキとの夜を話してしまったことは、おれ自身が混乱の最中にいることを証明してしまったようで気が滅入った。

 気持ちが、考えがまとまらず、整理できなかった。おれはあの夜以来、ずっとサキのことを考えてきた。サキに送った「最近どう?」という軽いメールに対する返信を、何度も何度も見返してはあの夜の感触に浸った。


『寝ているときと、泣いているときと、本を読んでいるときだけ、わたしはわたしであることを、忘れられます。逃げていると思いますか。わたしはわたしを、哀れみます。そうしないと、立っていられないんです。』


 こんなメールをヒナが見たら何と言うだろう。頭の表面に残ったヒナの感覚で以てこれを見ると、歪んで見える。よくわからない文面でもって興味を誘うか心配という同情を得るかを狙っているのではと勘ぐってしまう。初めてこれを読んだときの胸を突く熱さは、いつまで経ってもやって来ない。

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