図書館で「百年の孤独」を探してその分厚さと字の小ささ、ラテンアメリカの人物名に馴染めなさそうだ、といったことから、おれはそれを読むことを早々に諦めた。

 今でこそ常に読みかけの本がある日々だが、もともと本を読むことはあまり好きではなかった。読むようになったきっかけは、高校に入ったときに電車で見かけたある光景にあった。見るからに勉強のできない、遊ぶことしか考えていないように見える金髪の男子生徒が、とある文豪の文庫本に熱心に目を走らせていたのだ。

 おれは文豪のその変わった名前だけは聞いて知っていたが、どんな文章を紡いで死んでいったのかについてはまったく知見がなかった。だから、その光景は衝撃だった。本に限らず、おれはいつからか勝手に、「これは自分の手の届く領分ではない」と決めつけて距離を置くようになっていた。その金髪の男は、おれのその考えを豪快に打ち砕いた。

 おれはすぐに、同じ本を買った。金髪男の手に隠れていた表紙イラストは、想像していたものよりこじんまりとしていた。読み始めると、存外楽しめた。自分の知らない時代や場所の空気を味わえることが面白かった。

 冊数を重ね、いくらか読書に慣れてくると、おれは不遜な手を伸ばしてなるたけ字の詰まった本を選んで読むようになった。ページをめくるごとに辞書の世話にならなければいけないような本もずいぶんと読んだ。法学部のヒナが文学部のおれ以上に古今東西の文学に精通しているらしいことは、おれをいささか消沈させた。自分は読書家ではない、と言い張るのだから尚更だ。有名なものをつまみ読みしているだけで、全作品を読破しているような作家はほぼいない、ということだったが、「ほぼ」ということは、全作品を読んだ作家がいるということだ。あとで聞いたら、それは梶井基次郎と尾崎翠ということだった。おれは梶井の「檸檬」以外未読だった。

 だから、深沢七郎を、楢山節考の人だよ、と言われても、わからなかった。ヒナはおれが文学部に入った理由を知りたがった。

「文学部の教授というのは、本を読むのが好きで、得意な人たちだろう。だから、本を楽しめる読み方とか、そういうのを学べるんじゃないかと思ったんだよ」

 しばらく考えてひねり出した答えを、ヒナは面白がった。教授というのは大体本を読むのが好きで得意なんじゃないのとも言った。

「でもそうか、本が嫌いだから文学部に入るっていうのも、立派な理由だよね。じゃあ読書自体、趣味じゃなくて勉強みたいな感じなの?」

「それに近い。いつか読書を、特技にしたい」

「速読とか?」

「そういうのもいいけど、単純に、その本に対して一番ふさわしい読者になれるようになりたい」

「単純じゃないよ、それ」

 ヒナはくつくつと笑った。

「図書館と友達になりなよ。図書館は、いいところだよ。サトシはもしかして、図書館にいる自分を場違いだって思ってない?」

「大学の図書館では、正直そう思う」

「あーそうか、一般の人は入れないしね。でも普通の市立図書館とかは違うでしょ。そっちがいいよ。コンビニ以上に、誰でも受け入れてくれる場所だよ。お金必要ないもん。本はどんな人も差別しないんだよ。優しいから、安心する」

「そうかな。おまえなんかに読まれたくないってオーラを発してる本はあるよ」

「何それ。たとえば」

「学者先生が書いた難しい本。なんとか論とか」

「それは単に、サトシに素養がないからでしょう。じゃあ、小説。小説は、それこそ、誰も選ばないよ。優しいよ」

 それはすぐに見つかった。「笛吹川」。するりと本棚から抜き取り、ぱらぱらとめくってみる。これなら読めそうだ。図書館という手もあったが、どこにあるのかも知らず、利用登録もなんだか敷居が高く感じられたため、ヒナによる課題図書は文庫本で買おうと思っていた。ちょうどよかった。

 会計を済ませて書店を出ると、平積みのベストセラーコーナーの前にサキを見つけた。サキは昨日と同じ黄色のワンピースを着て、平積みされた本たちの表紙を順々に眺めていた。

 声をかけようかどうか、迷って歩みが淀んだせいかもしれなかった。不自然な動きに、サキが顔を上げてこちらを見た。そうしてそのままおれの顔を見つめた。

「仕事、終わったの」

 おれは、買ったばかりの文庫本の入った青緑色の袋をサキに見せるように体の前で何度か上下させた。おれがここに来た理由を明確にさせる必要があった。サキは袋は見ずに、おれの顔をじっと見つめた。

「そんなわけないか、これから? ここけっこう、遠いけど、大変じゃない?」

 口を結んだまま開こうとしないサキに、おれはそう言った。

「今日、バイトはお休みの日です」

 書店から出ようとする女性客の邪魔になっていたおれは、慌ててサキのとなりに移動しながらその言葉を聞いた。

「図書館に行こうと思ってたんですけど、図書館がお休みだったので、ここに」

「ばあさんは、バイトだって、言ってたけど」

 サキはきまり悪そうに目を逸らした。嘘をつかなければいけない理由があるのだ。

「ねえ」

 おれはサキの顔を真正面から見るために、少し声を大きくした。

「なんか、困ってることとか、ないの。おれ、追い出されたけど、一応いとこだし、なんかできることあったら、相談乗る、けど」

 自分の言っていることが自分にふさわしくないような気持ちでいっぱいだった。サキは、思惑通りその美しい顔をおれに向けた。細く、白い顔だった。ヒナと同じ、だがヒナとは違う、あの泉を想起させるような深さを湛えた瞳で、おれをまっすぐ見つめた。ずっと見ていたいと思った。抱きしめたい衝動にすら駆られた。だが、脳のどこかから飛び出してきた「母親と同じ顔」という認識が、おれを止めた。

「ありがとう」

 小さな声だった。

「でも、大丈夫です」

 瞳の中に、確かな期待を感じ取っていたおれは、そこで引き下がれなかった。ヒナの裸体を前にしたときよりももっと深い情動がおれを突き動かそうとしていることに、得体の知れない喜びを感じた。

「おれは、父親と同じこの顔が嫌いだ」

 突発的な言葉だった。だが嘘ではなかった。サキが何かを探るように眉をきゅっと下げた。

「父親も、理解できない。君は、どうなんだ。あの家が、気持ち悪くないのか」

 気持ち悪い、という言葉は自分でも意外だった。

「私は」

 サキはそう言ってから、何かを気にするように周りを見た。おれはサキから目を離さなかった。

「私は、余りだから」

 サキの遠慮がちなその言葉に、割り算の筆算で…の後に示される数字がすぐに思い浮かんだ。あの、気持ち悪い解決方法。サキは続けた。

「どこにいても持て余される、そういう存在だから。申し訳なく、思う」

「誰が決めたの、それ」

「私以外の、みんな」

「みんなは、そんなに君のことばっかり気にしてないと思うけど」

 自分自身に同じ言葉を投げかけられないことが不思議だ。他人のことはよく見える。

「でも、おばあさんは、私を嫌ってる」

「父親は、そうじゃない。あの家は父親がルールだから」

「叔父さんには感謝してます。だから早く、私」

 サキはそこで言葉を区切った。

「普通に、ならないと」

 そうしておれの反応を待つように口を閉じた。その瞬間、おれとサキの二人が雑踏から浮かび上がったような感覚を得た。

 あの得体の知れない喜びがまた、湧いて出た。

 この女をおれの人生から去らせてはいけない。

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