みんな、という単語が出てくるたびに、心がちくりと痛むことに気づかないよう努力してきたことを、おれはそのときようやく認めた。その言葉に自分が内包されていないことは自明だった。きっとおれ自身が拒否していた。

 死は、母親を包むずだ袋のようなものだった。それを前にしたり、触れたところで、多少の不快感と倦怠感くらいしか生まれないだろうことはわかっていた。死は母親の居場所でもあった。自分が切望し、焦がれるものの源でもあった。焦がれることは生のエネルギーを要した。つまりは生と死は表裏一体であり、アリストパネスの言ったような太古の人間の姿に擬するということを、脳のどこかで理解していた。

 ヒナの質問に、おれはあいまいな笑みで応えた。ヒナはしばらくおれの返事を待っていたようだったが、ふとバッグの中身を漁り出した。白地にカラフルな花柄のトートバッグで、ヒナの茶色く柔らかそうな長髪によく合っていた。

「連絡先を教えてください」

 ヒナが取り出したのは、画面が指紋だらけの携帯だった。やたら真剣な目つきでおれの顔を見ている。連絡先の交換を終えると、ヒナはすぐにおれに電話をかけた。

「確認です」

 何故急に敬語になったのだろうと思いながら、携帯を操作するヒナを見た。携帯に目が行っているために、遠慮なくその顔を見ることができた。店内のぬるい空気のせいか頬が紅潮していて、瞳も幾分現実に降りてきたように見えた。描かれた眉の上に本物の細い眉毛が遠慮がちに並んでいることが、不思議と好ましく思えた。

 携帯が震えた。ヒナからだった。ヒナは携帯を耳に当てて何かを期待するようにこちらを見ている。おれはとりあえず電話に出た。

「はい」

「あっ。もしもし。もしもし」

 目の前にいるヒナの声が、数千種に過ぎないというコードブックの合成音に成り代わっておれの耳元で再生される。

「もしもし」

 ヒナに倣って言う。ヒナは初めて見せる満面の笑顔でおれを見た。

「ありがとう」

 そうして携帯を耳から離した。おれも同じように離した。ヒナのほうから通話を切った。

「繋がったね」

「うん、そりゃ、そうだね」ヒナの行動の意味をよく掴めず、おれは言った。「なんで敬語になったの」

「えっ。あ、ちょっと、緊張して」

「なんで」

 ヒナはこのとき、その理由をまだ説明してはくれなかった。笑ってしまう話だが、後にヒナはおれを「夢の男の子」だと言った。

「夢にたまに出てくる、顔がよくわからない男の子がいて、君を見たとき、なんでかわからないけどその子が現実に現れたって思ったの。顔はわからないのにね。不思議でしょう。声をかけられたときも、会いたいって思ったら出てきたから、やっぱり夢なんじゃないか、現実には存在しなくて、自分にしか見えてないんじゃないかって不安になって、それで電話したの」

 言葉をたびたび区切りながら、とても恥ずかしそうに言った。

「夢でおれは、どういう役割なの」

「となりにいたり、一緒に寝たり、そういう人」

 それは恋人だろうか、とおれは思った。

「名前はないの?」

「ないよ。現実の知り合いの誰でもない。ただ、なぜか懐かしい感じのする、誰か」

 それはもしかしたらヒナの父親または父親的存在なのではないか、と思ったが、このときはまだ、ヒナの過去や家族のことを聞く勇気はなかった。自分が同じことを聞かれたとしても、うまく話せる自信がなかったからだ。

 これ以降、たびたびおれは、大学の内外問わず、ヒナと会った。一度学食で、おれとサークルの橋役になった友人の佐々山に見つけられ、あらぬ誤解を受けたことがあったが、佐々山はその誤解を楽しいもの、近く現実になるものとして受け入れているようだった。事実そのようになった。

「佐々山君は、黒澤映画を全制覇するって言って一生懸命見てるの。こんなに面白い邦画があったなんて、って新鮮な驚きからね」

 理学部棟のすぐそばにあるカフェテリアは、普段の行動範囲より少し足を延ばさないと行けないことから、あまり知り合いに会うことがない穴場だった。ヒナはそこで映画サークルやメンバーに対して思うことを、一通り辺りを見回してから、訥々としゃべった。

「でも部長は、それに対して批判的なんだ。そんなのより、小津とか溝口の芸術的な映画を見たほうがいいって。理由を聞いたら、部長自身の考えなんて全然出てこないの。大衆的な娯楽性を持ったものはそれだけで軽薄、論ずるに値せず、と本気で思い込んでるの。それを聞いたときは正直ちょっと呆れちゃったけど、いい勉強になった。つまりね、世間がとりあえず判を押した通念的な評価こそが正しい、本物だっていう認識があると、そのように感じられる自分自身にもまた価値があると思い込んでしまうの。というより、そのように感じられるように思い込むの。本当に感じているわけじゃないの。全部が、思い込みなの。佐々山君は、まだ小津も溝口も一作ずつくらいしか見たことなくて、嫌いじゃないけど、黒澤映画ほどの衝撃はなかったって。今は黒澤映画をもっと見たいと思うんだって。惹かれるって、そういうことでしょ。私は、佐々山君の映画の見方が本当だと思う」

 ヒナがあまりにも佐々山の名前を連呼し、挙句に「本当」という評価を下したことと、どこか居心地の悪いカフェテリアの空間のせいか、おれの中のもやもやが抑えきれないほどの渦になり、思いがけない言葉となって口から出た。

「佐々山が好きなの?」

 ヒナは続けようとしていた言葉を口の中で一旦丸め、割り込んだおれの言葉の理解に努めるようにおれの顔を見た。

「え」

 そうして噴き出した。声にならない笑いは数秒続いた。

「なに言ってるの。なんでそういうことになるの」

「気になったから」

「嫌いじゃないよ」ヒナはそう言っておれの反応を待った。「嫌いじゃない」

「好きでもない?」

「好きだよ」

 ヒナはそこで言葉を切った。

「同じサークルのメンバーとしてね」

「おれをからかってる?」

「こっちが聞きたいんだけど、それ」

 そうして実に楽しそうに笑った。

「ね、もしかして、君、私のこと、好きなの?」

 ヒナは笑いにくるんでそう言った。

「わからない。ただ、もっと知りたい」

「素直だね」

「高森さんはどうなの? おれと会ってる時間、無駄とか思わない?」

 敢えて自虐的に言った。そうすることで自分が守れるからだ。ヒナは意外にも、大きく首を振った。

「無駄なんて、全然。だって、会いたくて会ってるし」

 言ってから、自分の言葉に驚いたように口をつぐんだ。

「付き合ってみる?」

 五分後にそう言われたとき、もう結論は出ていた。ヒナは、好きな映画のDVDがあるから、それを見に来ないかと自分の部屋に誘った。おれは即座にうなずいた。

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