5
家に帰ったとき、父親はまだ起きていた。おれは酔いに任せた勢いで居間へ直行した。寝巻姿の祖母が、居間とはのれん越しの台所で皿を片づけていた。
「いきなり帰ってくるんじゃない」
父親は畳の上に広げた新聞に目を落としたまま言った。
「なにか不都合でも」
おれがそう言うと、目だけをちらりとこちらに向けた後、すぐにまた新聞に戻し、「別に」と言った。
「なんで黙ってた」
祖母がのれんから静かに顔を出したが、おれは目でそれを制した。
「いとこのこと。存在すら、知らなかった」
「言う必要がないからな」
まるで開き直った口ぶりだった。
「おれ、この家にいていいわけ? 日曜までいるつもりだけど」
「おまえの家だろ。好きにすればいい」
「まずくないの?」
「何が」
祖母は思い出したように台所に戻ってかちゃかちゃと何かやり出した。茶でも出すつもりなのだろう。
「いとことは言え、知らない子だし、いとこなら結婚もできるわけだし」
父は新聞を畳み、おれの方に向き直った。
「何が言いたい」
「母さんに似てるんだって?」
そう言うと、父はしばらくおれを見た。何かを確かめるような慎重な目つきだった。
「誰が言った」
「ひとりしかいないだろ、そんなの」
台所の音が止まった。父親はふいっとため息をついた。
「母親の顔が知れて、満足か」
「そうか。そんなに似てるのか。そんなら父さんも満足か。これで計画は完遂したか」
「何の話だ」
「ずっと前から、サキの居場所を探ってたんだろ。ばあさんに教えてもらえなくて、ほうぼう探したんだろ。知ってるんだ」
「サトシ」
祖母だった。湯呑を載せた盆を持つ手が震えている。
「兄妹にでもするつもりだったのか。それとも成長を待って妻の代わりにするつもりだったのか」
「サトシ」
悲鳴のような祖母の声が耳に刺さった。父親はじっと黙ったまま動かなかった。ただ、おれを見ていた。おれはその憐れむような視線を掴んで遠くに投げるように、「どうなんだ」と言った。自分が自分でないように感じた。おれはまたしても、自分の発した言葉に傷つけられることになった。
父親は最後まで何も言わなかった。翌朝、祖母を通して「卒業するまでこの家に帰って来ないこと」を約束させられた。祖母は泣いていた。おれは殴られなかっただけ儲けものだと思った。同時に、おれを殴ることができない父親を哀れにも思った。
すぐに出ていけと言われなかったのをいいことに、既に出勤したというサキの勤める書店におれは出向いた。サキの顔をもう少し見たかった。それだけだった。約束を守り続ければ、どうせもう二度と会うこともないだろう。
その書店のある駅は私鉄が乗り入れている乗り換え駅で、子どもの頃遠足やら何やらで数回降りたことがある程度のところだった。昔は埃っぽい風の吹き入れるホームがいくつか並ぶだけの殺風景な駅だったが、いつの間にか改札口から直結した真新しい商業施設ができていた。サキの勤務先は、その中にある割合大きな書店だった。通路側に雑誌や話題の書籍が並び、その奥もメインは雑誌、新刊、それにコミック類であるようだった。
雑誌の棚の陰からレジを覗いた。サキはいなかった。どこかで作業をしているのだろうか。
そういえば、とおれは文庫本のコーナーに行き、作者別に並ぶ棚を見渡し「ふ」の箇所を探した。夏休み中に一冊は本を読まないと、うるさく言ってくる人間がいることを思い出したのだ。
退屈な高校時代を経て、おれは大学である女に出会っていた。
それまでは、現実に目の前にいる女に惹かれてはみても、おれの中の香名りあの前に、どんな可能性も空しく潰えていた。彼女は、中学を卒業してもおれの中に絶対的な女として鎮座していた。
高校二年のとき、同じ中学出身の女に思いを告げられたことがある。それはどこまでも冗談めかした言い方で、それがかえってその思いの真摯さを浮き彫りにしてしまうようなまっすぐな純粋さを伴っていて、おれは少しく魅せられた。だが女の横顔を見ている間にも、おれの中の彼女はむくむくと膨れ上がっておれを圧した。馬鹿だと思った。ちょっと手を伸ばせば手に入るはずの未知のものが目の前にありながら、それを手にすることはすなわち夢を諦めることと同義だと、彼女は無言の瞳でおれに語りかけた。しかし実際に叶うかどうかわからぬ夢など意味がない、と考えもしていた。おれは実際、彼女の幻影に疲れ始めていた。年を重ねるごとに膨らみ続ける持て余し気味の獣欲に、光輪さえ被き始めた彼女の神性は、押され気味ではあった。だがその神性にはおれに罪の意識を植え付けるという切り札があった。結局おれは彼女に屈した。横顔の女に向かって、その真意がわからなかったふうなことを言い、その場を離れた。それ以後、失望したらしい女は、おれの顔を見ることすらしなくなった。
実在する香名りあ自身を探して愛するなどという考えは、はなからおれの中にはなかった。それは妄想の中でのみ一時的に輝いた。AV女優の香名りあは、おれが大学に入る頃には引退してしまっていた。大学でその女に出会ったときには、彼女の顔などもはや鮮明に思い出すことができなくなっていた。
だが、その女には彼女を思い起こさせる力を持った、大きな瞳が与えられていた。高森ヒナ、というその女は、友人に誘われてちょっと遊びに行った映画研究会のメンバーだった。ヒナはおれが文学部であると聞くと、深沢七郎の「笛吹川」は既読であるかと訊ねてきた。
「タイトルだけは知ってるけど、読んだことはないよ」
不意打ちに面食らいながら、おれは素直に答えた。このとき既に、おれはヒナの瞳から目を離すことができなくなっていた。
「そっかぁ。じゃあ、『百年の孤独』は?」
おれはタイトルだけ聞いたことのあるその小説について、よく知らなかった。「いや」と口ごもっていると、「ガルシア・マルケスの」とヒナは補足した。
「そもそも本はあんまり、読まないんだ」
「そうなの? もったいないね」
ヒナはそれだけ言うと、おれの目をじっと見返した。その小説知ってる、と言った友人は、その内容について他のメンバーに向かって饒舌に語り出していたから、おれたちの無言の数秒間は気づかれずに済んだ。
サキの顔が全体で香名りあの印象を主張しているとするならば、ヒナは、顔立ちはぐっと凡庸になるが、香名りあと符合する瞳を持っていた。その大きな黒目がちの瞳は理想だけを追い求め、それを見ることだけを使命として課しているかのように、芯は見えるのに全体がふんわりと虚ろだった。
その瞳がおれをじっと捉えて離さないことが、おれの目の自由を奪った。サークルのメンバーに話しかけられるまで、ヒナはおれの目から何かを掴もうとしていた。それ以降、二人の目が合うことはなかった。ヒナのほうも、おれに対して働きかけることはしなかった。
それから何日か経った頃、講義が終わり、駅に向かう道すがら、おれはヒナを見つけた。
おれは何の抵抗もなくヒナに声をかけていた。拒否されるかもしれないという心配はまったく湧かなかった。予想通り、ヒナはおれを見てその眠そうな瞳を大きく見開いて、笑った。
その後駅前のコーヒーショップで慣れない注文をして、ヒナの話を聞いた。ヒナは饒舌だった。ヒナのほうでもおれとの会話が消化不良に終わったことを気持ち悪く思っていて、解消する機会を狙っていたということだった。
「佐々山君に、君のこと聞こうと思ったんだけど」
クリームの載った甘そうな飲み物をストローでつつきながらヒナは言った。
「変に思われるの怖くて、聞けなかった。だからよかったあ」
そうして、先に挙げた作品の共通点として「淡々としたできごとの連なりであること」という説明をくれた。
「くどくどとモノローグを入れたりとか、そういうの、現実的じゃないじゃない。人生っていうのは、できごとの連続でしょ。大なり小なり、できごとって、どんどん忘れていくものでしょ。そういうシーンの連なりに……できごとの積み重ねによって生じる何か。私はそういうものを目指して、映画を撮りたいと思ってる。そうすることで、本当に近づく気がする」
「本当って?」
ヒナの思考をより明確に理解するため、おれは聞いた。
「映画って、勉強すればするほど、どんどん嘘に近づいていく気がするの。映画論ってつまり、魅力的な嘘の作り方。私はそれも好き。でも、やっぱり嘘より本当が好き。本当みたいな世界の映画を作りたい」
ヒナは、大学在学中に一本の「理想の映画」を作りたいと思っている、と言った。おれはその理想についても訊ねた。ヒナはそれを語るのに、無秩序、繰り返し、ばらばら、無意味……そんな言葉を使った。
「つまりは、生まれる前や、死んだ後も含む映画。死は生の到達点ではなくて、単なる裏側だと思ってる。ううん、もしかしたら表かも。いや、そんなのないのかな。だからね、私は死ぬこと、怖くない。痛いのは、怖いけど」
唐突な言葉の登場に、おれは何と言ったらいいのかわからなくなってしまった。自分の知らない死を抱えている人間に対しては、何をどう言ったところでそれこそ無意味な投げかけしかできない気がした。それは、妻の死を抱えている父親を暮らしてきたこと、というよりも、母親の欠如を抱えた自分自身がその都度かけられた言葉に対して感じた虚しさからきているのかもしれなかった。祖母の「かわいそう」という言葉。ヨウジの母親の「何かあれば言ってね」という言葉。教師の「おまえの家は大変なんだから」という言葉。その中には虚像のおれしかいない。それぞれの発語者の中に築かれた、母無しの少年。それまでの経験で補われた想像上のその少年は、毎回おれを外側から嘲笑う。
「死ぬの、怖かったの?」
少し長く感じる沈黙の後で、おれはそう言った。ヒナは笑いながらうなずいた。
「みんな怖いでしょ、そんなの。君は違うの?」
ヒナは、おれを見ながらストローでゆっくりとクリームを掻き回した。
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