おれはサキの顔を思い出しながら混乱していた。香名りあという夢の女の顔が、おれの母親の顔であったということ。おれの中に母親の記憶があって、それを恋う気持ちも潜在意識下にあって、その結果AV女優をベアトリーチェのようにして心の最上の部分を占めさせていたのだとしたら、とんだお笑い種だ。その源であるはずの母親は、ずだ袋の中なのだ。

 見えているもの、見えなかったもの、失ったもの、狂おしいほど求めたもの、それらがイコールで結ばれていく感覚を覚えながらおれは声を殺して笑っていた。あまりにも馬鹿馬鹿しかった。祖母の言葉を脳が理解した瞬間、おれが決して短くはない時間を使って築き上げてきた積み木の作品が、現実という闖入者によってばらばらに崩されたような気がした。おれが現実という外の世界にどれだけすげなくされても、その積み木作品にすがることによっておれはおれ自身を保ってきた。それが、サキという女の登場によってめちゃくちゃになってしまった。

 世界が徐々に膨らみ、盛り上がってくるあの感覚を思い出す。鏡を見て恐怖を覚えた頃と同時期のできごとだ。家の外に広がるどこまでも広大な世界は、その触手から逃れんと無駄な足掻きを続けようとしていたおれに容赦なく襲いかかる準備をしているようだった。一体いつこの世界は自分から飛び出してしまったのだろう、とおれはよく思った。子どもの頃は確かに、この世界はどこまでもおれ自身のもので、おれを押さえつけたり跳ねっ返したり、姿が見えなくなるまで潰したりなんてことは絶対にしてこなかった。つまりは世界と一体だった。だが体の外側に突如出現した世界は、おれの存在を問題にせずにくるくると回り続けていた。おれの知らないうちに、おれを置いてきぼりにしながら。

 現実には決して現れないだろうと思っていたものが不意に目の前に現れたとき、人は喜びや興奮よりも前にまずそれが本物なのかどうか確かめずにはいられないのだということを、今日おのずと知った。

 おれは二階の部屋に押し込められている彼女のことを思った。その体は、まるで人形のようだった。その幼さと細く伸びた手足がアンバランスで、そのせいで興味をそそった。もっと彼女の顔を見たかったし、話もしたいと思った。おれは部屋を見回して、彼女の痕跡を探した。だが部屋は空気以外、家を出たときと特に何も変化していないように見えた。

 夕飯は冷しゃぶサラダとあおさの味噌汁だった。祖母はサキの夕食を盆に載せて部屋に運んで行った。それは何の滞りもなく行われたから、きっと普段からそうしているのだろう。おれは父の帰宅を待たずに二階の自室に籠った。一度だけ、サキの部屋が開いた。耳を凝らして足音を聞こうとしたが、しぼみかけの風船が低空飛行しているようなぼんやりとした気配しか感じられなかった。

 翌日、誰からおれの帰省を聞いたのか、地元の農協で働いているというヨウジから連絡があり、小学校の裏手にあるお好み焼き屋で会うことになった。おれはヨウジとサキの話題を共有したかった。

 だが期待していたサキの情報で得られたものは、些細なものだった。おれが家を出たのが三月下旬。四月になってすぐ引っ越してきて、しばらくは家にいた。五月ごろから五つ離れた駅にある書店でアルバイトをするようになった。休日は家にこもっているらしく、通勤以外で姿を見かけることはほとんどない。

 ヨウジは慎重に言葉を選ぶおれに気づいているのかいないのか、始終楽しそうに笑みを浮かべながら飲んで食べ、しゃべった。それはサキや、サキに対する祖母の態度などについて話すときも少しも変わらなかった。

「おまえんとこのばあさん、庚申堂でおふくろに会ったらしくてさ。どうもばあさんはサキちゃんのことよく思ってないみたいだって。自分の孫だろ。引き取らなかったのはおまえという理由があるにしてもさ、普通はこれまでのことを詫びたりするもんなんじゃないの? つらい思いさせてすまなかった、とか」

 ヨウジは何かを取りつくろったり、気取って見栄を張ったりすることのない男だった。おれはそこが好きだった。今も、日に焼けた顔や腕、健康的な筋肉、汗で額に貼りついたどこまでも黒い前髪などに何か特別な意味が付与されていないように、素直におれの前ですべてを晒していた。だからおれは安心して言葉を投げることができた。

「おれも昨日まで何も知らなかったんだよ。実の息子に何も言わないとか、ちょっとどうかしてるよな」

 ていうかさ、とヨウジは喉を鳴らしてビールを飲みこんでから言った。

「昔から思ってたけど、サトシの家って、何か、不思議だよな」

 不思議、という言葉をうまく呑み込めず、おれはヨウジの顔を見た。ヨウジはおれの視線から逃げるようにせわしなく黒目を動かした。

「不思議、てか、謎がありそう、ていうか、悪い意味じゃなくてな。お母さんの死因とかさ、なんか、小説とかドラマみたいっていうか」

「不自然か」

「そうじゃなくて。悪い、うまく言えない。忘れて」

 ヨウジはテーブルの端に立ててあった手書きのメニュー表を引っ掴んだ。

「ああ、焼きうどんもいいなあ。追加で頼むか」

 メニューの字面を追いながら、おれはヨウジの言いたかったことがなんとなくわかった。ハチに刺されて死んだという母親の死因は祖母が一度言い放っただけのもので、父親の口から聞いたものではない。それ以上追究できなかったのは、祖母にあの顔をさせたくないこと、家の空気を不穏なものにしたくないこと、という割と健気な気持ちからきたものであって、おれ自身がまったく納得していたわけではなかった。

「ハチ。ハチで死ぬの」

 いつだったか、ヨウジに初めて母親の不在の理由を聞かれ、答えたときに、ヨウジはそう言った。口を開けたまましばらくおれを見て、さらにおれが大きくうなずくのを見て、「ふうん。そうなんだ」とだけ言い、すぐにポケモンバトルに戻った。

「そういえばおまえの好きだったAV女優いただろ」

 食事の注文を終えた後、間髪を入れずにヨウジが言った。おれはまたもヨウジの顔を見ることしかできなかった。

「え、何?」

「いただろ。名前忘れたけど、なんとかリアっていう」

 瞬間、黒い前髪やアリストパネスや乳首が、飛び散るトランプカードのようにおれの中を舞った。カナリアという名前を忘れられるということはもしや苗字を正しく読めていなかったもしくは認識していなかったということで、それはつまりヨウジにとってはその程度の存在だったというわけで、でもおれが好きだったということは覚えているわけで、というより何より一体どうしてという気持ちで思考がまったく停止した。

「香名、りあのこと? 別に好きじゃないけど」

 なんとかそれだけ言うと、ヨウジは微妙な空気を壊すように大声で言った。

「好きだっただろ? そればっか見てたじゃん。でさ、そのリア、こないだ深夜番組に出てたよ。全然変わってなくてびっくりしたよ」

 明け透けに言うヨウジを前に、おれは言葉が出なかった。

「タレント転身かと思ったら、元AV女優として出てた。さすがに引退したんだな」

「ふうん」

「それ見ておまえのこと思いだしてさ。そしたら帰って来ただろ。これってシンクロニシティとかいうやつ? ていうかやっぱ覚えてたんだなあ。熱心に見てたもんなあ。懐かしいなあ」

 そうしてようやくおれは、ヨウジが一つの思い出話として彼女の話題を出してきたことに気がついた。数年の間に生じた距離を取り戻そうとする努力なのだ。不思議、という言葉を出したことに対する挽回のようにも思えた。おれはその努力に応えることにした。高校時代のこと、仕事のこと、おれの大学のこと、女のこと。話は尽きなかった。

 サキに対する不安や動揺を悟られたくなかった。だがそれ以上に、香名りあのことに気づいていたヨウジに、おれはどうしても聞きたいことがあった。

 サキは、香名りあに似ていると思わないか。

 確認したかった。おれだけにサキの顔がそう見えているのだとしたら、それはちょっと問題だったからだ。

 だがヨウジは、香名りあの名前を出したときのおれの動揺に気づいたせいか、それとも不思議発言を後悔しているのか、性交していない女の話題を口にすることは二度となかった。

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