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伯父、つまり父親の兄夫婦が事故で死んだのは、おれが二歳の頃だった。もちろん記憶にはない。ただ、記憶をどんどん遡っていくと、ただひたすら混沌とした泉のようなものにぶち当たる。その泉は、理性で処理できない恐怖や不安、焦燥などの不穏なもので満ちていて、毎度おれをまごつかせた。つまりはその泉が、今のすべての原因であり、始まりだった。祖母や父親の当惑やその後の転居に至るごたごたの印象が、泉という雑なイメージにまとめられることで、おれの中になんとか居場所を確保した――そう結論づけた。その泉からおれが取り出せる事実はなかった。決して楽しげなものではないこと、おれを急き立てる運命の車輪の大きな一つであること。確からしいのはそれだけだった。
母と同じく、おれは伯父夫婦の顔も知らなかった。おれ自身、彼らについてはあまり興味がなかった。母親のことと違って、祖母にしつこく訊ねることもしなかった。だが聞きもしないのに祖母がぽつぽつと零していった断片的な言葉の繋がりにより、母の死とほとんど時を同じくして彼らが単独の自動車事故に遭ったこと、その時分の祖母自身の記憶がショックのせいであいまいなこと、父親がすべてを捨てて新しい土地へ引っ越し、過去と訣別するように新しい仕事を始めたことを知った。祖母が若くして離婚していることもあり、親戚付き合いというものはおよそ皆無だった。おれたち三人は大海原に頼りなく浮かぶ筏のようなものだった。
高校二年生の頃、おれは父親に話しかけられた。朝食の席でのことで、珍しいことだったから、変に緊張したのをよく覚えている。
「大学はどうするんだ」
おれは祖母の顔をちらりと見た。進路については祖母と相談し、県内の公立大学の教育学部を目指すことで落ち着いていたからだ。
祖母は自分には関係ないと言いたげに味噌汁をすすりながらテレビのニュースを見ていた。それは見ているというより、そうするより他なく顔を向けているといったふうだった。
おれは祖母との間で結ばれた答えを素直に父親に言った。
「だめだ」
父親は表情を崩さずに言った。
「Q大を狙え」
Q大は県外の国立大学だった。当然自宅からは通えない。
おれは祖母を見た。祖母が最初に出した条件が、自宅から通うことだったからだ。
「でも、一人暮らしは」
祖母の言葉を待ちながら言った。祖母は何かを感じたのか、顔はテレビに向けたままでちょっと目を伏せた。
「金の心配はするな。おまえの成績なら十分狙えるはずだ」
悪くない話ではあった。おれが当初希望していたのがQ大の人文学部だったからだ。
父親と祖母の揃う前で何と言ったらいいのかわからなかったおれは、祖母に倣ってニュースに目を向けた。父親はそれを応諾の意と捉えたのか、うまそうに納豆を掻き込むと、いつもと変わらない様子で食器を片づけに席を立った。祖母がちらりとおれを見て、小さくため息をついた。そうして力なく笑った。おれはそれ以上話す気力をなくし、黙って米を口に入れた。
それからの流れは事務的だった。おれはQ大に合格し、父親の意向通りに家を出ることになった。祖母は最後まで何か言いたげだったが、年のせいで一層影の差した目元を伏せてそれを腹の底に収めるのだった。おれのほうも棚ぼたの心持で浮足立っていた。暗く窮屈な家から出て、自由な大学生活を送ることができる。必要な家電や家具を買い揃え、まっさらな気持ちで新居の六畳間を眺めまわしたときも、祖母はラグの上で足を崩しはしたが、とうとう最後まで何も言おうとしなかった。
おれがそれを知ったのは、八月に帰ったときのことだった。
今にして思えば、何の連絡もせずに帰ったのがいけなかった。だが初めての一人暮らしや大学生活が思いのほか楽しくて、おれは違う人間に生まれ変わったような気がしていた。女を知ったことが一番大きな変化だったかもしれない。おれは殊勝に祖母に事前連絡をすることを、なんだかふさわしくない気がして避けた。いきなり帰ったおれを迎える祖母の様子を想像し、愚かにもそこに面白いものしか描けず、空虚な自信を満たしておれは玄関を開けた。父親はまだ仕事の時間だった。
「ただいま」
できるだけ感情を抑えてそう言った。おれはこのとき、うれしくてたまらなかったのだ。大学、一人暮らし、実家への帰省。そういった、いわゆる世間一般で行われている普通のことを、まったくおれ自身のものとして選択していることが、何よりうれしかったのだ。
祖母は出てこなかった。鍵が開いていたから、いるはずだった。
「ただいま。帰ったよ」
おれは声を少し大きくした。するとすぐ脇にあるトイレから、慌てて下着を履くような音が聞こえてきた。
トイレに入っていたのか、とおれは靴を脱いだ。先に居間に行ってしまおうと思ったのだ。蒸れた靴下の足を幾何学模様の玄関マットに置いたとき、流水音がしてトイレのドアが静かに開いた。
そこにいたのは香名りあだった。
正確には、香名りあの顔をした女だった。
女はおれと同じくらいの年頃で、七つ半の黄色いワンピースを着ていた。スモッグのようで垢抜けないのは、後で知ったことだが彼女の手製であることが理由だった。
「おばあさん、お買い物で留守です」
彼女は震える声でそう言った。思った以上に大人びた声だった。明らかにおれに恐怖を感じていた。
おれの中で、いくつかの記憶が一瞬で繋がった。その結果生まれたとある仮説を確かめるようにおれは彼女を見た。吸い込まれるようだった。
「サキ」
それはおれの声ではなかった。気づくとすぐ後ろにスーパーの買い物袋を両手に提げた祖母が仁王立ちしていた。
「部屋に戻りなさい」
それは小学生を叱りつけるような言い方だった。女は「はい」と小さく言うか言わずかのうちに背中を見せ、階段をとたとた上がっていった。
「サトシ」
それはおれがよく知っている祖母の穏やかな声だった。
「帰るなら、連絡くらいしなさい」
「今の、誰」
当然のおれの疑問を祖母はため息で横によけた。
「疲れたでしょ。上がって座ってなさい」
そうして祖母は、先ほどの女が中里咲という名であること、亡くなった伯父夫婦の遺児で、おれと同い年のいとこであること、施設に預けられていたのを高校卒業を機に父親が引き取ったことを疲れた顔で語った。
このときようやく、おれを県外に追い出した父親の真意を悟ったおれは、その行動をどのように評価したらいいのか迷った。施設には十八歳までしかいられない、というのはドラマで見て知っていた。父親が引き取るのは確かに筋が通っているかもしれない。だが、おれには腑に落ちないことがいくつかあった。
「おれは、捨てられたってことか」
言いながら驚いた。おれの中に実家や父親に対する執着心があったということが、許しがたく思われた。祖母はその発言を特別に感じなかったのか、「そんなわけないでしょ」とトーンを変えずに言った。
「たまたま、こうしたほうが都合がよかったってだけよ。お父さんはね、サトシがそのまま県外か、東京ででも就職してくれるだろうと思ってるの。そうすればあの子もずっとここで暮らせるでしょう」
「ずっと、いるつもりなのか」
「もちろんあの子も働いてるし、そのうちお嫁に行くだろうけど。でも、お父さんがね」
祖母はその先を濁した。サキの不安げな顔を見て以来おれの中に渦巻き始めたもやもやが、途端に黒くなって重みを増した。
親父は、ずっとあいつを引き取ろうとしていたんだろう。
その言葉は声にならずにもやもやに吸収された。おれの様子に気付いてか、祖母は畳に視線を落としてから独り言のように言った。
「あの子が来てから、まったく落ち着かないよ」
祖母はおれの暮らすアパートの部屋に初めて来たときと同じように、回り縁をなぞるようにして天井の四隅を順番に眺めた。
「この家の空気が、まるごと変わっちゃった感じ」
そうして大きなため息をついた。祖母のため息は、昔から苦手だった。その不機嫌の矛先が自分に来ることはあまりなかったが、それでも無言で責められているような居心地の悪さによく外や二階へ逃げ込んだものだ。
しばしの沈黙の後、祖母はおれの顔を盗み見るように疲れた目玉を泳がせた。そうして卓に両手をついて立ち上がりしなに、吐き捨てるように言った。
「あの子はね、あんたのお母さんにそっくりなんだよ。怖いくらいに。そんなの落ち着くわけ、ないでしょう」
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