幼稚園児のときにふとしたきっかけで覚えた悪癖は、そのやり方を変えずに十三歳まで続いていた。写真、雑誌、ネット動画、そういった、痕跡を残してしまうものをすべて恐れた結果、記憶力と想像力ばかりが肥大した。

 当時、インターネットに繋がるパソコンを自室に与えられている同級生のヨウジは貴重な存在だった。「いいサイト見つけたよ」と朝からさわやかな笑顔で話しかけてくるのだった。

「無料でかなり見られるし、検索しやすいんだよね。今日来る?」

 おれは三日に上げずヨウジの部屋へ通った。成績がいいことから、ヨウジの母親のおれへの印象は悪くなかった。彼女はいつもリビングで海外製のドラマ鑑賞に耽っていたから、なお好都合だった。

 ヨウジの家で見る写真や動画の中にいる女たちは、みな一様に同じ顔をしているように見えた。体はそれぞれに違っているのに、顔は無個性でただ女であるという記号だけを世界に差し出しているように見えた。つまりは魅力がなかった。

 その中にいたひとりの女優に、おれは惹かれた。それをヨウジに悟られないようにすることに最大限の努力を払った。さも他の動画が目当てであるように指しながら、そのついでに再生してもらうように仕向けた。それも繰り返すとばれてしまうだろうから、この方法は一日一回の限定にした。数回の訪問で一回は、敢えて最初から指名することでこの方法をさらにわかりにくくさせようとした。サムネイルだけで我慢するときもあったが、大体は動いている彼女を目にすることができた。

 彼女の名前は、香名りあというセンスのないものだった。一体AV女優の名づけはどんな人間がしているのだろう。現実離れしていて、なおかつ実際にいてもおかしくなさそうな、二次元キャラクターの名前に似た響きもあるが、それ以上に親しみやすさや文字並びのきれいさにこだわっているような気もする。正統派美少女系の女優たちには実際にいそうなある種平凡で清楚な名前がつけられることが多く、名前のみ、それもひらがなやローマ字の場合は正統派から少しはずれた個性派に多く見られるようだった。カナリアという現実離れした名前のこの女優は、その容姿もどこか浮いているように見えた。美しいと言われれば確かに標準よりは美しいが、というよりどこまでも日本人の標準を追求したような、端正ではあるが没個性の顔立ちで、覚えるのに難儀しそうだった。豊かに流れるストレートの黒髪と眉毛の上で切りそろえられた前髪がその幼さを演出していたが、顔立ちが大人びているのでかえって浮いていた。細い首と腰、その割に豊かな胸が印象的だった。美しい白い皮膚に覆われた体は触れれば変形しそうなほどの人工的な脆さがあった。

 表面的な美しさよりも、おれに訴えかけてきたのは、彼女の瞳だった。どこか挑戦的、反抗的で、かつ男などすべて自分の手中にあるとでも言いたげな悟った自信、一方では、逆に何かに溺れて支配されたいと言うような、隠しきれない依存心をちらちらと瞬かせていた。おれは、この女は自分と対極の位置にいると感じた。彼女は恵まれていた。顔もスタイルもシミひとつない肌も、髪も爪も完璧なまでに美しかった。それらの、自分自身の努力とは関係なく、生まれたときに持っているかどうかという完全に天の運まかせの要素が恵まれているということは、人間にとってこの上ない利だ。特に女にとってはそうだろう。女の美醜はその職業や収入、運命をも左右する。だが彼女は恵まれた利を使いながら敢えてAVという世界を選び、自分を貶めることで何かを求めているように見えた。

 まだ。もっと。違う。そうじゃない。彼女の表情からは、そんな声が聞こえてくるようだった。

 ちょうどその頃、テレビでなんとなく見ていた洋画で、古代ギリシャの詩人であるアリストパネスの演説のことを知った。人間球体説というやつである。元々人間は二人が背中合わせにくっついた姿であったが、その強さを恐れたゼウスが雷によって半分に裂き、今の人間の姿になったという。そうして失った片割れを求め、元に戻ろうとして交わるのだと。

 そうなると香名りあを含めた画面の中の女たちは、その試みにことごとく失敗しているということになる。だがおれはそれを知ることで、彼女に対する理解が深まったような気がした。あの瞳はつまり、そういうことを訴えているのだと。つまりは、形だけの愛を何度も繰り返しながら、それを見るだろう男たちに、自分が求めているのはこんなものではないと訴えているのだ。体をベッドに投げ出してはいるが、心は遥か天上に保管してあると言わんばかりの空虚さ。この女は留守なのだ。その肉をいくらいじくり倒して吸い尽くしたところで、彼女は応えない。自分の中に築き上げた理想だけを見つめて、決して壊れない。むしろ辱められるごとにその屈辱や不快感をすべて理想を強化することに注いでいるように見えた。

 おれは彼女への理解を、すなわち彼女への愛だと即座に変換した。彼女の欲するところを知り、それを与えられるだろう男はおれだけだと思い込んだ。その思い込みが、決して外に出してはいけない大きな密事としておれに影を落とした。その影は無口に拍車をかけ、ヨウジ以外の人間をおれから遠ざからせた。

 おれの中の女の字義が、彼女のイメージで塗りつぶされた。年上の女性に惹かれることは、それまでにも幾度かあった。そのどれもが、母の代替としての希求からくる甘ったれた感情であることを悟らせる程度のものだった。性的な要素と、愛という気恥しい単語が加わることによって、香名りあはおれの心に染み込み、何を見てもその姿や気配を現わすようになった。おれは彼女のイメージを詩で構築できないだろうかと試みた。だが青臭く、たどたどしい単語たちは、彼女の白い鼻先すら表現できずに次々に色褪せていった。初恋の女性ベアトリーチェを詩の中に永遠に封じ込めようとしたダンテの試みを後に知ることになるが、自分にとってのベアトリーチェがAV女優であることを改めて認識した中学生のおれは果たしてその幼い愛をかなぐり捨てずにいられただろうか。

 そういうわけで、当時おれの中に実在する女は夢の存在でしかなかった。最も身近な女である祖母は言うまでもなく、その年若い形態であるヨウジの母親は、観察対象にはなり得たが、ただの「同級生の母親」であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。同級生の女子たちはいずれも成長が足りず、上級生や街を行く女子高生などの太ももにふと見とれる瞬間もなくはなかったが、香名りあほどの実存を伴っておれに迫ってはこなかった。

 鏡の中の父親は、そんな折のできごとだった。父親に似ている自分を意識したこのときから、父親と同じ男としての自分の体に微かな畏怖を感じるようになった。

 父親は、母親とおれを作った。その単純な事実が事実として、嫌悪感とともにおれの中に突如芽生えた。そうして、父親は母親に似なかったおれを、限りなく自分に似てしまった息子を疎ましく思っているだろうという仮定は確信に変わっていた。もしおれの顔が母親に少しでも似ていたら、何か違っていたのだろうか。

 祖母は、おれがまだ幼稚園児のときに、父に再婚を薦めたらしかった。母が死んですぐに知らない土地に引っ越したために知り合いもなく、頼れる親戚もなく、祖母はひとりで家の雑事をし、おれを育てた。こういうことは小さいうちのほうがいいと何度も言った、と祖母は語った。だが父は首を縦に振らなかった。元来の無口が母の死をきっかけに一層ひどくなり、祖母も、まだ小さかったおれも、それに倣うように徐々に声を温存するようになった。テレビの音声や水を流す音、ボイラーの運転音だけが響く静かな家になった。その静けさが奇妙なバランスとなってこの家を支えていた。

 小学校に入ったばかりの頃だったと思う。日曜の朝、トイレにこもっていると、父が起きてきて洗面所に向かう足音が聞こえた。トイレは階段のどん突きにあるから、二回から下りてくる父親の裸足の足音がよく聞こえた。階段を下りて廊下に曲がるとき、父親の小さな声が聞こえた。

「……いない」

 台所でねぎを刻んでいる音がしていたから、祖母のことではないと思った。おれを探しているのだ、と即座に思った。おれは早々に排泄を切り上げて洗面所へ向かった。父親は水を流したまま鏡を見つめていた。声をかけようとしたとき、また声が小さく聞こえた。

「どこに……隠したんだ」

 水音に混じっていたが、確かにそう聞こえた。おれは混乱した。父親が何を言っているのかわからなかった。

 その困惑を感じ取ってか、父親は廊下に立ったままのおれを見つけ、しばらく目を見開いてじっと見た。おれはその目に体をまるごと縛られたように、動くことができなかった。

「何してるんだ」

 少し乱暴な言い方だった。おれは悪いことをしたように思えて、何と弁解したらいいかわからず、すべてを打ち捨てるように逃げた。味噌汁を椀に入れている祖母の足元にしがみつき、「危ないからあっち行ってな」と言われたことをよく覚えている。

 父親はゆっくりと部屋に入ってきて、卓の上にあった新聞を開いて座った。その後、おれの顔を見ようともせずに朝食をすませ、ねずみ色のスウェットのままどこかへ出かけていった。おれは長らくあの父親の言葉を、というよりもこの記憶自体を、夢か何かだと思っていた。それ以来父親は独り言すら言わなくなったし、あのときの驚いたような、恐怖を湛えたような、丸裸の目をおれに向けてくることも一切なかったからだ。

 その数年後のことだったと思う。夜中に目が覚めたおれは、この家を覆う静寂がこそこそと破られていることに気づいた。トイレに行こうと階段にさしかかると、階下から若干興奮したような祖母の声の後ろに、父の低い小さな声が聞こえてきた。一段ずつゆっくり下りていくごとに、祖母の声がだんだんと鮮明になって耳に飛び込んできた。サキ、という言葉が聞こえた。人の名前のようだった。そのサキについて、父と祖母が何か言い争っているように聞こえた。

「……サキは……知らないから……」

 祖母の声で、それだけ聞こえた。父親は、一定のトーンで祖母に言葉の連なりをぶつけているようだった。それを押さえつけるかのように祖母の声はだんだんと大きくなっていった。

「今更、どうなるって言うの。サトシのことも考えなさい」

 突然自分の名前が出てきたことで、おれは動揺した。ぺたん、と裸足がひとつ下の段を突いた。声が止まった。ややあって、居間の襖が開いて祖母の白い顔が廊下を覗いた。ほとんど階段を下りきってトイレの前にいたおれは、急いでそのドアノブに手を伸ばした。

「サトシ」

 祖母がおれを見て言った。

「どうしたの。トイレ?」

 おれはうなずいた。祖母はそう、と言って少し後ろを気にするようなそぶりを見せた。

「明日学校でしょ。早く寝なさいね」

 そうしておれの返事を待たずに襖を閉めた。その後、話し声が聞こえてくることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る