エヴリシングス・ゴナ・ビー・オールライト

七海 まち

 自分の顔が父親に似てきていることに気づいたのは、十四歳の誕生日を間近に控えたある朝のことだった。

 顔のどの部分がどう、というわけではなかった。ただ、鏡を見るぞという準備をせずに視線だけを鏡面に向けたときに結ばれた像の印象が、父親の顔を認識判断する際に感じる何かの要素を含んで、まっすぐに脳に飛び込んできたのだった。

 おれは驚いて鏡を見つめた。その印象が思い違いであることを証明したかった。結果は不明瞭だった。どれだけ顔の角度や表情を変えても、状況を再現しようと洗面所に入るところからやり直してみても、先の印象は得られなかった。そこにあるのは見慣れたおれ自身の、十三歳の顔だった。やはりおれは父親とは違う顔をしている。何故世間は皆、おれと父親を似ている、場合によっては同じ顔だとさえ言うのだろう。

 父親も同じ認識なら救われたのかもしれない。だが当の父親も、おれが自分に似ていることをやたらと意識し、気にかけているようだった。

「どうしてあいつに似なかったかね」

 まだおれが幼い時分、何かの拍子に父親はよくそう言った。サッカーの試合をテレビで観戦しているとき、食料品をレジ袋に詰めているとき、朝食の味噌汁をすすっているとき。脈絡もなく、父親はぼそっとそう言った。それはおれに向けて言っているというよりも、自分の中でいつまでも消化しきれない事実をたまに取り出して確認しているといったふうに行われた。同席する祖母も、聞き飽きたらしいその言葉については黙殺するのが常だった。

 おれは母親の顔を知らない。ちょうどおれが生まれた時分に建てられたらしいこの借家には、おれと祖母の写った十数枚の写真しか存在しない。七五三の写真でさえ、神社の鳥居をバックに祖母と二人で写っているもの一枚だけだった。上下黒のスーツに身を包み、窮屈なのか、日差しが眩しいのか、目を細め鼻にしわを寄せたおれの顔は、そのとなりにいるグレーのスーツの祖母が斜めにした顔からまっすぐにカメラを睨むように視線を送っているのと対照的に、がちゃがちゃとしていた。この日のことはほとんど記憶にないが、おそらく父親が撮った写真なのだろう。母親の写真だけでなく、父親とおれが一緒に写った写真も一枚もないことには、それほど疑問を抱くことはなかった。

 この頃より数年の間、おれが執心していたのは母親のことだった。

 何度も、訊ねたのだ。父親は無言で睨みつけてくるか、たまに拳でテーブルを叩いてそのいらだちを示す以外はしようとしなかった。言葉を返さないことで、おれを操縦しているつもりのようだった。

 母親の代わりに母としての仕事をこなしてくれる祖母は、頼れる存在だった。他の家の母親と違って若くないこと、他の母親がするように、見ていてこちらが恥ずかしくなるような言葉や態度をおれに決して投げかけようとしないことなどには少しずつ気づいていくことにはなったのだが、それでも母親の不在を形だけでも埋めてくれた祖母には、早くから感謝の気持ちを抱いていた。

 そんな祖母に、おれは根気よく訊ねた。

「おかあさんは、どこにいるの」

「いつかえってくるの」

「どこにいったの」

「おみやげ買ってきてくれるかな」

 同じことを何度も訊くんじゃない、と言われたおれは、毎回言葉を選んで祖母に預けた。そのたびに祖母はため息をついた。そのため息で察しろと言うつもりだったのかもしれないが、幼稚園児のおれにそんなものは通用しなかった。おれはため息を通過儀礼としてその後の返答を待った。できるだけにこにこして、待った。祖母はそんなおれをふと愛おしそうに、だが若干嫌悪を含んだような複雑なまなざしで見つめてくるのが決まりだった。

「死んだんだよ」

 祖母は大抵、一言目にそう言った。はじめのうちは「お星さまになった」「天国へ行った」「神様のところにいる」などと幼稚園児向けの言葉で以てお茶を濁していた祖母は、おれのたびたびの攻撃に対し、いつからかはっきりと「死」という言葉を口にするようになった。

「おまえのお母さんは、おまえが小さいときにハチに刺されて死んだんだよ。かわいそうなことだね」

 祖母は、「かわいそう」という言葉を締めくくりに使うことを覚えた。それを言われると、おれもそれ以上追及する気をなくしてしまった。「かわいそう」という言葉を祖母は母について言ったのか、おれについて言ったのか、その両方か、当時はよくわからなかった。だが父親が死んだ今では、あれは父親のことを言ったのではないかと感じている。

 アナフィラキシーショックやらで死んだにしても、写真が一枚もない、おれに見せるつもりすらないというのはどういうわけなのか、五年生のとき、父親と祖母が揃う食卓でぶつけたことがあった。

「どうしてそんなに見たいんだ」

 残った米を味噌汁に入れながら、父親は珍しく口を開いた。おれはその声と表情に希望を見出し、少し焦ったようにおれと父親を交互に見る祖母を尻目に言った。

「母親の顔を知らない人間なんて、この世にきっとぼくだけだ。ぼくは普通の人間になりたい」

「普通の人間だよ、おまえは」

「普通じゃない。学校でも言われた。こんなの普通じゃない」

「華奢でね、きれいな、かわいい顔をした人だったよ」祖母が慌てたように言った。「学生時代はもてたって、伯父さん言ってたよ」

「ばあさん」父親が祖母を牽制するように味噌汁の椀を乱暴に卓に置いた。「余計なことを言うなと言ったはずだ」

「そうは言ってもね。サトシだって、かわいそうじゃないの。やっぱり私も普通じゃないと思うわ、こんなの」

 どん、という鈍い音で卓が震えた。祖母が慌てて茶碗に渡した朱塗りの箸が一本滑り落ち、ころころとばかみたいに軽い音を立てながら転がった。

「サトシ」

 父親に名前を呼ばれること自体、珍しかった。卓の上で震えたままの、父親の固く握られた拳と、深い深いところからひねり出したようなその声のせいで、おれも祖母も動けなかった。

「おまえの母親の名前は雪子。おまえに、母親と似たところはひとつもない。言えるのはそれだけだ」

 父親はそうして味噌汁に口をつけず、そのまま立ち去った。思えば、おれの攻撃はこれが最後だった。祖母は箸を拾い上げてからおれを見た。おれはそのまなざしに、祖母の慈愛を感じた。思わぬ祖母の態度の瓦解が意外だった。

 これを機に、どうしてあいつに似なかったかね、という父の言葉は、めっきり減ることになったのだった。

 どうしてそんなに見たいんだ、と言われて自分が答えたことが、想像以上におれ自身を傷つけていた。母親の顔を見たいというのはごく自然な欲求で、それを持ち合わせる自分は普通だと、異常なのは父や祖母のほうだと、ずっとそう思って生きてきた。だが口を突いて出たのは、自分が異常であるという宣言だった。自然な欲求が満たされなかったせいで、おれは自分の意志と関係なく「異常」に身を置いているのだということをいやほど思い知らされた。

 この日以来、おれはおれの中の「母親」をずだ袋に入れて隅に追いやった。普通の人間になりたい、という言葉になって出た、いつからかおれの中にあった思いの芽は、母親を捨てることでそれを養分にするかのようにぐんぐん育っていった。「母親」というイメージで塗られる予定だった箇所を、対象としての女体イメージで遠慮なく埋めることで、おれはその思いをなだめていった。

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