第4話

 高さ100cm、横120cm、奥行き90cm。適温に管理されたその空間と、そこから見える景色が、彼の生活の全てだった。時折、やかましい子どもたちが彼の部屋を叩き、退屈だが快適な彼の生活リズムを乱した。初めの頃、彼は歯をむき出して子どもたちを威嚇し、追い払っていたが、互いの空間を分ける透明な板が、皮肉にも双方の距離を安全に保っていたため、彼の精一杯の抗議は、子どもたちにとっては格好の遊びとなった。彼が怒れば怒るほど、子どもたちは興奮して彼の部屋を繰り返し叩いた。自分の行動がこの状況を悪化させることに気がついてからは、彼はそのような時は部屋の隅で丸くなり、嵐が過ぎるのをじっと耐えるようにしていた。


 その日も、一組の母子おやこが彼の前に立った。息子が容赦なく彼の部屋を叩く姿を、母親は後ろからにこにこと眺めていた。彼はいつものように隅で丸くなり、横目で母子の様子を眺めていた。この母親は、目の前にある貼り紙が目に付かないのだろうか。大きく、ケースを叩かないで、と書いてあるのに、平然と無視が出来るのか。大体、子どもがいたずらをしていたら、注意するのは親の務めじゃないのか?これが私の母なら、きっと私を戒めるに違いない。不意に、3ヶ月前に別れた母の顔が彼の脳裏に浮かんだ。


 「今回はたったの二匹か。」

 不愉快そうな男の声で、彼は目覚めた。顔をあげると、彼ら母子おやこを冷徹な目で見下ろしている。初めて見る男の表情に彼は怯え、母親の胸の下に顔を埋めた。

 「八匹生まれたけど、この二匹以外は死産と奇形だったわ。」

 この声は、名ばかりの世話をしている女だ。わずかなエサと水を与えるだけで、部屋の掃除は数日に一度だったため、彼らの生活空間は常に糞尿で汚れ、締め切った部屋の中には臭いが充満していた。だが、女にとっては何十年もそれが普通だったため、その不衛生に気がつくことはなかった。

 「親は処分だ。」

 男がまた、感情のない声で言った。

 「まともな子どもが産めないなら、こいつに価値はない。」

 処分?今、処分って言ったのか?彼が顔を上げた瞬間、身体が宙に浮いた。男が彼を持ち上げていた。彼は男の手を振りほどこうと、ありったけの力で身体をよじった。今ここで、母と別れるわけにはいかないのだ。自分たち兄弟を取り上げた後、母は処分ころされるのだろう。

 「母さん、ここから逃げるんだ!逃げて、今すぐに!こいつら、母さんを殺そうとしている!!」

 彼は一生懸命、母に向かって叫んだ。だが母は、彼の言葉が理解出来なかった。寂しげな瞳で彼を見つめると、何十回も繰り返されてきた別れを受け入れるため、彼の顔を優しく舐めた。


 あの日以降、彼は母と再び会うことはなかった。自分が無力だったから、母を助けられず見殺しにしたのだ。その思いが、彼の心の中から消えなかった。だからこそ、彼はずっとこの空間で孤独に待っていた。生涯仕える、ただひとりの人間が現れる瞬間ときを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る