第2話

 岩村正子が早朝の散歩に出るのは、何十年にもわたる日課のひとつだ。今年五十歳を迎える正子は、自分のルーティンを乱されることを異常に嫌っていた。この年齢まで一度も結婚せずにきたのも、他人に自分のルーティンを乱されるのが許せなかったからだ。大学を卒業してすぐ入社した職場で、ずっと経理の仕事についていたが、細かい数字を扱う仕事は正子の性格に合っていた。一年中、黒い長袖に黒いロングスカートをまとう正子のことを、口の悪い同僚がシスターと呼んでいることは知っていたが、正子自身はその呼び方が気にならなかった。シスターのように、規則正しく慎ましい生活をしていることは、正子の誇りであったからだ。


 深夜からの雨が上がったその日の早朝も、正子は日課の散歩に出かけた。早朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むことは、この上ない贅沢な時間だった。新しい空気が身体を巡り、新しい自分を形成していく感覚があった。誰もいない早朝の公園は、正子が自分自身をリセットするための重要な時間でもあった。


 いつもの時間、いつもの散歩道、正子にとって、いつもの日常の始まりであったが、その朝は、ベンチで俯いて座る男の姿が目に入った。

「いやだ、酔っ払い?」

 正子は途端に不機嫌になった。朝から醜態をさらす人間の姿を見るのは、正子には不愉快以外の何者でもなかった。公園で寝なきゃいけないほどお酒を呑むなんて、なんて自制心がないのかしら。正子は足を速めた。酔っ払いの前を通ることは嫌であったが、ルーティンの散歩コースを逸れることには抵抗があった。たった一人の不愉快な人間のために、自分のルーティンが乱されるのも、非のない自分が何故、譲らなければならないのかと言う理不尽さを感じていた。男の前を通ることと散歩のコースを変更することを天秤にかけ、正子は男の前を通ることを選んだ。段々と近づく男をチラチラ見ながら、その前を一気に通り過ぎようとした。


 寝ている男は、まだ若いようだった。スーツを来て、全体的に身だしなみが整っている印象を受けた。昨晩からの雨で、身体はぐっしょりと濡れている。正子は遠目にそこまで確認すると、その男の前をさっと通りすぎた。

「ずいぶんと濡れていたけど、大丈夫かしら。」

 正子は足を止めた。暖かい季節とは言え、あんなに濡れていたら身体が冷え切っているだろう。声をかけた方がいいのではないだろうか。

 こんな感情は初めてのことだ。正子は迷った。だが、ここで寝ている人物は、信用に足るように思われた。

 「あの、大丈夫ですか?」

正子は思い切って声をかけた。

 「もう、朝ですよ」

 男の反応はない。正子は、肩に手をかけて揺すってみた。

 「あの…」

 男の身体がぐらりと動き、スローモーションのように前に倒れていった。その背広に数センチの裂け目があり、そこから白い皮膚が見えた。その白さに対比するように赤黒く口を開けた肉体を、正子は見た。

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