23
フェリシアの声で、ミレイユは釜から振り返って彼女の姿を目にした。
「フェリシアお姉ちゃん!? ど、どうしたんですか、そんなに濡れて」
「私のことはいいからっ! 薬、薬が必要なのよ! ありったけを持って教会に来て! 詳しいことは着いてから話すわ」
フェリシアの必死な形相に、ただ事ではないのがわかったミレイユはさっそく準備に取り掛かる。夕闇はマジック・ポーチを空にすると、そこに入るだけの薬品を放り込んだ。人命に関わることなのだろう。何者かの襲撃……もしかして魔物? いや、しかし探索で把握している限りでは魔物の生息域はイルンラクトの町付近にはない。何かが起こって、本来の縄張りを追われた者どもが町に押し寄せでもしたというのか? 夕闇はあれこれと推測をめぐらしたが、出発できる段階になってすべて振り払った。この目で見ないことにはどうしようもない。今は自分ができることをやるだけだ。
雨風の中を突っ切り、エルムーラ教会に到着して聖堂に入ると、長椅子の一部が壁際に寄せられており、床に敷かれた布の上に八人の負傷者が横たわっていた。
ミレイユは、彼らが皆見たことのない人たち、つまりは顔なじみの町民でないことに安心してしまった自分を恥じた。教会へと走っていく道中で、親しくしている町民たちを思い浮かべては不安を募らせていたのだから、そう感じるのは無理もないのだが。
別のシスターによって、町の医師と薬師、看護師たちが集まりつつあった。
夕闇はマジック・ポーチをミレイユに渡す。彼女は負傷者のもとへ駆け寄り、医師たちと話をし始めた。
幸いにも死に瀕しているほどの重傷を負った人物はいないようだ。心痛な呻き声をあげている者もいるが、その手足はしかと繋ぎ止められている。
練度の低い治癒魔法しか行使できない夕闇は少し離れた場所に立って観察していた。
夕闇は彼らの傷の状態よりも全員が何かに怯えている様子が気になった。すべて成人している男女だ。それぞれの顔を一瞥してみた夕闇は、若くても二十代、最も老いた人で六十過ぎとみなした。傷の手当てをしていることもあって、部分的に衣類がはだけられてはいたが、どうも全員が同じ恰好をしている。
「巡礼者ですね」
聞き覚えのある声がして、夕闇が声をしたほうを向く。すぐ近くまでエリカとイネスがきていた。
「巡礼者?」
「ええ、彼らの装いに覚えがあります。エルムーラ教会の巡礼者でしょう」
エルムーラ教会の聖地というと、大陸全土で三つの海と四つの山がある。
巡礼年が定められており、大きな教会では巡礼者を選抜するとその年のはじめに出発する。数年をかけて聖地と教会を巡り、還ってくる習わしである。多くても一つの教会につき、二十を超えない数と決められているこの巡礼は、ほとんどの場合、誰一人欠けずに済むことはない。それは一つに、巡礼者のうちで聖地の周辺の教会に留まりたいと希望する者が出て来るのが常であるからで、また一つにはどれだけ安全な道を選んで旅をしているつもりでも、災いは怪我や病気、時に魔物といった形で彼らを襲うものであるからだ。
「あんたがここに来たってことは、彼らの傷は魔物関連なわけね」
「ええ、そうです。シスターの一人が、大慌てて呼びに来ました。魔物に襲われた人がいるんです、と。このような際に頼りにされると思っていませんでしたが」
「教会を含め、町の人たちにとってあんたらは『魔物に詳しい人たち』ぐらいの認識なんでしょうね」
もしかすると噂が歪んで、管理局にいるエリカたち自身が魔物狩りをしているとみなされている可能性さえあった。
「それで、彼らはどこからきたんだ」
イネスの言葉に、夕闇はかぶりをふった。
とはいえ、まったく見当がついていないわけではない。なぜなら、ここイルンラクトで治療を受けているということは、言わずもがな周辺で襲われたということだ。それならば……。
「あの山を越えてきたってこと?」
「頂上まで登ってはいないでしょうが、山中を抜けてきたとは思いますね」
イルンラクトの属する国と隣国との国境線が指定されているレオブドール山脈のことだ。標高の低い部分には、それぞれの国の施設が建てられもしているが、高くに至ると人がまともに生活できる環境ではない。イルンラクトとは遠く離れているが、山脈の北端は管理局によって狩猟区域に指定されており、寒冷期には恐ろしい魔物が姿を見せる報告もある。
「そのまま安全な道を選べなかったのは気候のせいかしら。道標を見失いでもして、森深くに入ってしまったと。魔物が住み着くようになった森にね」
「正確な地図がないのでなんとも言えませんが、レオブドールから下りて、イルンラクトを目指すルートとなると、夕闇さんたちが探索している方面とは違いますね」
「ねぇ、こういうのって征討依頼が組まれると考えていいの?」
「ええ、十分にあります。彼らを襲った魔物の種類を突き止めて対策を練らないといけないですね」
ふと夕闇が思ったのは、探索ルートⅠを開拓するなかで、住処を追い立てられた魔物たちがいて、巡礼者が運悪くそれらに遭遇したという筋書きだった。ないとは言えない。もし仮にそうなら、彼らの「事故」の遠因は自分たちにある。
これをわざわざミレイユに話してみることはないが、ただ、確実な討伐には錬金術士である彼女の力が必要となりそうだ。
処置が一段落した。十一人の巡礼者の中で無傷に近い、三人の中の一人である女性から別室で事情をうかがうこととなった。ミレイユも合流する。
その女性は兄と共に、自身が巡礼者でありながら護衛も務めている騎士職の人間であるらしかった。
「というと、霊山騎士ですか」
エリカがその同い年ぐらいの女性に対して、眼鏡の位置を正しながら言った。
「い、いちおうはそうです」
「すみません、霊山騎士というのは?」
ミレイユがおずおずと訊ねた。
「各所にあるエルムーラ教会のうちで、歴史的背景によって組織された騎士団において任命された騎士です。聖地の一つであり、エルムーラの総本山とも言える山の麓に起源をもつので、他の騎士団と区別して霊山騎士と呼ばれるんです」
「ちなみに、歴史的背景ってのにはあまり突っ込まないほうがいいわよ」
余計な一言になるかもしれないとわかっていながらも、夕闇はミレイユにそう釘を刺しておいた。あくまでミレイユにだけ言い聞かせる調子の体裁をとった。
エルムーラ教会が騎士団を持つきっかけとなったのは、言ってしまえば武力による防衛手段を必要としたからで、武力によってしか解決できそうにない事態があったからである。そしてそれがたとえ今日においては武装集団というよりは教会内の商業的活動や金融活動と結びついている役職であってなお、戦闘力を有しているには違いなかった。
新米の霊山騎士だという女性は、カロリーナ・シュヴァイツェルと名乗った。
騎士よりは司書や法務官のような雰囲気があり、やや童顔で灰色がかった茶色の髪を後ろで一つに束ねている。左の目尻の下あたりに黒子が一つあった。
彼女の叔父であるドミニクが此度の巡礼における責任者であり、彼がカロリーナを含む他十名を先導していたのだった。どちらかと言えば頭より体を動かすのが得意である彼は聡明な姪に信頼を置き、旅路のあれこれを彼女に任せもしていた。
そして今、彼女はほぼ無傷で彼が最も深手を負っている。
「私のせいなんです……! 私が天候を読み違えてしまい、それだけではなく道も遠回りにはなるけれど、安全な側を選んだつもりが、こんなことになるなんて。叔父は私や他の巡礼者を庇って……!」
「カロリーナさん、誰にでも間違いはあるわ。いいえ、もしかすると貴女以外の誰かが道を選んでいれば、よりひどい、最悪の結果になっていた恐れもある」
「そうですよ! みなさん、怪我こそしていますが無事です。ちゃんと生きています。自分をそう責めないでください」
弱気になって落涙したカロリーナをエリカとミレイユが励ます。魔物の詳細を聞くのは時間がかかるだろうか、と夕闇が考えているとイネスが淡々と口にする。
「あなたがたを襲った魔物について詳しく教えてほしい。早急に手を打ちたい」
「は、はい。えっと……」
そうしてカロリーナから少しずつ、襲撃者について話を聞くのだった。
カロリーナの説明をもとに絵心のあるミレイユが、教会にあった筆記具を使って、魔物の姿を描き出してみる。イネスは、エリカの眼鏡の奥の瞳に不安がよぎったのを見逃さなかった。
「手強い相手なのか」
「きっとね。特徴から見当をつけてみるに、巡礼者たちを襲ったのは、レイニーウルフだと思うわ」
「
訊き返す夕闇に「そう」と言うエリカ。カロリーナはこれまで狼型の魔物と戦闘したことはなかったという。巡礼の護衛役というのは街の外では戦闘をいかに避けるかがポイントである。霊山騎士になって日の浅いカロリーナには征討業務経験もない。そもそも、叔父の推薦があってこそ巡礼に参加できた経緯があった。
「それは普通の狼さんたちとは全然違うんですか」
「ええ、ミレイユさんが知ってのとおり、ただの大きなイタチでも魔物化すると、鹿どころか熊をも喰らう怪物になるわ。レイニーウルフは雨に紛れて狩りを行う狼型の魔物で、その体表は雨を受けると迷彩効果を発揮するんです」
「なるほどね。この人の話だと急に降り出した雨だけでは説明できないような、視認性の低さ、手練れの騎士でさえ受け切れない奇襲攻撃。それはその迷彩効果があったからなのね」
かく言う夕闇も族長から授かったローブが気配を殺すのに役立つ魔法道具であった。相手が魔物となれば、単に特定の柄での風景へのカモフラージュではなく、体内の魔導物質を介した魔導反応によってなされた迷彩効果だろう。
「厄介な相手だな。どうする?」
イネスはミレイユと夕闇の顔を見やった。そのことはカロリーナの顔をしかめさせる。雰囲気からして、まるでここにいる少女たちが魔物狩りができる素振りである。
「ナヴァールさん、とおっしゃいましたよね」
「エリカでかまいませんよ。シュヴァイツェルさん、つらいだろうに話をしていただき助かりました。どうぞあちらの部屋でお休みになってください」
「私、フェリ……シスターと話をしてきますね! いろいろ準備しないといけないでしょうから」
ミレイユが出ていく。「ちょっと、待ちなさいよ」と夕闇が後を追う。
二人の背中を見送り、カロリーナがエリカに問う。
「……彼女たちは登録狩猟者ではありませんよね?」
「違います。正式には、ですが」
「つまり?」
「管理局の人間として言えるのはこうです。レイニーウルフの頭数と態度によって町への脅威レベルに高低はあります。ですが、討伐任務を発注するとなれば、それを受けて達成できる人材は今現在、イルンラクトでは彼女たちだけだと思われます」
イネスから戦況を逐一、報告してもらっているエリカである。
彼女たちの身のこなしというのが探索毎に洗練されていき、魔物討伐への抵抗意識が和らぎつつあるのも把握していた。管理局の事務員としては喜ぶべき事実であり、エリカ個人としては素直に喜べなかった。何かあってからでは遅いとわかっていても、自分より十歳近く若い少女たちに依頼を受けてもらっているのが実状で、それがエリカの仕事であった。
「冗談ではないようですね。ですが、そういうことであれば、この私も助力しなければなりません」
「ですが、あなたは怪我を……」
「していません。傷一つでないんです、私には」
「心はどうだ」
イネスの容赦ない指摘に、言葉を詰まらせるカロリーナ。
沈黙と共に、窓の外から聞こえる雨音が大きくなる。まだまだ止みそうにない。
カロリーナは強く噛んでいた唇を開いて、訥々と話し始める。その決意を。
「いずれ他の巡礼者たちが回復したら、巡礼に戻るつもりです。それが務めであります。そのときに霊山騎士が腰抜のままだったら、彼らの歩みは重く、止まってしまうかもしれない。私は霊山騎士、導き手としてどんな困難な道であっても怖じ気つくわけにはいかないんです」
「それで、荒療治でもしようという魂胆か。その剣でレイニーウルフを斬り伏せて、自身の不甲斐ない過去と恐れを断つのだと」
イネスの言葉にこくりと頷いたカロリーナを見て、エリカは止めても無駄だと確信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます