18
案外、ここに骨を埋める未来となるのかもしれないなと、ガストン室長は思った。
街にいた頃は毎日午前八時から午後十一時まで、管理局で働いていた。月に二日間ある休日のうち、片方は決まって緊急トラブルだかで出勤が命じられて、もう片方は泥のように眠って過ぎるというのを十数年繰り返した。
若かりし頃にできた恋人に別れを告げられたのはいつだったか。彼女が街の小さな花屋の一人息子と付き合い始めたのを知ると、悔しさはなく、ただ素直に彼らの幸福を祈った。
大勢の部下から慕われるタイプではなかったが、かと言って嫌われてもいなかった。どちらのタイプも同じ職場に自分以外にいたものだと、とガストンは回想する。そうした奴らには奴らなりの物語があり、日々、苦悩とそれを発散するための手段があったのだろうか。彼らなりの毎日の楽しみもまたあったのだろうか。
ガストンは真面目であったが、有能とは言い難い業務成績で、言ってしまえば代替の利く典型的な管理局の中間管理職員の一人だった。現場から遠ざかるとかえって、そうした管理職のほうが、きっかけさえあれば切り捨てられる存在となっていた。
ガストンがイルンラクトへの派遣辞令を受けた際に、それを栄転とは決して捉えなかったのは自身の能力と立場をよくよく弁えていたからである。
開局が無事に済めば、そのまま自分は元の街かあるいは別の辺鄙な支部局に飛ばされてしまうのではないかと勘ぐっていた。
四十過ぎの図体が大きいだけの男よりも、エリカ・ナヴァールのような若く綺麗な女性が、新たな支部長や副長に抜擢される可能性のほうがまだあるよなとガストンは思う。書面では記録されていないが、噂だと彼女は不祥事の尻拭いをさせられる形でイルンラクトに異動が命じられたらしいのだが。
イルンラクトに赴任し、管理局の会ったこともない上層部と町長との開局交渉気記録を現場で初めて確認できて、ガストンの考えは少し変わった。
確かに町自体は平穏であるが、しかし……。
管理局が目をつけた南に広がる森。隣国との境界となっている山脈。
そして――――。
「ナヴァールくん、この報告なんだが」
始業開始間もない、午前九時過ぎ。
ガストン室長は、自分の席に置かれた報告書類にざっと目を通して、すぐさまその報告主に声をかけた。
「ええ、それについて私も直にお話を、と思っておりました」
「相変わらず平然としているな、君は。この報告は想定内だということかね」
「いえ、驚きましたよ。わりと。ただ、一夜明けてなおそれを引きずることはないというだけで」
「それはその、こちらが昨日は定時でさっさと退勤したのを暗に非難しているわけじゃないんだろう?」
「もちろん、していないですよ。あの街では、できなかった定時退社を存分にしてください。室長が率先してくれないと、我々ができませんからね」
「我々も何も、まだほんの数人だがね」
がらんとした運営室はよく声が通る。運営室の開室数日で、面倒な手続き関係の書類仕事が粗方終わると、暇を持て余す人間さえいる現状だ。開局準備を進めるのに必要な人材は別に確保しないといけないというのに。
「私はあの子たちを待っていたから、昨日はすぐに帰らなかったというだけです」
「あの子たちというのは……この報告にある、ミレイユくんたちかね?」
ガストンはエリカの隣にどかっと腰掛けた。古びた椅子が軋む音。エリカは眼鏡の位置を指で正して肯いた。
「その報告書にも記したとおり、昨日の午後六時半ちょうどに、彼女たちは南の森から帰還してここに来ました。幸いにも、怪我一つなく。その探索の成果と共に」
「成果か。しかしね、ナヴァールくん。にわかには信じ難いよ。少女二人と、戦闘能力に乏しい解体者一人の計三人で、アウトウィーゼル他二種の魔物……合計十四体討伐とは」
「何もまとめて十体以上を相手にしたわけではないようですし、各個狩猟であれば装備と技術さえあれば可能でしょう。いえ、現にできています」
「解体した素材は?」
「簡易保管庫に。確認しますか」
「当然だ。同行してくれるか」
「ええ、暇ですから。っと、失言でしたね」
「かまわんさ」
二人は席を立つ。ガストンは無意識に袖を少しまくった。かつて恋人にもらった腕時計は街から出る際にお金に変えてきて、その左手首にはもうない。この町ではなくても困らなさそうだが、安物でも一本買っておくかと思い直した。
「これから忙しくなるのかもな。それと、保管庫に行く前にもう一つだけ」
「なんでしょう」
「カウンターの外、ずっと立ってこちらを見ているのはマザランくんだよな」
「気になさらないでください。そのうち慣れます。昨日の探索について、本人から詳しく訊きますか?」
「あ、ああ」
エリカはイネスの存在を空気と同等のものとみなしている、ガストンはそう理解したが、なんというか納得できない、したくないものがあった。
その日、ミレイユと
昨日の探索の疲れがあったからだ。無事に町に帰ってきてから、疲労回復にいいとされる特製の薬草茶を二人で飲んだが、夕闇にとってその味は一族の中でも炊事が苦手な、そして奇抜な調味料の新開発には無駄に意欲的な先輩魔女の料理を思い起こさせるものだった。精一杯、肯定的に表現して「懐かしい」味を、二度と口にしたくないわと主張した夕闇だった。
先に目が覚めたのは夕闇であったが、身動きができない。筋肉痛のせいだけではない。背中合わせで眠ったはずのミレイユが夕闇を後ろから抱きしめて離さないのであった。
「……いい香りすぎるでしょ」
昨夜は交代で一人ずつ入浴を済ませたが、同じ香り付きの液体石鹸を使って全身を洗った。魔除け薬剤の調合をした際の副産物、厳密にはそれと『錬金術式便利生活のすすめ其の六』に記載された洗浄剤のレシピからヒントを得て作ってみたものである。
しばしされるがままになっていた夕闇であったが、そろそろ離してほしくなり、身をよじって、ミレイユを起こしにかかった。「んっ……んっ」と小さな喘ぎ声がすぐ耳元でされると、夕闇はその艶めかしさに赤面した。
そしてやっとミレイユの抱きしめる力が緩まって、その心をかき乱す抱擁から抜け出せると思ったそのとき、夕闇のうなじ辺りをミレイユがちろりと舐めた。
「ひゃぁっ!?」
「うん?……ふわぁ。んっ……夕闇ちゃん、おはようございますぅ、すーっ……」
「ちょっ、馬鹿っ、また抱き着くなーっ! 寝るなーっ! さっさと起きなさい!」
「ほわっ!? なんですか、急に乱心しないでください!」
びたーん。最終的に、寝台から転げ落ちた夕闇だった。
「ミレイユ! 今日こそ寝台を買いに行くわよ、なんだったら錬金術で作りなさい! 部屋の模様替えよ、模様替え!」
後頭部をさすりながら夕闇が眉を逆立てる。
「ええっ!? な、何言っているんですか。今日は昨日の探索をもとに今後の方針を決めて、運営室にも出向くって決めたじゃないですか」
「頑張れば全部できるわよ。きりきり働きなさいっ」
「そ、そんなぁ」
午前十一時前。身支度を終えるとミレイユたちはとりあえず先に運営室に行くことにした。エリカやイネスたちと共に今後の探索や情報登録業務について打ち合わせしないといけない。
運営室に入ると、イネスが二人を迎えた。というより二人を見るなり、ずかずかと近寄ってきて運営室の外へと押し返した。そして自身も外に出て、ついてこいという仕草をする。
「どうしたのよ」
「エリカが室長と共に町役場にいる。あなたたち二人がここに来たらそこまで案内してほしいと頼まれた。それまで運営室で待機していた」
歩きながら話すイネスをミレイユが「あのっ!」と引きとめる。
「イネスさん、町役場ならこっちです」
「了解した」
他にも手はあっただろうから、エリカは単にイネスについてきてほしくなかったんでしょうねと夕闇は思った。本人は忠犬のように指示に従い、待っていたのがまた何とも言えない。
「町役場にも昨日の探索に関して、私たちから報告しないとならないのか?」
ミレイユを先頭に、後ろに夕闇とイネスが並んで歩く。身長差があるので、夕闇は見上げるようにして声をかけなければならない。
「おそらく」
「ふうん。ねぇ、ミレイユ。町役場の人たちってどんな感じなの?」
夕闇はイネスからは多くを聞き出せないと悟ると、すたすたと歩調を早めて、ミレイユの隣にきた。自然とイネスもそれに倣って、結局、三人横並びとなる。
「うーん。エリカさんみたいに、びしっとした人は少ないですね。みなさん、のんびりとしています」
「エリカはああ見えて、隙もある」
「そうなんですか。たとえば?」
「ふっ。あれは訓練学校時代のことだ。エリカが―――」
「今はあの管理局員の話はいいから!」
「そういえば、イネスさんって今はエリカさんと一緒に暮らしているんですか」
「ミレイユ、私の話聞いていた?」
「残念だが、違う。残念だが」
そうしてイネスが話してくれたことには、エリカやガストンは町役場が用意した物件にそれぞれ住んでいるらしい。対して、イネスは運営室の二階を居住スペースに改装して居着いている。教会に身を寄せる案もあったそうだが、運営室、つまりエリカの職場が遠いのでやめたのだった。
その点、運営室の二階に住めば仕事中のエリカをずっと見ていられると話すイネスに、ミレイユは「なるほどー」と微笑み、夕闇は途中から聞いていなかった。
そんなこんなで町役場に到着する三人。三階建ての中央広場ではひときわ目立つ建物だ。三階部分は職員の居住区となっていると聞く。町長他、数人は別に持ち家があるらしいが。
中に入ると何らかの手続きをしに来ている人が数名いたが、受付の女性は暇そうにしていた。慣れている町民ばかりで、窓口案内はほとんどしなくていいのだろう。その受付にて、ミレイユがエリカたちの動向を訊ねてみると「ああ、それなら」と二階の部屋を案内される。
夕闇は壁や床、階段の造りがあの運営室と比べるとかなりしっかりとしているのに感心する。ミレイユ曰く、例の流行り病が蔓延していた頃、この建物は病院としても機能したという。それに感染状況がひどかった場所が今では旧市街と呼ばれて、半ば放棄されている状態であるのも話した。
「流行り病がなければ、ここは都市として発展していたのか」
イネスが躊躇いなく訊いた。ミレイユはかぶりを振った。
「どうでしょう。そこまではわたしにも。外からきたお父さんは何も知りませんでしたし、フェリシアお姉ちゃんも生まれてすぐだったし、あとは……あっ、そういえば、薬師さんが『頓挫した大きな計画があった』と話していた覚えがあります」
「へぇ、この田舎町で? 大規模な街道整備や新しい農地開墾計画かしら」
「すぐにそんな候補が出てくるなんて夕闇ちゃんはすごいですね」
「ちょっ、こらっ、さりげなく頭を撫でるな!」
「頭を撫でると言えば、エリカがまだ十二歳だった頃に……」
「聞いていないから!」
和気あいあいとした雰囲気の中、目的の部屋の前まで来るとミレイユが扉をノックして名乗った。直後、「入りたまえ」と男の声がする。ガストンではない。
「遅かったじゃないか……」
部屋に入った三人を迎えたのは、エリカとガストン、そして仮面をつけた人物だった。
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