16
ミレイユと
ミレイユと姉妹のような仲を築いている若きシスター、フェリシア・ジャンメールは手作りの焼き菓子をいれたバスケットを携えて、ミレイユの家に向かっていた。時刻は午後三時にさしかかったところである。
その日がフェリシアにとって休息日であったに相違ないが、いつもであれば教会の手伝いを変わらずしている彼女だ。イルンラクトのエルムーラ教会の見習いシスターとして彼女が教会に身を寄せたのは十四歳の頃。農家に生まれた彼女であるが、両親と年の離れた兄は彼女が農作業をするよりは教会での奉仕活動に向いているのに早くから気づき、彼女の意思を認めて、その信条を尊重もした。
十八歳の時に正式なシスターとなったが、教会では短くても三年間の実務経験を経て一人前と認められるもので、それまでは半人前に過ぎない。
今現在、二十歳のフェリシアはイルンラクトにおける最年少のシスターであり、見習いの頃から町の信徒に愛されてきている。
彼女の美しい金髪や整った顔立ちは、時として若い町民の心を惑わせることもあった。幸い、事件に至ったことはない。
フェリシアがシスターとして生涯、配偶者を持たない決心を固めているのを周りが知っている。とはいえ数年前に三十路過ぎのシスターが町民の男性と婚姻した際には祝福していた。イルンラクトの信徒では比較的敬虔と言える彼女は、教会関係者含めて町の人たちのそれぞれの幸せを心より願っている。
そんな彼女が幼い頃から、妹分であるミレイユを可愛がっていて、悪い虫を寄せ付けないようにしていることは知る人ぞ知るところであった。
「ふっふっふ……今日の焼き菓子は一味も二味も違うわよ。この日のために、イルンラクト一の菓子職人であるアンナおばさまにご指導していただいて、上等なバターも分けてもらったわ」
ちなみにイルンラクトにおいて菓子職人と呼べる人物は片手で数えられるほどしかいない。加えて言うなら、フェリシアがより心惹かれているのは、行商人から聞いた、都市で流行している新鮮な果物をつかった生菓子であった。
「ああ、どうしましょう。ミレイユが『美味しい! フェリシアお姉ちゃん大好き! そうだ、今日からフェリシアお姉ちゃんもわたしの家で住みませんか? 毎日、わたしのためにお菓子を作ってください』なんて提案してきたら。ダメよ、ミレイユ。私はシスター。エルムーラに心も身も捧げたの。それにお菓子は毎日食べてはいけないわ。ああっ! でも、日に日に綺麗になっていくあの子にお願いされて断ることのできる人間なんているのかしら。いや、いないわ!」
ミレイユの家がある町はずれまでくると、フェリシアは心の中に気持ちを留めておくことができずに、独り言となって漏らしているのだった。これが初めてではないのは言うまでもない。
「それにしても、あの夕闇っていう女の子……何者なのかしら。あのミレイユに匹敵する可憐さであるとは言っても、いきなり現れて私のミレイユと同居しているなんて、ゆゆしき事態だわ。それならやっぱり、教会に来てくれたほうが……そうね、彼女さえ望めば、お姉ちゃんと呼ばれるのもやぶさかではないわ」
そんなことをぶつぶつと呟きながら、フェリシアはミレイユの家に到着した。出入り口の扉をノックする。「ミレイユ、今いいかしら。フェリシアよ」と扉越しに朗らかに声をかけた。ほどなくして、扉が開いて顔をのぞかせたのは夕闇だった。
「あら、夕闇さん。ごきげんよう。ミレイユは?」
「中にいる。ただ、忙しいがな」
「もしかしてまた釜をかき混ぜているの?」
「そうだ」
お薬を調合しているのであればしかたない、とフェリシアは思う。それは自他認める、ミレイユにとって大切な仕事だ。それを妨げるのは間違っている。しかしこれまでは、ミレイユが調合する曜日や時間帯は決まっていて、今日この時間帯は大丈夫と見込んでいたのだが……。
「入って、様子を見てもいいかしら」
フェリシアの言葉に夕闇は肯くとそのまま、出入り口から身をのけて彼女を通した。そして扉を夕闇が閉める。
知らない匂いだわ、とフェリシアは感じた。はじめ、それはこの家で暮らすようになった夕闇の香りかと思いもしたがそれにしては、どこか土臭さや鉄臭さがある。夕闇にはない匂いだ。ミレイユの調合している姿を見守ったことは何度かある。薬の調合時に立つ匂いは独特であったが、慣れてしまえば不快では決してない。
かつてミレイユ自身がフェリシアに説明してくれたことには、薬によっては調合の際に十分な換気を行い、口のみではなく目鼻を保護するマスクを着用するのだという。
「何を調合しているのかしら」
調合に夢中になっているミレイユには声をかけずに、フェリシアは夕闇と話すことにした。促されるまでもなくテーブルにつく。夕闇もそれに倣う。
「あー……管理局の手伝いに必要なものだ」
「管理局って、魔導管理局? ここにも支部ができるって話は聞いたけれど、ミレイユにも声がかかったの?」
「そうだ。薬が調合できて、植物に詳しい。管理局としては欲しい人材だ」
「知らなかったわ。私に相談してくれてもよかったのに。もしかして夕闇さんは管理局の人間なの? 森で行き倒れていたって話だけれど」
「まぁ、中らずと雖も遠からずだ」
「へぇ……。ねぇ、ミレイユが危ない目に合わないわよね? まさか魔物退治なんてしないわよね。管理局って魔物の狩猟や討伐もお仕事だって聞くわ」
「我から仔細を話すのは筋が通っていないが、我から言えるのは、何があってもミレイユを護ってみせるということだ」
「え? ど、どういうこと?」
夕闇としては、ミレイユの身を案じるフェリシアを多少なりとも安心させようとした発言であった。同時に、ミレイユと夕闇とが既に魔物と遭遇しており、その調査と狩猟に準備ができしだい出発しようとしていることは、できれば今は知られたくないという思いもあった。ミレイユに姉と慕われている彼女が、その行動を簡単に許さないのは察しがついたのである。
「そのままの意味だ。もし万一、管理局の手伝い中に危険と相対した場合は、必ずミレイユの無事を優先して動くと約束しよう。だから……」
今はあまり詮索しないでほしいと口にしようとした夕闇だったが、それはフェリシアによって遮られる。
「――――なるほどね」
「うん?」
「一目惚れってやつなのね」
「……は?」
「驚かないわ。ええ、こんな日が来ることはミレイユの可愛さをもってすれば予測可能で回避不可能な事態だもの。でもね、夕闇さん。それとこの私が貴女を応援する側に回るかは別よ」
「何を言っている」
「とぼけないでいいわ。大丈夫、ミレイユは調合中だから聞いていないわよ」
「何が言いたいのだ」
「惚れたんでしょう? ミレイユに」
「は?」
予想だにしない、フェリシアのとんでもない誤解に夕闇はなんと応じればいいのか、わからなかった。即座に否定することで、かえって何か悪い状況を引き起こす、つまり都合の悪くなる言質をとられてしまうのではないかと深読みすらした。
そうして生じた
ちょうど先輩のシスターから、他の町の教会では告解室と呼ばれる個室が設置されており、日々、信徒に限らずその地で暮らす人々が彼らの罪であったり、日常の悩みや迷いであったりを司祭に秘密に打ち明ける話を聞いたばかりであった。
「できましたーっ!!」
夕闇とフェリシアの間に流れた奇妙な気配は、ミレイユの歓声で霧散した。
釜から錬金杖を引き抜き、持ち上げて喜んでいる。
「夕闇ちゃん、できましたよ! これで準備は整いました! 明日には南の森へいざ……あれ? フェリシアお姉ちゃん? いつの間に?」
「ついさっきだ。それで、完成品を見せてくれるか?」
「はい! 釜の中にあります。あ、でもまだ安定していないから触れるのはダメですよ。数時間もすれば使用可能になると思います」
「そう。だとしたら、明日は試験運用をしてみて、それで問題なければ明後日に出発ね。あんたも後は調合を控えて、英気を養いなさい。……ありがとね、お疲れ様」
夕闇がそう言うと「えへへ」とはにかむミレイユ。さっそく釜の中をのぞき込む夕闇だった。ミレイユは大きく伸びをすると、へなへなとそのまま腕をゆっくり下ろした。朝一に開始して、九時間足らずかけての調合がようやく終了したのだった。それに昨日、一昨日もかなりの時間を調合に費やしている。
フェリシアはそんな二人の様子を交互に見てから、突如、叫んだ。
「ちょーっと、待ったぁ!」
「わわっ、どうしたんですか。あっ! そのバスケットはもしかしてまたお菓子を作ってきてくれたんですか。わぁ! いつもありがとう、フェリシアお姉ちゃん!」
「ふふっ、どういたしまして。今日のはね、いつもより特別なの。きっと気に入って……って、そうじゃなくて! ミレイユ、どういうこと。南の森に何をしにいくの? お姉ちゃん、何も聞いていないわよ」
「植物調査だ。ミレイユの知識が有用なのだ。護身用の武具を調合してもらった。そう心配する必要はない。町の近くまでしか探索しないからな」
しれっと夕闇が嘘をつく。ミレイユに目配せするが、彼女は首をかしげた。フェリシアは、そんなミレイユの様子から真実は別にあるのだと確信した。
「ねぇ、ミレイユ。本当のことを言ってちょうだいな」
「ええと……そうですね、隠しているのも悪いですし」
夕闇は「はぁ」と溜息をついて、あとはミレイユに任せることにした。そもそもの話、最初からそうすればよかった。どういうわけか、ついついお節介を焼いてしまった。この少女にはどうも調子を狂わせられてばかりだと夕闇は思った。
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